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【第3章完結!】国を捨て、悪役令嬢は優雅な旅に出る  作者: 月雅
第3章

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第8話 灰とダイヤモンド



風が止んだ。


丘の上には、真っ白な雪と、静寂だけがあった。

眼下に広がる帝都ガレリアからは、もう不吉な黒い煙は上がっていない。

空は驚くほど青く、澄み渡っている。

まるで、悪い夢など最初からなかったかのように。


けれど、夢ではなかった。

私の隣には、煤まみれのカイルがいる。

そして、私の目の前には、何もなかった。


「……ないですね」


私は呟いた。

そこにあるはずの、黒くて大きくて、頼もしい鉄の箱。

私の愛車。『スイートホーム号』。

影も形もない。

対消滅の閃光は、オリジンと共に私の家を完全に消し去っていた。


「ああ。……見事に何もないな」


カイルが私の肩を抱き寄せたまま、同意した。

彼の体温がなければ、私はその場に座り込んでいたかもしれない。

喪失感は、痛みというよりは寒さに似ていた。

心の中に冷たい風が吹き抜けていく。


「全損です。保険も適用外でしょうね」

私は乾いた声で軽口を叩いた。

「古代のミスリル合金に、ドラゴンの素材、それに内装の特注家具……ざっと見積もって、国家予算の三年分は飛びました」


「高い花火だったな」

「ええ、世界一ゴージャスな花火でした」


泣いてはいけない。

泣いたら、私が自分で選んだ決断を後悔することになる。

これは投資だ。

カイルという未来を手に入れるための、必要経費だ。

そう自分に言い聞かせるけれど、視界がどうしても滲んでしまう。


ザッ、ザッ。


雪を踏みしめる音が近づいてきた。

振り返ると、赤い軍服の女性――セシリア皇女が、数人の兵士を引き連れて登ってくるところだった。

そして、その中央には、移動用の椅子に座った老皇帝の姿もあった。


「……無事だったか」

セシリアが私たちを見て、安堵の息を吐いた。

彼女もまた、煤と泥にまみれている。

「地下の反応は消滅した。帝都の魔力汚染も、急速に数値が下がっている。……救われたのだ、この国は」


彼女は真っ直ぐに私を見据え、そして深々と頭を下げた。

皇族が、平民に頭を下げる。

あり得ない光景だ。


「礼を言う、エリカ・フォン・クロイツ。貴女の犠牲が、我々を生かした」


「……顔を上げてください、殿下」

私は努めてビジネスライクに返した。

「感謝の言葉よりも、実入りのある話をお願いします。見ての通り、私は無一文の宿無しになりましたから」


皇帝が、震える手で椅子のアームレストを叩いた。

「……カイルよ」

老いた声が、カイルを呼ぶ。

「そして、娘よ。……見事だった」


皇帝の瞳からは、以前のような鋭い殺気は消えていた。

あるのは、憑き物が落ちたような静けさと、疲労の色。


「余の負けだ。オリジンの力に固執し、国の未来を見誤っていた。……貴様らの示した『力』こそが、真に人を守るものだったな」


皇帝は懐から、一枚の書状を取り出した。

「約束しよう。我が国の全力を挙げて、貴様の損失を補填する。金貨でも、領地でも、爵位でも、望むままに与えよう。……あの車とやらも、最高の職人を集めて再建させよう」


魅力的な提案だ。

帝国の技術力と資金があれば、もっと凄い車が作れるかもしれない。

一瞬、心が揺れた。


けれど、私は首を横に振った。


「お金は頂きます。きっちり、利子をつけて請求させていただきます」

私はきっぱりと言った。

「ですが、車は結構です。……あれと同じものは、もう二度と作れませんから」


あの車には、私の前世の記憶とリンクしたブラックボックスが使われていた。

オリジンが消滅した今、その技術を再現することは不可能だ。

何より、あの車に染み付いていた「思い出」は、職人がどれだけ腕を振るっても戻ってこない。

カイルと初めて出会った夜のスープの匂い。

二人で見た星空。

喧嘩して、仲直りした空気。

それは、あの『スイートホーム号』だけのものだ。


「……そうか」

皇帝は寂しげに目を伏せた。

「ならば、せめてもの詫びとして、カイルへの追放令を撤回する。いつでも戻ってくるがいい」


カイルは私を見た。

私は黙って彼に委ねた。

彼は皇帝に向き直り、静かに告げた。


「感謝します、陛下。ですが、俺の居場所はここです。……俺は、この商会の永久就職組ですので」


カイルが私の肩を抱く手に力を込めた。

皇帝は微かに口元を緩め、「そうか」とだけ言った。

それが、彼らなりの和解なのだろう。


皇帝たちが去り、再び二人きりになった。

風が冷たい。

でも、不思議と寒くはなかった。


「エリカ。手を出せ」

カイルが言った。

「なんですか? 請求書ならまだ作成中ですよ」

「いいから」


私が掌を差し出すと、彼はポケットから何かを取り出し、握らせた。

ゴツゴツとした、温かい石。

開いてみると、それは歪な形をした、煤けた結晶だった。


「これは……」


見覚えがある。

車のメインキーに使っていた魔石だ。

熱で溶けかかり、形が変わってしまっているけれど、その奥で微かに光が明滅している。


「脱出する時、これだけはコンソールから引っこ抜いてきた」

カイルが照れくさそうに鼻を擦った。

「車体は灰になっちまったが、心臓は残ってる。……これを持っていれば、いつかまた、新しい家を作れるはずだ」


灰とダイヤモンド。

全てが燃え尽きた後に残った、たった一つの確かな輝き。


私はその石を、両手で包み込むように胸に抱いた。

涙がまた溢れてきた。

でも今度は、悲しみの涙ではない。


「……カイル様。貴方は本当に、優秀な従業員ですね」

「だろ? ボーナスを期待してるぞ」

「検討します。……まずは、ここから降りる方法を考えないと」


私たちは笑い合った。

車はない。

家もない。

あるのは、莫大な賠償金の約束手形と、この溶けた魔石、そして隣にいるパートナーだけ。


「十分です」

私は空を見上げた。

「これだけあれば、どこからだって始められます」


太陽が真上に昇り、雪原を照らした。

私たちの影が、長く伸びている。

それは、これから始まる新しい旅路を指し示しているようだった。


「さあ、行きましょうか。お腹も空きましたし」

「ああ。帝都の飯は不味そうだが、お前が選ぶ店なら間違いないだろう」


カイルが私の手を取り、エスコートするように歩き出す。

雪を踏む音が、希望のリズムを刻んでいた。


次話、何もない場所からの、ゼロ・スタート。


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