第86話 地の果ての入口
雲の合間から差す冬の柔らかな陽の光が、遥か北に見える朱や金に染まった山々を照らしていた。
冬──とはいえ、ここシャリューン王国ではこの季節は雨季である。エミリアの〝修復作業〟により、この国は数年ぶりのあるべき雨季の空模様を取り戻していた。
エミリア一行がサマルを発って一週間。一行は砂漠に点在するオアシスを経由しながら、シャリューン王国の北西にあるマレンデールを目指していた。
「この様子なら、砂漠を縦断できます」
出発前にシェナが言ったとおり、エミリアたちがイルスレイドからシャリューンへ来た頃とはまったく違い、刺すような日差しもない。空気は湿り気を帯び、砂漠だというのに砂埃も少ない。
時おり吹き抜ける柔らかな風を頬に感じながらラクダに揺られていた。
だが、快適な旅である反面、エミリアの内心は複雑だった。
サマルでの襲撃。あれは自分を狙ったものだった。セムナ族を巻き込んでしまった。ザイードは「お気になさらず」と言ってくれたが、おそらくそれは単なる慰めではない。
異端審問官の行動に抗議することで法王国と対立するようなことになれば、即ち国家レベルの問題になることを懸念したからだろう。
そう考えると胸が締めつけられるようだった。
「お姉様」
前を進んでいたシェナがこちらを振り返った。
「お顔がすぐれないようですが」
「姫様……いえ、少し考え事を」
「サマルのことですか?」
「……ええ」
胸がチクリと疼いた。
だが、シェナは表情を変えることなく、琥珀色の瞳でこちらをじっと見つめた。
「お姉様が気にされることではありません」
「でも……」
「いえ、シャリューンの者が導師を守るのは当然のことです。むしろ、守れたことを誇りに思っています」
『シェナは嘘をつけん子だ──』
ダールノの言葉がよぎる。きっとこの言葉も本心からなのだろう。だが、それでも怪我を負った衛兵たちのことを思うと胸が痛い。
「お姉様、それより今はラウルさんのことですよ」
たしかにそうだった。とはいえこの旅も自分の我儘で始まったようなものだ。それも申し訳なく感じる。
「ラウルさんは、お姉様の大切な方なんでしょう?」
「姫様、〝大切な方〟だなんて、そんな。ラウルはただの幼馴染で……」
思わず首を振ると、シェナはキョトンと首をかしげた。
「お姉様?」
シェナは首をかしげたまま、エミリアの反応を待っていた。
いざ面と向かって訊かれると、何と答えたらよいか分からない。
ラウルは幼馴染──それは間違いない。
しかし──
(ラウルは私にとって何だろう?)
うまく言葉にできない。
大切──もちろん。兄には悪いが、兄よりも大切だ。なにしろ十年以上、毎日顔を突き合わせてきた。もはや兄弟だ。だが、兄弟かといわれるとそうでもない気がする。では、いったい何なのだろう。
いつのまにか眉を寄せていたエミリアに、シェナは柔らかな笑みを向けた。
「お姉様、無理に言葉にしなくともよいのです。お姉様が大切に思われる方を、私も大切にしたい。それだけです」
「姫様……ありがとうございます」
それに、とシェナは続けた。
「おとぎ話の中だけだと思っていた竜が、本当に存在するなんて……お姉様も気になりませんか?」
シェナの瞳は、いつの間にか好奇心を帯びたものに変わっていた。
「ですから、私は私で行きたい理由があるのです。こんなふうに言うと父は絶対許してくれなかったでしょうね」
うふふ、とシェナは悪戯っぽく微笑んだ。
(そうだわ。竜はラウルを何だか優しく咥えてたし、きっと大丈夫よね)
竜はラウルに危害を加えるような様子ではなかった。まるで大事なものを運ぶように飛び立った。
「姫様」
「なんでしょう?」
「竜、また会えるといいですね」
「もちろんです。そのために行くのです。ラウルさんもきっとそこにいますよ」
シェナのいつものか細い声ではない年相応の明るい声色に、思わずエミリアも微笑んだ。
◇ ◇ ◇
数日後、一行はマレンデールの南端の街へ辿り着いた。ここからは丘陵地帯、そして山岳地帯となる。街に二日ほど滞在し、ラクダから馬に乗り換え、荷や装備を山岳地帯の旅に備えた。
緩やかな山道をさらに数日進むと、小さな集落が見えてきた。
「エミリアさん」
