第77話 希望の雨雲
一方、庵の外では──
扉が閉じてからというもの、ラウルは扉の前に立ったまま一歩も動いていなかった。
「遅い……」
つぶやきながら閉じた扉へ鋭い視線を送る。ラウルは肩の傷がズキズキと痛んでいたが、気にしている余裕はなかった。
「ラウルさん、落ち着いて。まだそんなに経ってないですよ」
アンナがたしなめたが、その声にも不安の色が滲んでいた。
シェナは扉の近くに座り込み、目を閉じていた。精霊の気配を探っているのだろうか。その表情は真剣だった。
ダールノは腕を組み、岩壁に背を預けていた。終始無言だったが、視線は扉から離れない。
と、ダールノの表情が変わった。
「──何だ?」
古老が岩壁から背を離した。眉間に皺を寄せ、何かに耳を澄ませている。
「大叔父様?」
シェナが目を開けた。そして、同時に彼女の表情も変わった。
「精霊が……動いて……」
シェナが立ち上がった。
次の瞬間、扉の隙間から光が漏れ始めた。
白い光だった。最初は細い筋だったが、みるみる強くなり、扉の輪郭全体が光に縁取られた。
「なっ──!?」
ラウルが後ずさった。光は扉だけでなく、壁面に刻まれた幾何学文様の全てに走り、建造物全体が発光しているかのようだった。
さらに光は、四方の空に向かって幾本もの筋となって放たれた。
「これは──」
ダールノは息を呑んだ。白髭の古老の顔が、光に照らされて白く浮かび上がる。
「精霊が……」
シェナが震える声で言った。
「精霊が……戻ってきています。この辺り一帯に……たくさんの精霊が──」
シェナの目には涙が浮かんでいた。精霊使いとして、ずっと気に病んでいた精霊の歪み。それがまるでなかったかのように、〝元気に〟動いているように感じられたのだ。
ダールノも同じものを感じ取っていた。数十年もの精霊使いとしての全感覚が、今この瞬間の異変を──いや、回復を告げていた。
「……まさか」
ダールノの唇が震えた。
「あの娘……本当に……」
光はやがて収束し始めた。扉の輪郭の光が薄れ、文様の輝きが消えていく。
だが、空気は変わっていた。
峡谷の中を吹き抜ける風が、先ほどまでとは違う。乾き切っていた空気に、ほんのわずかだが湿り気が戻っていた。
「……雨雲か──!?」
ダールノが空を見上げた。
峡谷の切り取られた空の向こう──先ほどまで雲一つなかった青空に、白い雲がゆっくりと湧き始めていた。
その光景を見たダールノの目から、一筋の涙がこぼれた。古老はそれを拭おうともせず、ただ空を見上げ続けていた。
◇ ◇ ◇
エミリアが通路を戻り、扉が近づくと再び石板が反応した。
《管理者を検知……退出処理》
扉は勝手に開いた。
外の光が一気に流れ込み、思わず目を細める。
「エミリア!」
真っ先に駆け寄ってきたのはラウルだった。
「大丈夫か!? 顔色が──」
「大丈夫。ちょっと疲れただけよ」
笑おうとしたが、膝が揺れた。ラウルが咄嗟に腕を掴んで支えてくれた。
「全然大丈夫じゃないだろ……」
「お姉様!」
シェナが走り寄った。その頬が涙に濡れている。自分が庵の中にいる間、外でいったい何があったのだろうか?
「姫様……泣いて……?」
「精霊が……精霊が、元気な姿で戻ってきたのです。庵の中にいらっしゃる間に──突然、たくさんの精霊が!」
シェナは言葉を詰まらせながら手を握ってきた。その手は、あの夜とは違い温かかった。
シェナの向こうに立つダールノを見た。
古老も──泣いていた。
涙の跡が白髭を伝い、深い皺の刻まれた頬を濡らしていた。だが、その表情は崩れていなかった。毅然と立ち、こちらを真正面から見つめている。
「……エミリア嬢。いや、我らが〝導師〟よ」
そう言うと、その場に平伏した。
「ダールノ様! いったい何を!?」
ダールノの思いもよらない行動に慌てて駆け寄ると、古老は静かに顔を上げた。
「何をなされたのだ?」
「環境を維持する仕組みの、その一部を修復しました。一時的なものですが……少しは、良くなるかもしれません」
ダールノは長い沈黙の後、再び深く頭を下げた。
「ありがとうございます。精霊使いを代表して礼をさせてください」
その一言に、これまで国一番の精霊使いとして手を尽くしてきたのであろう重みがあった。
ダールノが頭を上げると、その瞳はもう涙を湛えておらず、あの峻厳な光が戻っていた。だが、その厳しさの中に敬意が確かに宿っていた。
「……空を見なされ」
ダールノが示した方を見上げると、峡谷の空に白い雲が広がり始めていた。
「もしかしたら──久しぶりに雨が降るかもしれませんな」
ダールノの声は穏やかだった。
湧き上がる雲が、澄んだ青空をゆっくりと覆い始めている。乾いた風の中に、微かに水の匂いが混じっている気がした。
(一時的……か)
完全な修復ではない。いつまで持つかも分からない。アップデートサーバーとの接続、という未知の課題も残っている。しかも手がかりがまったくない。
だが、今はこれでいい。これまで抗うことのできなかった〝緩やかな絶望〟が、わずかではあるが遠のいたのだ。
一息つける間に、完全修復への道筋を立てなければ──エミリアは徐々に曇っていく空を見つめた。




