第3話 二つ持ち
この国では、子どもが三歳になると『生命図譜の儀』が行われる。血脈がほぼ現れない庶民の間では、健やかな成長を祝うお祭りのようなものだ。しかし貴族社会にとっては、その子の人生、いや、一族の未来すら左右する、あまりにも重い儀式だった。
今日は、父ベルナードの従兄弟──マチアスの娘、ミシェルの番だった。
教会の奥にある儀式の間は、白い石壁に囲まれた静かな空間だった。中央の石台に置かれた『図譜陣』が、ステンドグラスの光を浴びて鈍く輝いている。
母親に抱かれたミシェルは、場の雰囲気に呑まれたのか緊張で顔をこわばらせていた。神官が儀式用の小刀を差し出すと、たちまち泣き声を上げる。
「大丈夫、大丈夫よ。ちっくんするだけだからね」
母親があやしながら小さな指先をそっと切る。ぷくりと盛り上がった赤い滴が図譜陣の中央に落ちた。
瞬間、陣の紋様が淡い光を放ち、中央に複雑な図形が走り出す。淡い青と緑の線が万華鏡のように絡み合い、やがて二つのくっきりとした紋様に収束した。
「こ、これは……!」
神官が息を呑む。
「『武』と『知』、二つの血脈が等しく……! 〝二つ持ち〟でございます!」
「おおっ!」
マチアスが歓声を上げ、ミシェルを高々と抱き上げる。
「やったぞ、ミシェル! おまえの未来は約束されたぞ!」
二つの血脈を同時に持つ子は珍しく、『二つ持ち』と呼ばれ、尊ばれる。ベルナードも満面の笑みでマチアスと肩を叩き合っていた。若い頃、騎士団で共に汗を流した二人は今も兄弟のように親しい。
祝福の声が飛び交う。だが、まるで胸に鉛でも詰め込まれたような気分だ。
(……おめでたいことなのに。素直に喜べないなんて、私って本当に嫌な奴。でも……私の時は、あの場で『ノースキル』って罪人みたいに断罪されただけだったから……)
マチアスに高く抱き上げられたミシェルは、もう痛みも忘れたのか無邪気にきゃっきゃと笑っていた。
儀式の後の祝宴は伯爵家の屋敷で和やかに行われた。親族だけのささやかなものだったが、笑い声が絶えず、ミシェルはお菓子を手に走り回っている。
ベルナードとマチアスは葡萄酒を片手に騎士団時代の話に花を咲かせていた。母たちも楽しそうにおしゃべりに興じている。
誰が見ても幸せそうな一場面だろう。だが、自分だけがその輪に上手く溶け込めない。グラスを手に作り笑いを浮かべるのにも疲れた。誰にも気づかれないようこっそりと席を立つ。
屋敷の廊下を歩くうちに先ほどの息苦しさが思い出される。ここにいる限り、この感覚は消えないのだろう。逃げ出したかった。足は自然と外へ向かっていた。
◇ ◇ ◇
昼下がりの市場は、果物や布、香辛料の匂いが入り混じってむっとするような熱気に満ちていた。人混みの喧騒に身を委ねれば、少しは気が紛れるかと思ったのだ。
その矢先だった。
「おいガキ、有り金さっさと出せ!」
「やだ、これはお母さんの薬代なんだ!」
露店の陰で、一人の少年が男たちに腕を掴まれていた。みすぼらしい服。握りしめているのは小さな革袋。小銭入れなのだろう。
見て見ぬふりなどできなかった。気づけば駆け出していた。
「やめなさい!」
男の腕を力任せに払いのけると男は振り向き、汚れた顔を歪めた。
「あんだぁ? 引っ込んでな、お嬢ちゃん」
男が木箱を蹴り飛ばし、鞘から抜いた短剣の刃をちらつかせる。
刃の鈍い光を見た瞬間、身体がこわばるのが分かった。だが、それでも見過ごせない。護身用に腰に下げていた短剣を引き抜いた。冷たい鉄の重みが覚悟を決めさせる。
「おっ? 姉ちゃん、やる気かぁ?」
「へへっ、お嬢ちゃんが剣士気取りかよ」
男たちがにやにやと笑いながら、じりじりと距離を詰めてくる。
