第82話 空からの影
ソルダムは常人離れした反応速度でかろうじて身を捻り、ラウルの掌から放たれた光線を避けた。だが、完全に熱波から逃れることはできず、灰色の法衣の袖が瞬時に炭化して燃え上がる。
同時に、彼が手にしていた金属の箱──『静謐の箱』が手からこぼれ、地面へ落ちた。
箱は光線の熱をまともに受け、古代の文様が刻まれた表面から凄まじい白煙を吹き上げた。内部に組み込まれていた未知の機構が青白い火花を散らし、次の瞬間、強固だったはずの金属の箱は飴細工のようにドロドロに溶け落ちた。
赤熱した鉄屑となって石畳を焦がすそれは、もはやいかなる機能も有していない。それは無効化されていた館一帯の『この世界の仕組み』が正常に戻ったことを意味した。
「……あッ、精霊の声が──聞こえます……!」
衝撃で地面に倒れ込んでいたシェナが弾かれたように顔を上げた。干上がっていた川に再び水が流れ込むように、辺りの精霊たちが動きを再開させる。
エミリアがシェナを見ると、彼女の周囲に再び淡い光の粒子が舞い始めるのが見えた。
エミリアの脳内にも回復を告げるアナウンスが流れ込んでくる。
《ネットワーク接続回復……オペレーター権限、および管理者コマンドの送信が可能です》
(イケるわ……!)
流れ込んできた言葉の意味はよく分からないが、おそらく管理者の〝力〟の行使が可能になったはずだ。
エミリアは吠えた。
「シェナ姫へ権限を委譲します!」
シェナがエミリアの声に力強くうなずき、両手をかざす。
(精霊のみなさん、集まってください! そして、手をつないで固まってください!)
その瞬間、精霊たちの密度が高まり発光しだした。光はやがて障壁となり、エミリアたちの周囲を覆う。
精霊使いとしては不可能なあいまいな〝指示〟でも、権限を委譲されたオペレーターであれば可能だ。精霊たちはすぐに反応してくれた。
直後、飛び込んできた数名の刺客の刃が障壁に激突し、激しい火花と反発音を上げて弾き返された。
「クソッ!」
刺客たちはよろめき、舌打ちした。
ほぼ同時に、ラウルの左腕から急速に光が失われていった。彼の左腕は肘から先が焦げたように黒ずみ、皮膚はひび割れ、どす黒い血が滲み出していた。
ラウルは白目を剥き、糸が切れた操り人形のようにその場へ崩れ落ちた。彼の身体は硬直し、うめき声を漏らしている。
「あ……がっ……」
「ラウルっ!!」
エミリアはラウルへ駆け寄った。脈は辛うじてあるが呼吸は極端に浅い。ショック状態に陥り、深刻なダメージを負っていることは明白だった。
「おのれ……よくも聖遺物を……!」
光線を間一髪で避けたものの、火傷を負ったソルダムがかつてない憎悪に顔を歪めて立ち上がった。常に浮かべていた不気味な作り笑いは完全に消え失せ、その酷薄な素顔が露わになっている。
刺客たちも即座に態勢を立て直し、障壁の内側にいるエミリアたちを包囲し直した。
エミリアの管理者の〝指示〟が使えるようになったとはいえ、状況は依然として絶望的だった。
ジルベルトや衛兵たちは先の戦闘で既に深刻なダメージを負っており、出血も酷い。対する『梟』の刺客たちは軽傷の者が多く、形勢は全く覆っていない。
さらに、彼らはシェナの展開した障壁を削るため、一点に攻撃を集中させる戦術へ即座に切り替えていた。
(このままじゃジリ貧だわ……! 障壁が破られるのも時間の問題よ)
エミリアは血の気が引くのを感じながら唇を噛み締めた。
何か一撃でこの包囲網を打破できる、広範囲かつ高出力の〝指示〟はないか──頭の中で素早く思考を巡らす。
「皆殺しにしろ。チリ一つ残すな!」
ソルダムが冷徹な殺意を再びエミリアへ向け、男たちが一斉に地面を蹴った。彼らの刃が、障壁の亀裂が走り始めた一点へと同時に振り下ろされる。
エミリアは刺客たちを弾き飛ばすための〝指示〟を念じた。だが、相手の踏み込みの方がコンマ数秒早い。間に合わない──障壁が砕け散る。そう直感した、その時だった。
──ヒュゴォォォォォォォォッ!!
サマルの夜空を切り裂くような、鼓膜を圧迫する巨大な風切り音が上空から響き渡った。
それは鳥の羽ばたきなどという生易しいものではない。莫大な質量が空気を強制的に押し出し、大気を摩擦で焦がすような重低音だった。鼓膜が痛みを訴え、急激な気圧の変化で周囲の空気が外側へ引っ張られるのを感じる。
「な、なんだっ……!?」
障壁を砕こうとしていた刺客の一人が夜空を見上げ、その無機質な表情を初めて明確な恐怖に歪めた。
夜空の星々を覆い隠すほどの巨大な影が、中庭に向かって矢のように、いや、精密に計算されたかのような軌道で垂直に降りてくる。
──ズドオォォォン!!
激しい衝撃音とともに、その影はエミリアたちとソルダムの目の前──中庭の中央へと着地した。
着陸の衝撃波で石畳が爆発したように粉砕され、次の瞬間、巻き起こった暴風が刺客たちを紙屑のように吹き飛ばす。凄まじい振動に中庭全体が揺れ、エミリアたちも立っていられずに倒れ込んだ。
もうもうと立ち込める土煙の中から、それはユラリと首をもたげた。
巨大な翼、鋼鉄の装甲のように鈍く光る黒い鱗、そしてあらゆる生物をバラバラに引き裂くことが可能な鋭い牙と爪。
それはおとぎ話でしか聞いたことのない──紛れもなく、圧倒的な暴力をまとった『竜』そのものだった。




