第6話 究極の天秤
指先が震えるのを、もう片方の手で押さえつけた。
ホログラムの時計は、無情に時を刻んでいる。
あと十分。
それ以内にオリジンの暴走を止めなければ、帝都ガレリアは地図から消滅する。
そして、その余波は周辺諸国をも巻き込み、世界規模の魔力汚染を引き起こすだろう。
「……損害賠償額、算出不能」
乾いた唇で呟く。
私が守りたいもの。
私が積み上げてきたもの。
天秤にかけるまでもないはずだ。
世界が滅べば、商売もできない。
お金も使えない。
だから、これは合理的な判断だ。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥が張り裂けそうに痛い。
ズガァァァン!!
頭上で轟音が響いた。
地下空間の天井が崩落し、巨大な瓦礫と共に黒い塊が降ってきた。
着地と同時に、重厚なサスペンションが衝撃を吸収し、車体が沈み込む。
『スイートホーム号』。
私の愛車であり、私の城であり、私の全財産。
ボディには無数の傷がついているが、そのフォルムは変わらず美しい。
私の夢の結晶だ。
「持ってきたぞ、エリカ!」
運転席からカイルが飛び降りてきた。
その手には、私が頼んだ枕と、ヴィンテージワインのボトルが握られている。
彼は約束を守った。
瓦礫の山を越え、崩落する道を駆け抜け、私の「家」をここまで運んできたのだ。
「……ありがとうございます」
私は震える声で礼を言い、車体に触れた。
冷たい金属の感触。
けれど、中には温かいリビングがあり、ふかふかのベッドがあり、そして彼と過ごした日々の記憶が詰まっている。
「エリカ、本当にやるのか?」
カイルが私の手首を掴んだ。
その力は強く、そして痛いほど切実だった。
「他の方法があるはずだ。探そう。俺が魔力を全部使い果たしてもいい。お前の車を……お前の夢を、こんな形で終わらせるなんて間違ってる!」
彼は知っているのだ。
私がどれだけの情熱を注いでこの車を作ったか。
婚約破棄され、国を追われ、それでもこの車があったから笑っていられたことを。
彼は、私の過去も、私の弱さも、すべて知っている。
「……カイル様」
私は彼の手を解き、真っ直ぐに見つめた。
「計算したんです。この車を作るのにかかった費用と、これからの維持費。それと、貴方が生きる世界がなくなる損失」
「そんな計算をしている場合か!」
「ええ、商売人ですから」
私は強がって笑った。
涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。
「貴方がいない世界で、私一人だけ快適な車に乗って生き延びても……きっと、ちっとも楽しくないんです。ご飯も美味しくないし、枕も固く感じるでしょう」
それは、私が初めて認めた本音だった。
快適さとは、機能のことではない。
性能のことでもない。
誰といるか。
誰と笑い合うか。
それが欠けていれば、どんなに豪華な設備もただの箱だ。
「だから、これは投資です。未来の私たちへの、先行投資」
カイルは言葉を失い、顔を歪めた。
悔しそうに、悲しそうに。
そして、愛おしそうに。
「……馬鹿野郎」
彼は私を強く抱きしめた。
「俺の命なんかより、お前の夢の方がずっと価値があるのに。……一生かけても償えないぞ、こんな借金」
「ええ。ですから、一生かけて返してもらいます。体でね」
彼の胸に顔を埋める。
鼓動が聞こえる。
生きている。
温かい。
これさえあれば、私はまたやり直せる。
何度だって、ゼロから。
「……準備はいいか」
カイルが体を離し、私の涙を親指で拭った。
「ああ。行くぞ、エリカ。最後のドライブだ」
私たちは頷き合い、車のハッチを開けた。
乗り慣れたステップ。
革張りのシートの匂い。
すべてが愛おしくて、胸が詰まる。
「セシリア殿下、避難してください!」
私はまだ呆然としている皇女に向かって叫んだ。
「ここを中心に対消滅反応が起きます! 巻き込まれたら塵も残りませんよ!」
セシリアはハッとして、私たちと、そして狂い始めたオリジンの中枢を見比べた。
「……すまない。この恩は、帝国全土を持ってしても返しきれん」
「請求書は後で送りますから、今は走って!」
セシリアが兵士たちを促し、撤退を始める。
広い地下空間に、私とカイル、そして暴走する光の柱だけが残された。
私は運転席に座った。
カイルは助手席だ。
いつもの配置。
これが最後になるなんて、信じたくない。
「システム・オールグリーン。動力炉、同期モードへ移行」
パネルを操作する指が、迷いなく動く。
車内の魔力炉が唸りを上げ、オリジンの波長に合わせて共鳴を始める。
車体が激しく振動する。
拒絶反応だ。
二つの巨大なエネルギーが反発し合っている。
「カイル様、押さえて!」
「任せろ!」
カイルが腕輪を通じて、自身の魔力を注ぎ込む。
彼の黄金色の闘気が、車全体を包み込み、強制的に安定させる。
無理やりだ。
車体が悲鳴を上げている。
でも、保たせる。
「ターゲット、オリジン・コア。距離、三百メートル」
目の前には、黒く変色した水晶柱。
そこから溢れ出す死の光が、私たちを飲み込もうと渦巻いている。
あの中に突っ込む。
そして、接触の瞬間に動力炉を暴走させ、対消滅を起こす。
脱出のタイミングは、衝突の0.1秒前。
早すぎれば失敗する。
遅ければ、私たちも消滅する。
「……怖くないと言えば、嘘になります」
ハンドルを握る手が汗ばむ。
「手が震えて、うまく運転できないかもしれません」
すると、大きな手が私の手の上に重なった。
カイルの手だ。
「俺が支える。ハンドルは離すな」
彼は前を見据えたまま言った。
「俺たちは二人で一つだ。お前がアクセルを踏み、俺が道を切り開く。今までだってそうだっただろう?」
そうだ。
商業都市からの脱出も。
ヴァインとの戦いも。
私たちは二人で乗り越えてきた。
今回だって、きっと大丈夫。
「……はい」
私は深呼吸をした。
震えが止まる。
視界がクリアになる。
「行きますよ、カイル様。……さよなら、私のスイートホーム」
私は別れの言葉を口にして、アクセルペダルを床まで踏み込んだ。
ズオオオオォォッ!!
『スイートホーム号』が咆哮する。
スラスター全開。
タイヤが空転し、そして地面を噛む。
猛烈な加速Gが体をシートに押し付ける。
「うおおおおぉッ!」
カイルが叫ぶ。
前方から押し寄せる魔力の波を、彼の闘気が切り裂いていく。
道ができる。
光の奔流の中へ、私たちは真っ直ぐに突き進む。
「突入まで、あと五秒!」
カウントダウン。
風景が流線となって後ろへ飛び去る。
迫りくる黒いコア。
あれが、私の前世の因縁であり、この世界の災厄。
そして、私の愛車が眠るべき墓標。
「四、三、二……!」
私はカイルを見た。
彼も私を見ていた。
言葉はいらない。
私たちは同時に、脱出レバーに手をかけた。
「一……今ッ!」
レバーを引く。
同時に、車の動力炉を臨界突破させるコマンドを叩き込む。
『サヨウナラ、マスター』
システム音声が、最後にそう言った気がした。
直後。
世界が白一色に染まった。
次話、閃光の彼方。失われたものと、残されたもの。




