第8話 灰とダイヤモンド
風が止んだ。
丘の上には、真っ白な雪と、静寂だけがあった。
眼下に広がる帝都ガレリアからは、もう不吉な黒い煙は上がっていない。
空は驚くほど青く、澄み渡っている。
まるで、悪い夢など最初からなかったかのように。
けれど、夢ではなかった。
私の隣には、煤まみれのカイルがいる。
そして、私の目の前には、何もなかった。
「……ないですね」
私は呟いた。
そこにあるはずの、黒くて大きくて、頼もしい鉄の箱。
私の愛車。『スイートホーム号』。
影も形もない。
対消滅の閃光は、オリジンと共に私の家を完全に消し去っていた。
「ああ。……見事に何もないな」
カイルが私の肩を抱き寄せたまま、同意した。
彼の体温がなければ、私はその場に座り込んでいたかもしれない。
喪失感は、痛みというよりは寒さに似ていた。
心の中に冷たい風が吹き抜けていく。
「全損です。保険も適用外でしょうね」
私は乾いた声で軽口を叩いた。
「古代のミスリル合金に、ドラゴンの素材、それに内装の特注家具……ざっと見積もって、国家予算の三年分は飛びました」
「高い花火だったな」
「ええ、世界一ゴージャスな花火でした」
泣いてはいけない。
泣いたら、私が自分で選んだ決断を後悔することになる。
これは投資だ。
カイルという未来を手に入れるための、必要経費だ。
そう自分に言い聞かせるけれど、視界がどうしても滲んでしまう。
ザッ、ザッ。
雪を踏みしめる音が近づいてきた。
振り返ると、赤い軍服の女性――セシリア皇女が、数人の兵士を引き連れて登ってくるところだった。
そして、その中央には、移動用の椅子に座った老皇帝の姿もあった。
「……無事だったか」
セシリアが私たちを見て、安堵の息を吐いた。
彼女もまた、煤と泥にまみれている。
「地下の反応は消滅した。帝都の魔力汚染も、急速に数値が下がっている。……救われたのだ、この国は」
彼女は真っ直ぐに私を見据え、そして深々と頭を下げた。
皇族が、平民に頭を下げる。
あり得ない光景だ。
「礼を言う、エリカ・フォン・クロイツ。貴女の犠牲が、我々を生かした」
「……顔を上げてください、殿下」
私は努めてビジネスライクに返した。
「感謝の言葉よりも、実入りのある話をお願いします。見ての通り、私は無一文の宿無しになりましたから」
皇帝が、震える手で椅子のアームレストを叩いた。
「……カイルよ」
老いた声が、カイルを呼ぶ。
「そして、娘よ。……見事だった」
皇帝の瞳からは、以前のような鋭い殺気は消えていた。
あるのは、憑き物が落ちたような静けさと、疲労の色。
「余の負けだ。オリジンの力に固執し、国の未来を見誤っていた。……貴様らの示した『力』こそが、真に人を守るものだったな」
皇帝は懐から、一枚の書状を取り出した。
「約束しよう。我が国の全力を挙げて、貴様の損失を補填する。金貨でも、領地でも、爵位でも、望むままに与えよう。……あの車とやらも、最高の職人を集めて再建させよう」
魅力的な提案だ。
帝国の技術力と資金があれば、もっと凄い車が作れるかもしれない。
一瞬、心が揺れた。
けれど、私は首を横に振った。
「お金は頂きます。きっちり、利子をつけて請求させていただきます」
私はきっぱりと言った。
「ですが、車は結構です。……あれと同じものは、もう二度と作れませんから」
あの車には、私の前世の記憶とリンクしたブラックボックスが使われていた。
オリジンが消滅した今、その技術を再現することは不可能だ。
何より、あの車に染み付いていた「思い出」は、職人がどれだけ腕を振るっても戻ってこない。
カイルと初めて出会った夜のスープの匂い。
二人で見た星空。
喧嘩して、仲直りした空気。
それは、あの『スイートホーム号』だけのものだ。
「……そうか」
皇帝は寂しげに目を伏せた。
「ならば、せめてもの詫びとして、カイルへの追放令を撤回する。いつでも戻ってくるがいい」
カイルは私を見た。
私は黙って彼に委ねた。
彼は皇帝に向き直り、静かに告げた。
「感謝します、陛下。ですが、俺の居場所はここです。……俺は、この商会の永久就職組ですので」
カイルが私の肩を抱く手に力を込めた。
皇帝は微かに口元を緩め、「そうか」とだけ言った。
それが、彼らなりの和解なのだろう。
皇帝たちが去り、再び二人きりになった。
風が冷たい。
でも、不思議と寒くはなかった。
「エリカ。手を出せ」
カイルが言った。
「なんですか? 請求書ならまだ作成中ですよ」
「いいから」
私が掌を差し出すと、彼はポケットから何かを取り出し、握らせた。
ゴツゴツとした、温かい石。
開いてみると、それは歪な形をした、煤けた結晶だった。
「これは……」
見覚えがある。
車のメインキーに使っていた魔石だ。
熱で溶けかかり、形が変わってしまっているけれど、その奥で微かに光が明滅している。
「脱出する時、これだけはコンソールから引っこ抜いてきた」
カイルが照れくさそうに鼻を擦った。
「車体は灰になっちまったが、心臓は残ってる。……これを持っていれば、いつかまた、新しい家を作れるはずだ」
灰とダイヤモンド。
全てが燃え尽きた後に残った、たった一つの確かな輝き。
私はその石を、両手で包み込むように胸に抱いた。
涙がまた溢れてきた。
でも今度は、悲しみの涙ではない。
「……カイル様。貴方は本当に、優秀な従業員ですね」
「だろ? ボーナスを期待してるぞ」
「検討します。……まずは、ここから降りる方法を考えないと」
私たちは笑い合った。
車はない。
家もない。
あるのは、莫大な賠償金の約束手形と、この溶けた魔石、そして隣にいるパートナーだけ。
「十分です」
私は空を見上げた。
「これだけあれば、どこからだって始められます」
太陽が真上に昇り、雪原を照らした。
私たちの影が、長く伸びている。
それは、これから始まる新しい旅路を指し示しているようだった。
「さあ、行きましょうか。お腹も空きましたし」
「ああ。帝都の飯は不味そうだが、お前が選ぶ店なら間違いないだろう」
カイルが私の手を取り、エスコートするように歩き出す。
雪を踏む音が、希望のリズムを刻んでいた。
次話、何もない場所からの、ゼロ・スタート。




