第83話 古の禁忌
もうもうと立ち込める土煙を切り裂くように、巨大な翼と鈍く光る黒い鱗を持った『竜』が首をもたげた。
大陸のどこかに『竜』が棲む地がある──それはおとぎ話や伝承の類でしかなかったはずだ。だが今、自分たちの目の前に、圧倒的な質量と熱量、そして暴力を伴ってその『竜』がいる。
竜が呼吸するたびに漏れる低い唸り声だけで大気が震え、周囲の空気が急速に乾燥していくのが肌で感じられた。
「……ッ!」
刺客の一人が咄嗟に剣を構えた瞬間、竜の黄金色の眼光が彼を正確に捉えた。
それは明確な〝敵意への反応〟だった。竜が短く咆哮を上げたかと思うと、鋼鉄の鞭にも等しい強靭な尾がムチのように石畳を薙ぎ払う。
極限まで鍛え上げられているはずの刺客ですら、その圧倒的なエネルギーの前では無意味だった。
剣を構えていた男は防御の姿勢をとる間もなく、くの字に折れ曲がり、中庭の端の壁まで弾き飛ばされた。
男が壁に叩きつけられると、鈍い粉砕音とともに土壁に巨大な蜘蛛の巣状のヒビが走り、男はピクリとも動かなくなった。
「ひぃっ……!」
これまで死を恐れぬほどの冷徹な攻撃を見せていた漆黒の法衣たちが、生物としての根源的な恐怖に顔を引きつらせ、無意識に後ずさる。
だが、竜は逃がさなかった。その巨体からは考えられないほどの俊敏さで跳躍し、鋭い爪で刺客の二人を同時に地面へ縫い留め、そのまま石畳ごと押しつぶした。
さらに顎を開き、その奥に炎の種が揺らめいた──竜の息吹の発射準備だ。竜の口元の空気が陽炎のように歪み始める。
「やめろ! 後退だ、散開しろ!」
ソルダムが血相を変えて叫んだ。だが、その声には単なる恐怖以上の、深い驚愕と歓喜にも似た混乱が混じっていた。
(なぜ、ここにマレンデールの『古の禁忌』がいる……!?)
法王国の情報網は、この生物を神の摂理の枠外の脅威として把握していた。
分厚い鱗に通常の物理攻撃や魔法が通用するのか。高度な知性を持つと言われているが、意思を交わし、使役することが可能なのか。血脈はおろか、管理者の力さえも一切干渉できない。
完全なる規格外の生物──だからこそ、法王国が何としてでも手に入れようとしている理由だった。
それがなぜ、遠く離れたシャリューンに姿を現したのか。
「撤退だ! 異端者の首よりも、この情報を本国へ持ち帰ることを最優先とする!」
ソルダムは異端審問官であると同時に、極めて有能な諜報員でもあった。彼は異端審問官としての任務を即座に切り捨て諜報員としての判断を下し、残存する刺客たちへ撤退の合図を出した。
彼らは竜の息吹が放たれる直前に身を翻し、暗闇の奥へと蜘蛛の子を散らすように消えていった。
中庭には竜とエミリアたちのみが残された。敵は去った。だが、真の危機は去っていない。
──グルルルゥゥ……!
標的を失った竜が苛立ちの混じった低い唸り声を上げ、黄金色の眼球を血走らせながらギョロリと動かした。その視線は、障壁の中で息を呑むエミリアたちを正確に見据えていた。
竜が鼻息を吐き出すだけで周囲の空気が焦げ付く。このままでは、今度は自分たちが蹂躙される。
(止める……私が〝指示〟で止めるしかない!)
エミリアは極限の集中力で脳内をフル回転させた。
どうやって止めればよいのか。圧倒的な質量、巨体を自在に操る俊敏さ、凶悪な爪と牙。さらには、今まさに発射しようとしているブレスの莫大な熱量。
シェナの障壁では、あの力や熱量を防ぎきれる保証はない。竜の〝外側〟へ物理的な干渉を行おうとしても、そもそもの力で押し切られる可能性が高く、とても有効な手段とは思えなかった。
(そうよ! 外がダメなら中身だわ。竜そのものの動きを止められたら……!)
おとぎ話では、竜は〝魔法生物〟だと言われている。ということは、何らかの〝血脈〟に関係するはずだ。そこを意識したら、体内に働きかけることができるかもしれない。
エミリアはありったけの力で叫んだ。
「竜の身体の中の動きを止めて!」
《対象へのアクセスを試行……》
《エラー。対象はシステムのネットワーク上に存在しません》
《接続プロトコルが不適合です。コマンドを送信できません》
エミリアの脳内に、立て続けに無機質な声が響いた。
「……嘘でしょ!?」
エミリアは顔を引きつらせた。
目の前の竜には管理者の力が及ばなかった。いや、そもそも管理者の指示の枠外だったのだ。つまり、竜は精霊や血脈の類とは何の関係もない存在だといえる。
では、この『竜』とはいったいどのような存在だというのか──だが、今はそれを考えている場合ではない。
竜が大きく息を吸い込む。
その喉の奥で、エミリアたちを跡形もなく焼き尽くすための灼熱の炎が、今まさに臨界に達しようとしていた。
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