一人が鋭い突きを繰り出す。だが、身体は自然に反応していた。日々の訓練が刻まれた身体は何の迷いもなく男の剣を躱し、流れるように刃を返す。甲高い金属音が響き、火花が散った。
『身体全体をしならせて振るんだ!』
──隊長の声が脳裏をかすめた。
「へぇ、やるじゃねえか!」
男が口元を吊り上げた。体格も腕力もまるで違う。足さばきで躱すのもギリギリだ。
横からもう一人が斬りかかってきた。刃が頬をかすめ、髪が数本はらりと舞う。心臓が跳ねた。湧き出る恐怖をねじ伏せ、短剣で受け止める。腕が痺れ、膝ががくりと落ちそうになった。
「ちっ、しぶといな。だが所詮、お嬢ちゃんの剣遊びだろ!」
男が少年の襟首を掴むと強引に引き寄せた。
「動くな! こいつがどうなってもいいのか!」
男は少年の頬にひたひたと刃を当てる。
「やめなさい!」
制止の言葉を放ったが、足を止めざるを得なかった。喉が詰まり、息が苦しい。
(どうすれば……? 動けない……)
焦りで思考が鈍った。その瞬間だった。
胸の奥から熱い何かがせり上がってくる。視界が一瞬、白銀の世界に染まった。
《管理者第二次認証──成功。照合フェーズ継続》
(また……!?)
手にした短剣が淡い光を帯びて熱くなる。
男たちがその光に驚き、一瞬だけ少年を離した。
(今よ──!)
その隙を逃さなかった。
一歩踏み込み刃を弾き返す。光をまとった短剣が、ありえない力で男の剣を弾き飛ばした。
「な、なんだと……!?」
「くそ! なめやがって!」
男たちは舌打ちすると、三人同時に襲いかかってくる。
もうダメだ! ──そうよぎった瞬間、短剣が爆発するような閃光を放った。白い光が一瞬にして周囲を包み込む。
辺りが真昼の太陽よりも明るく照らされた。露店の商人たちが「うわっ!」と悲鳴を上げ、通行人たちも慌てて目を覆った。
男たちも眩しさに身をすくめ、目を覆う。
「うわっ!」
「目が……!」
「何だ、この光は……!?」
光はものの数秒で収まった。
息が苦しい。それでも短剣を構え直した。腕は震えているのに、先ほどの光が自分を支えてくれるかのように体の奥から力が湧いてくる。
「……光の……魔法!?」
「こ、これは……魔法の血脈!?」
「てめぇ、魔導士だったのか!」
男たちは顔を青ざめさせ後ずさる。やがて悪態をつきながら人混みの中へ逃げ去っていった。
「すごい……あのお嬢さん、魔法を!」
「剣も達者なのに、魔法まで……!」
「テルネーゼ侯爵家のお嬢様だってよ」
「あそこの侯爵家って、たしか武の血脈のご家門じゃなかったか?」
「まさか……『二つ持ち』……!?」
やじ馬たちの興奮した声が、ぐさぐさと突き刺さる。
(違う……違う! 私は、ノースキルのはず……。〝二つ持ち〟は、ミシェルの……)
胸が締め付けられた。『二つ持ち』の称号は決して自分のものではない。今すぐにでもそう叫びたかったが、それはできない。ただ、光が消えた短剣を握りしめたまま、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
お礼を言う少年にかろうじてうなずくと、逃げるようにその場を離れた。通りかかった辻馬車を無理やり呼び止め、屋敷へと急ぐ。
玄関で出迎えてくれたアンナの表情が曇った。
「お嬢様!? おひとりで戻ってこられたのですか!? それに、お顔が真っ青です! 一体どうなさったのですか!?」
「……なんでもない。ただ、少し疲れただけ……」
まさか市場で乱闘騒ぎを起こしたなんて言えない。何でもないように微笑もうとした瞬間、視界がぐらりと傾いた。体の力がまるで糸が切れたように抜けていく。
「お嬢様!!」
アンナの悲鳴を最後に、意識は闇に沈んだ。闇の向こうから、あの水滴の音が聞こえた気がした。