集落の手前でジルベルトが馬を止め、エミリアへ歩み寄ってきた。
「ここから先は我々の身分を隠しましょう。その方が情報を集めやすいかと思います」
(たしかにそうよね。もうここはシャリューン王国じゃないものね)
シェナも近づき、ジルベルトの提案にうなずいた。
「私もその方が良いかと思います。マレンデールはどこの国でもないのです」
ガルナック帝国とシャリューン王国の国境地帯、正確にはイルスレイド王国も一部面している、このマレンデール地方。だが、実際のところ国境は曖昧で、マレンデールは独立した一地域としてどこの国でもない扱いなのだ。
海に面していない地域でありながら〝地の果て〟と呼ばれる辺境。そこに住む人々に身分を誇示したところで逆効果か、もしくは訝しがられるだけだ。
「大人数で行っても怪しまれます。私とエミリアさん、シェナ姫とアンナさんの四人で行きましょう」
エミリアとシェナがジルベルトの提案にうなずいていると、衛兵が血相を変えた様子で割って入った。
「殿下、それはおやめください。辺境の民は何をしでかすか分かりません。危険です!」
男のあまりの剣幕に、エミリアは眉をひそめた。
(えぇー? それは偏見のような気がするけど)
彼はシャリューンからの衛兵──ジャファルだった。彼らにとってはジルベルトは隣国からの賓客だ。万が一にも何かあってはならないと心配するのも分かる。
でも、ちょっとお硬い感じだなとエミリアは思った。
譲らない態度に、ジルベルトは短く息を吐いた。
「分かりました。では、あなたも付き添ってください」
そう言うと、集落へと足を向けた。
集落は広場を囲むように十数軒の家屋が建ち、さらにその周辺にも十数軒広がっていた。脇に山羊が繋がれている家もあれば、馬小屋も構えている屋敷もある。奥の方には製材でもするのか、丸太が積まれているのも見えた。
目の前の広場に視線を戻すと、その中央には古い石造りの教会らしき建物があった。
(あれは……教会?)
帝国からも法王国からも遠い辺境に教会がある。大昔にどこかの神官が建てたのだろうか。だが、たしかに古そうだが、ところどころ最近補修したような跡があった。
「こんな山奥にも教会があるんですね」
後ろでアンナがつぶやいた。
教会が法王国のものなのか帝国正教会のものなのかは分からない。だが、こんな山奥の村でも何らかの信仰が息づいていることは確かだった。
広場に足を踏み入れると、隅の方で立ち話をしていた女たちがこちらを窺うような視線を向けた。見たことのない人物の出現に、明らかに警戒の色を見せている。
(まあ、そうよね。じゃあ、ここは私が)
エミリアが声をかけようと一歩踏み出した瞬間、ジルベルトが彼女たちへ声をかけた。
「こんにちは!」
それはエミリアが今まで聞いたことのない声色だった。普段の知的で落ち着いた雰囲気とは違う、気さくで朗らかな調子。まるで気の良い若い旅人だ。
目を丸くしているエミリアを尻目に、彼は手を挙げながら彼女たちへ親しげに近づいていく。
「姉さん方、ちょっと聞きたいんだけど」
女たちはジルベルトを舐めるように見ると、とたんに顔を綻ばせた。簡素な旅装とはいえ黒い髪から覗かせる青い瞳は吸い込まれそうなほどで、はにかむ整った顔はそれだけで人目を引く。そんな彼の佇まいに頬を染め、見とれる者すらいた。
「あれまあ、いい男」
「兄さん、こんな山奥に何しに来たの? 商売かい?」
「まあ、そんなところ。奥地に珍しいものがないかと思ってね」
女たちはケラケラと笑い出した。
「やだよぅ、兄さん。こんな山奥に商売のネタになるものなんてあるもんかい。そんなことよりさ、あっちで旅の話でも聞かせとくれよ」
女たちはいい暇つぶしができる、といった様子でジルベルトの袖を掴んだ。
その瞬間──
「おい、止めろ! そのお方に気安く触るな!!」
広場に怒声が響いた。
ビクリと固まる女たち。ジルベルトも目を見開き振り返った。周囲で作業をしていた男たちも、何事かと声の方を向く。
(まさか……)
エミリアが恐る恐る振り返ると、そこには険しい表情を浮かべたジャファルが腰の剣に手をかけ、今にも抜かんばかりの姿勢をとっていた。
(なんてことすんのよ……)
エミリアは額に手を当て、ため息をついた。




