第76話 修復作業
《環境維持機構……オペレーションモードに遷移しますか?》
その声に、エミリアは迷わなかった。
「ええ」
声に出して答えた。脇に置いたランタンの仄かな灯りの中、自分の声だけが小部屋に鈍く反響する。
応答は即座だった。石碑の表面が淡く発光した。文字の凹凸が一つ一つ光を帯び、やがて石碑全体が柔らかな白い光に包まれた。光はエミリアの手を伝い、腕を、肩を、全身を覆っていく。
ランタンの灯りが光に呑まれて見えなくなった。
エミリアは自然と目を閉じた。光は瞼の裏にも届いたが、眩しさよりも温もりを感じた。まるで体の内側から照らされているような──不思議な安らぎを感じる。
《オペレーションモード……遷移完了。管理者権限で環境維持機構にアクセス中》
脳内に声が響くが、これまでの単なる通知とは質が違い、明確に何かの状態を示していた。
《環境維持機構の現状報告》
その瞬間、頭の中に何かが流れ込んできた。それは映像ではない。音でもない。だが、たしかに情報そのものだった。感覚としか言いようのないものが、次から次へと押し寄せる。
そして、その意味するところは完璧には分からないが──理解できた。
──大地の下を流れる水脈の姿を感じ取れた。かつては豊かに流れていたものが、細く、弱くなっている。
──空気の中に漂う何かの密度が薄まっている。精霊と呼ばれているものの分布が歪んでいる。
そして精霊──いや、目に見えない微細なゴーレムらしきものが水分を保持している姿が浮かんだ。だが、それはすぐに何も保持できていない様子に切り替わる。
──これだ。
精霊が水分を保持し、運び、やがて雨を降らせる。
この、気候を司る循環が狂っている。その原因は精霊の〝劣化〟のようだった。
このために雨を運ぶ流れが止まり、熱が偏っている。
それらが数字のように正確に、だが数字ではない形で脳内に注ぎ込まれてくる。
(これが……シャリューンで起きていることの正体……)
エミリアはその異様さに圧倒されながらも、必死に意識を集中させた。
《調整パラメーターを指定してください》
(パラメーター? 指定?)
指定……何をどう指定すればよいのか。
あらためて、自分がこの仕組みを理解していないことを痛感させられる。ただ権限を持っているだけで、知識も何もないのだ。
パラメーターと言われても、具体的に何をどうすればいいのか分からない。
だが、分かっていることはある。精霊が病んでいる。水が枯れている。雨が降らない。人々が苦しんでいる。
心の中で、できるだけ明確に念じた。
(精霊の異常を止めて。この地の環境を元に戻して)
しばしの沈黙があった。それはシステムが、自分の曖昧な要請を解析しているかのような間だった。
《要求の解析中》
しばしの静寂の後、声が返ってきた。
《警告……環境維持機構の複数のモジュールに異常を検出。原因……経年劣化および外部からの未承認の干渉あり》
(無理ってこと!?)
「そんな。どうすればいいの!?」
再びの静寂の後、無機質な応答が脳内に響く。
《システムのアップデートが必要です》
「じゃあ、それをお願い!」
《干渉により、アップデートサーバーへの接続が確立できません》
思わず眉をひそめる。
(アップデートサーバー……? 接続できない? 干渉ってどういうこと……?)
分からない言葉が並ぶ。だが、要するに完全な修復は今はできない、ということだけは理解できた。
「代わりの方法はないの!?」
《代替措置……検索中》
声が沈黙する間がとてつもなく長く感じた。
強く握りしめた掌に汗が滲む。
《異常が発生しているモジュールの一時無効化、および初期値への復元が可能。環境維持機構は復旧モードにより制限付きで起動可能。実行しますか?》
完全ではない、一時的な処置ということか。だが、何もしないよりはいい。いや、今のシャリューンにとっては、それだけでも大きな意味があるはずだ。
(お願いします!)
強く念じた。
《了解。異常モジュールの無効化および初期値復元を開始》
その瞬間、身体を包んでいた光が一段と強まった。思わず目を開いた。
光は石碑から溢れ、小部屋を満たし、通路を駆け上っていった。白い光の奔流が暗闇を走り、洞窟のすべてを照らし出す。
エミリアは光の中に立ち尽くしていた。身体が振動している。いや、身体ではない。この空間そのものが、大地そのものが微かに震えているようだ。
頭の中に修復の過程が順に流れ込んでくる。感覚としてはほんの数秒だった。だが、その数秒の中に途方もない規模の処理が行われたことが感じ取れた。
《オペレーション完了。環境維持機構……復旧モードで稼働》
光が徐々に収束していく。石碑の輝きが薄れ、小部屋に再びランタンの温かい光が戻ってきた。
《注意……復旧モードの稼働期間制限を確認してください》
稼働する期間には制限があるのか──それはいつまでなのだろう?
だが声は、それには何の応答もなかった。つまり、いつまでもつか分からないということか。
エミリアは石碑から手を離した。指先がかすかに痺れている。まるで長時間全力で走った後のように、全身が消耗している。今にも膝から崩れ落ちそうだった。
だが、それよりも──
(何か、変わった気がする)
空気が違う。小部屋の中の冷たく無機質だった空気に、微かな──本当に微かな何かの気配が混じっていた。
精霊だ。
先ほどまで完全に不在だった精霊の気配が微かに感じられた。まだ薄いが、たしかにそこにいる。
エミリアは小さく息を吐いた。
(とりあえず……動いたみたいね)
ランタンを拾い上げ、来た道を戻り始めた。足取りは重かったが、胸の奥には静かな手応えがあった。




