第84話 竜の棲む地へ
(来るっ──!)
竜が大きく口を開いた瞬間、エミリアは思わず目を閉じた。障壁がどこまで耐えるか──もはや誰にも分からなかった。
だが──何も起きない。
(……?)
うっすらと目を開いた。
竜の喉の奥に揺らめいていた、放たれる寸前だった炎の種は行き場を失い霧散していた。口から薄い煙のようなものが出ると、竜は静かに口を閉じた。
「……え?」
竜の黄金色の眼球がエミリアたちから逸れ、倒れている一人の少年を真っ直ぐに捉えていた。
竜はラウルを見つめていた。
縦長の瞳孔が収縮し、まるで探し求めていたものを見つけたかのように、竜の全身から明確な殺意と敵意がスッと抜け落ちた。
「どういう、こと……?」
竜は威嚇の姿勢を解き、ラウルへ向かって無造作に歩みを進めた。
竜の眼前にシェナが展開していた光の障壁が立ち塞がる。だが、竜は煩わしい蜘蛛の巣でも払うかのように、太い尻尾を無造作に一閃させた。
──パァァァンッ!
「きゃあっ!?」
光の障壁が圧倒的な質量の前であっけなく粉砕され、シェナが尻餅をついた。
障害物を排除した竜は、意識を失って倒れているラウルの傍らに悠然と歩み寄った。
「ラウルっ……! 起きて!」
ラウルに呼びかけるが、彼は目を覚まさない。
規格外の化け物が大事な幼馴染の目前まで迫っている。竜は前肢の巨大な爪を使い、ラウルの身体をひょいと自身の鼻先へと引き寄せた。
「やめて! ラウルから離れてッ!」
竜はラウルにいったい何をしようというのか。だが、足がすくんで動けない。もっとも、下手に動くとあの巨大な爪で簡単に切り裂かれそうだ。
それでも──助けなければ。
エミリアは自分の太腿を拳で殴り、ラウルへ駆け寄ろうとした。
だが、竜は彼女の存在など歯牙にもかけず、大きく顎を開き──ラウルの身体をぱくりと咥え込んだ。
「ああっ……!」
ラウルは鋭い牙の並ぶ口腔に収められたが、彼の身体から血が流れる様子はなかった。竜は、まるで親の獣が幼獣を運ぶ時のように、優しく慎重に彼を咥えているようだった。
「ちょっと! ラウルをどうするの!?」
竜はエミリアをチラリと見だが、特段の反応をすることもなく大きく強靭な翼を広げる。
──バサァァァァァッ!!
竜は中庭に突風のような風圧を巻き起こした。エミリアたちは為す術もなく地面に叩きつけられた。
竜は巨体を感じさせない跳躍力で夜空へと舞い上がり、瞬く間に夜の闇へ溶け込んでいく。
──竜が飛び去った先は、北西の空だった。
「うそ……ラウル……」
中庭には静寂が降りた。皆、今起こった出来事を理解できずにいた。エミリアは冷たい石畳の上にへたり込み、空を見上げたまま震える声を漏らした。
幼い頃からずっと一緒だった。実の兄弟以上の存在だったラウルが、突然目の前から理不尽に奪い去られた。心臓が凍りついたように苦しい。思考が絡まった糸のようにグチャグチャになり、何も考えられない。
ただ、竜が飛び去った北西の空を見つめるのが精一杯だった。
「ラウル君が……連れ去られた……?」
「竜が、人を……」
ジルベルトとシェナも呆然と夜空を見上げていた。
「皆、大事ないか!?」
族長ザイードと妻のイーシャ、ハリルや衛兵たちが中庭に駆けつけてきた。
ザイードたちはハリルの機転により真っ先に避難することができ、ソルダムたちの襲撃から逃れていた。
もっとも、ソルダムの狙いは最初からエミリアただ一人だったのだろう。他の者たちのことはどうでもよかったのかもしれない。
「おおぉ……なんということだ……」
中庭の惨状を目の当たりにしたザイードは顔をこわばらせ、その場に立ち尽くした。
ザイードの声で、エミリアの意識は現実に引き戻された。
感傷に浸っている余裕はなかった。ザイードの指示により、即座に怪我人の収容と救護活動が開始された。館は深夜まで血の匂いと治療の慌ただしさに包まれた。
◇ ◇ ◇
翌朝。重苦しい空気が漂う館の広間に、エミリア、手当を受けたジルベルト、シェナ、そしてザイードとイーシャが集まっていた。
アンナは他の侍女たちとともに怪我人の世話にあたっている。
「……襲撃者たちは、あの『竜』の出現に恐れをなして完全に撤退したようですな」
ザイードが重々しく口を開いた。
「しかし、竜がラウル殿を攫って飛び去るとは……。導師様、竜は北西の空へ飛び立ったとのことでしたな?」
「……はい」
エミリアは力なく応えた。
「ふむ……北西というとガルナック帝国との国境。……マレンデールですな」
マレンデール地方──ガルナック帝国とシャリューン王国の国境にある険しい山岳地帯。
ラウルは、彼の母親はイルスレイドから遠い西にある山深い谷の出身だと言っていた。それが真実なら、そのどこかにラウルの母の故郷があるかもしれない。
「お父様。マレンデールは竜の棲み処なのでしょうか?」
シェナが遠慮がちにザイードへ尋ねた。
ザイードは腕を組み目を伏せ、しばし思案の表情を見せた。
