第85話 光の旅路
遠くに見える山の木々は徐々に葉を落とし、大陸に本格的な冬の訪れを告げていた。
馬車の窓から、枢機卿ロイデンはその風景を眺めていた。
不意に、ガツンと下から突き上げるような振動が伝わる。
「おい! もっと丁寧に走らせんか!」
ロイデンは御者に怒鳴ると腕を組み、視線を手元に戻した。
「まったく、この道の悪さはどうにかならんのか」
「猊下、ナルディア王国はそこまで豊かな国ではございません。今しばらくご辛抱を」
向かいに座る側近の神官──ネルソンが申し訳なさそうな表情でロイデンをなだめた。
法王国聖都での枢機卿会議において、マレンデールへの布教を命じられたロイデン。その一行を乗せた馬車は、イルスレイド王国の北に位置するナルディア王国の田舎道を進んでいた。
「……猊下」
「なんだ」
様子を窺うようなネルソンの呼びかけに、ロイデンは明らかに不機嫌な態度で短く応えた。
ネルソンはたちまち視線を下げ、か細い声で続ける。
「恐れながら……この時期であれば、南のシャリューンからマレンデールへ入った方がよろしかったのでは? あちらはこの時期もまだ暖かいと伺っておりますが……」
「よいのだ」
命を受けてから出発までの間、ロイデンはひたすらこの命令の意味を考えていた。
──マレンデール。
ガルナック帝国とシャリューン王国の国境付近に広がる、険しい山岳地帯。
これまで、幾人もの神官や枢機卿が布教の命を受け彼の地へ赴いたが、なんら成果を収めることなく、病による帰国や客死と不遇な結末を迎えていた。
(挽回の機会、か)
ロイデンの口の端がわずかに歪んだ。
枢機卿会議の場で、司会役が彼に命じた言葉が蘇る。
『──誠に、残念な結果となりましたな』
『聖下は慈悲深いお方です。ロイデン猊下に挽回の機会をお与えになりました』
あの重苦しい空気がまだ首の周りにまとわりついているようで、思い出すだけでも悪寒を覚える。
あの時、肩を落としながら席を立ったロイデンへ、司会役は柔らかな声をかけた。
『マレンデールの地で、聖下の長年の悲願を果たされよ。さすれば必ずや聖下もお認めになられます』
耳触りの良い言葉だった。しかしロイデンは、その言葉の裏を読んでいた。
(使い潰す気だ、この私を)
マレンデールで成果を上げられる者など、これまで一人もいなかった。ましてや、今回は『古の禁忌』の確保も命じられている。
つまり、失敗を承知でロイデンに任せているに違いないのだ。
前任者と同様に成果を上げられぬまま、やがて無能の烙印を押され、文書庫の歴代枢機卿名簿にたった一行、名前だけ記される存在となる──その未来がすぐそばまで近づいていた。
会議の帰り際に会った、異端審問官ソルダムの嘲るような態度が忘れられない。
『……猊下がイルスレイドに残されました火種──テルネーゼ家の娘の処理を引き受けさせていただきました』
(ふざけるな)
ギリッと奥歯を噛みしめた瞬間、馬車が大きく跳ねた。ロイデンは咄嗟に窓枠を掴んで体を支えた。
「猊下、大丈夫でございますか?」
「……ああ」
ネルソンの心配そうな声に、短く答える。
ロイデンは再び窓の外へ視線を戻した。
使い潰されるだけと分かった以上、ただの駒でいるつもりはなかった。
──ならば、どうするか。
聖都を発つ数日前の夜、彼は自室で一枚の地図を広げていた。
イルスレイド王国を入国禁止となった今、マレンデールへの経路は北のナルディア王国か南のシャリューン王国となった。
もっとも、イルスレイド王国とマレンデールの間には断崖絶壁の山々が連なり、イルスレイドからは直接向かうことはできない。
ネルソンの言うとおり、南の方が幾分快適に進むことができただろう。それは気候だけの話ではない。シャリューン王国は精霊信仰の国、法王国に対しては良くも悪くも中立だ。
対する北のルート。
ナルディア王国まではまだ良い。この国は教会の力が及んでいる。だが問題は、北からマレンデールへ入るには最終的にガルナック帝国を通らねばならないということだ。帝国は帝国正教会、つまり法王国にとって敵地だ。
教会の威光など通用しない。それどころか襲われる危険すらある。
それでも、北を選んだ。
敵地であるということは、法王国の監視の目から離れられるということでもある。彼にはどうしても接触したい者たちがいた。それは、帝国正教会の中のある一派だった。
──十数年前、帝国が竜を手に入れようとした。
数年前、大陸各地への巡行の最中にロイデンが偶然耳にした噂だ。当時、詳細までは分からなかった。だが現在、聖都の連中が危機感を募らせていることを考えると、彼らも別のルートでその噂を聞きつけたのかもしれない。
だがロイデンは、おそらく聖都が知らないであろう噂も耳にしていた。それは、竜の確保には帝国正教会のある一派が関係していたということだ。
当時は単なる好奇心で調査していた。だが、伝手を頼りにその一派が実在するということを掴み、その後彼らとの書簡のやり取りに成功していたのだ。
その一派は法王国を出し抜くためなら、その法王国の人間と手を組むことすら厭わない連中だった。
今思えば、これは神の思し召しに違いない。
(そう、彼らなら……)
ロイデンの脳内である考えが形成されようとしていた。
なにも聖都の言うとおりに〝布教〟を進める必要はない。竜の確保は、それだけで本国でのパワーバランスをひっくり返しかねない重大事項だ。
(このまま大人しく使い潰されてやるつもりはない。返り咲きなどではない。さらにその上を……)
馬車の振動が、ロイデンを現実へと引き戻した。
「猊下、あと半日ほどでナルディア王国を抜けます。帝国領内では、この法衣姿はあまりよろしくないかと。次の宿場で一泊し、着替えましょう」
「うむ。そうしよう」
ネルソンの提案に、ロイデンは鷹揚にうなずいた。
この側近は、聖都での処分以来、この旅に同行してきた数少ない神官の一人だ。彼が本心から忠実なのか、それとも法王国の監視役として送られたのか──ロイデンにはまだ判別がついていない。
だが、どちらでも構わなかった。
ネルソンに見せるのは、あくまで「使命に忠実な枢機卿」の姿だけだ。真の計画は彼の胸の奥だけにある。
(やがて、分かる時が来るだろう。どちら側にいるか)
ロイデンは目を閉じた。
今進んでいる、遥か西の未だ見ぬ地へ続く道。
それは敗走の道ではない。
ロイデンには、神が与え給うた一筋の光の道に思えた。