「うぅむ……それは私にも分からん。そもそも、竜など伝承の中だけの存在だと思っていたからな」
「そうなんですね……」
「ああ。だが、この大陸の伝承では『竜は山深い谷に棲む』とある。そう考えると、竜がマレンデールに棲んでいたとしてもおかしな話ではない」
エミリアはどこかに焦点を合わせることもなく、ただ前を見つめていた。いろんなことが脳内を駆け巡っていた。
山深い谷、竜の棲み処、ラウルの母の出自──
もし、ラウルが連れ去られたのが偶然ではなかったとしたら──今思えば、彼の左手から放たれた炎のような閃光、あれはまるで竜の息吹のようでもあった。
それに、ラウルを〝オペレーター〟と呼ぶ声。シェナたち精霊使いが〝精霊の力〟を扱うオペレーターであるように、ラウルが〝竜の力〟を扱うオペレーターだとしたら。
だが、竜には〝管理者の力〟は効かなかった。
そもそも、『〝竜の力〟を扱うオペレーター』という存在が本当にいるのかさえ分からない。
謎だらけだ。
だが、ここであれこれ考えても仕方がない。
(そうよ、私が行かないと)
「……私、ラウルを探しに行きます」
皆がエミリアを凝視した。
ザイードは目を見開き、ジルベルトも表情をこわばらせた。マレンデールは一令嬢が気軽に足を運べる場所ではない。エミリアの言葉に皆、驚愕の表情を浮かべた。
「導師様、マレンデールは集落もまばらな秘境と呼ばれる場所。あてもなく探しに行くのはあまりに危険ですぞ」
「そうです、エミリアさん。ザイード殿のおっしゃるとおりです」
ザイードとジルベルトはとんでもない、という顔を向ける。
「それでも……!」
エミリアは拳を握りしめた。
皆の言うことも分かる。たしかに危険な場所なのだろう。だがそれでもあきらめたくなかった。
広間に沈黙が落ちる。
静寂を破ったのはシェナだった。
「お姉様、行きましょう。私もお供します」
「……シェナまで……!」
ザイードは口を開けたまま固まった。
だが、ジルベルトは諦めたように小さく息を吐いた。
「……分かりました。エミリアさん。行きましょう。あなたがただけで行くのは危険だ。また法王国の追手が来ないとも限りません」
ジルベルトはまだ痛む傷を押さえながら、エミリアを見据えた。
「殿下……ありがとうございます! 姫様もありがとうございます」
「ただ、エミリアさん。私はイルスレイドへ書簡にて状況を伝えます。あなたも侯爵家へ手紙を書いてください。このままイルスレイドへ戻らずに旅を続けるのは、さすがに心配されます」
ザイードは腕を組み唸った。
「仕方がない……。ジルベルト殿、あなたの衛兵にも怪我人がいるでしょう? こちらからも腕利きの衛兵を出しますので、それで部隊を編成しましょう」
ただし、とザイードは厳しい表情で続けた。
「マレンデールは険しい山道が続き、馬車も使えない。食料や荷のことを考えると、あまり大規模な編成にできませんぞ。……それでもよろしいか?」
ザイードはうなずくジルベルトを確認すると、シェナに目をやった。
「……おまえは一度決めたらテコでも動かんからな……気をつけるのだぞ」
「はい、お父様。お姉様と一緒なら……きっと大丈夫です」
ザイードは複雑な笑みを浮かべた。
本当は、愛娘を秘境へ向かわせるなど反対なのだ。だがそれと同時に、この幼い精霊使いが自ら決めたことは必ずやり遂げる娘であることもよく分かっていた。
「族長様、本当にありがとうございます」
エミリアは深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
数日後。サマルの入口で、旅装を整えたエミリア、ジルベルト、シェナ、そしてアンナの姿があった。脇には十名ほどの衛兵が控えている。
「道中、くれぐれもお気をつけて」
「族長様、イーシャ様。大変お世話になりました」
見送りに来た族長夫妻に深く頭を下げ、エミリアはラクダに乗り込んだ。視線の遥か先にうっすらと見える山々を見つめる。
(待っててね、ラウル。今行くわ)
一行はサマルを後にした。
目指すは北西。ガルナック帝国との国境地帯である、険しい山間の地──マレンデール。
簡単には見つからないかもしれない。だが、必ず見つけてみせる──エミリアの胸の内には熱いものが湧いていた。
こうして、エミリアたちの新たな旅が始まった。
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『指環の執行官──警視庁捜査一課第四特殊犯捜査係』
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オジサン刑事と謎の女子高生が異能犯罪に挑むサスペンス!
ローファン×異能バトルと、本作とはまた違ったジャンルですが、読んでいただけると嬉しいです。
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