第20話 水の都
王妃からの手紙が届いたのは、ソフィアと話した数日後の朝だった。
『近頃サラが、いつにも増して図書館に籠もりがちでございます。休暇の日まで書庫にこもりきりなのはいかがなものかと案じております。もしお差し支えなければ、街へ連れ出して、気を晴らさせてやってくださいませ──』
便箋を持ったまま思わず天井を仰いだ。
(……私のせいよね、これ)
旧聖典だの破られた頁だの、あれだけ焚きつけたのだ。隠された歴史にドキドキする、と言っていた彼女のことだ。休みの日まで書庫に通い詰めていても不思議ではない。
「お嬢様?」
「アンナ。今度、街へ出るわ。あなたも一緒に来て」
「えっ、わたくしもですか? ですが、わたくしはメイドで……」
「いつも一緒にいるじゃない。仕事を忘れて、友達として付き合ってちょうだい」
アンナの目がぱっと輝いた。
王妃へ返事を書き、サラへも誘いの手紙を添えた。
目的は一つ。サラに本のことを忘れさせる日を作ることだ。
◇ ◇ ◇
さらに数日後、王宮の正門で待っていると私服姿のサラが現れた。侍女の装いを解くと、驚くほど普通の、同じ年頃の娘に見える。
「お誘いいただいて、ありがとうございます」
「そんなにかしこまらないで。こっちはアンナ。うちのメイドなんだけど、仲良しなの」
「アンナさん。よろしくお願いしますね」
「こ、こちらこそよろしくお願いいたしましゅ」
(アンナ、噛んでるわよ……)
アンナでも緊張するのか。ぎこちなくお辞儀をするアンナに、サラが柔らかく微笑み返した。
◇ ◇ ◇
まだ昼前にもかかわらず、通りはもう人で溢れていた。色とりどりの布や果物が並び、商人の呼び声が飛び交う。それに、どこからか焼き菓子や焼いた肉の匂いが漂ってくる。
「すごい……王都の街はこんなに賑やかなのですね」
サラが目を丸くして、通り沿いの露店をキョロキョロと眺めている。よし、出だしは上々だ。
最初に入ったのは香水屋だった。小瓶がずらりと並ぶ棚の前で、三人で次々と香りを試していく。
「サラ、これはどう? あなたに合いそう」
薄紫の小瓶を差し出すと、サラは照れくさそうに香りを確かめた。
「いい香りですね。……そういえば、古代の神殿では香を焚いて祈りを捧げたという記録が──」
「はい、そこまで」
サラの口がぴたりと止まった。
「今日は古代の話は禁止」
「……すみません」
隣でアンナが変に涼しげな顔をしているが、知っている。あれは笑いを堪えている顔だ。
店主が勧めるままにそれぞれ小瓶を一つずつ買い、店を出た。サラは小瓶を鼻に近づけご機嫌な様子だ。よし、この調子ね、と内心で拳を握りしめる。
昼は屋台で焼きたてのパンを買い、川沿いのベンチで頬張った。
「こんな風に食べるなんて、初めてです」
「はしたないでしょう?」
照れくさそうにパンをかじるサラへおどけてみせると、三人でケラケラと笑った。
石造りの橋が川面に影を落としている。秋の陽が水面に砕けてきらきらと揺れていた。
「王都は、橋がたくさんあるのですね」
サラがぽつりとつぶやいた。
「わたくしの故郷は水の少ない土地で、雨が降らない年は井戸まで干上がるのです。こんなに豊かに水が流れているなんて」
しんみりした声だった。故郷のことを思い出しているのだろうか。これなら古代の話にはならないだろう。
と思った矢先、アンナが得意げに胸を張った。
「それなら知ってます。この王都は、古い都の遺跡の上に建っているんですって。昔の地下水路を今でも使っているから、水には困らないそうですよ」
「古い都の、地下水路……」
サラの瞳がキラリと光る。
(もう、アンナったら……! 余計なことを)
すかさず話を逸らそうとしたが、自分の目も勝手に橋の袂へ向いていた。石壁の下に、鉄格子のはまった暗い入口がある。
(そういえば、マチルダの屋敷の通路も水の音がしていたわね……)
あの蜘蛛のゴーレムはどこから来てどこへ行ったのか。地下水路を通ったとするなら、もはや追いようがない。
(もしかして、古代の遺跡のどこかにいるのかな……? 古代にあんなゴーレムを作る技術があったとしたら……)
考えだすと止まらない。
「エミリア様?」
サラが不思議そうにこちらを見ていた。
「……何でもないわ」
危ない危ない。禁止を言い出した本人が一番破りかけていた。
その後も、小間物屋や裁縫店など、あちこちの店を見て回った。やがて陽が少し傾き始めた頃、サラがおずおずと切り出した。
「あの……王宮へ戻る前に、一つだけ。書店に寄ってもよろしいでしょうか」
アンナと顔を見合わせた。
「……結局、本なのね」
「すみません……」
「……いいわよ。王妃殿下には、半日は忘れていました、と報告しておくわ」
三人で笑いながら『賢者の書房』へと向かった。
重い扉を押すと、古紙の匂いが鼻をくすぐる。そして奥の閲覧席に見慣れた背中があった。
「ジル様!」
声をかけると、ジルが本から顔を上げて微笑んだ。
「やあ、エミリアさん。今日はご友人とご一緒ですか?」
「ええ。こちらはアンナ。それから、王妃殿下付きの侍女の──」
振り返って、言葉が途切れた。
サラが入口で立ち尽くしていた。顔から血の気が引いている。ジルを見つめたまま、瞬きすら忘れたように動かない。
「サラ様?」
アンナが心配そうに覗き込む。サラはびくりと肩を揺らし、慌てて深く頭を下げた。
「し、失礼いたしました。存じ上げている方によく似ていらしたもので……」
(……ああ、なるほど)
たしかにジルは、黙って座っているだけでも人目を引く顔立ちだ。王宮勤めで貴族の子弟を見慣れているサラでも、見とれて固まることくらいあるのだろう。
「サラと申します。どうぞ、お見知りおきを」
「ジルです。こちらこそ」
ジルは穏やかに会釈を返した。だが、サラはまだ、どこかこわばっている。
それから少しの間、ジルが本を紹介してくれた。各地域の歴史書、地方の祭礼の記録、そして──
「これは各国の伝承を並べて比べた本です。同じ出来事が、国によってまるで違う形で語られています。面白いですよ」
受け取った手が止まった。
「……つい先日、同じことを言われたばかりなんです。別の国の伝承と重ねれば、消された部分が見えるかもしれない、って」
「ほう。それは、よほど聡明な方ですね」
ジルは楽しげに目を細めた。誰に言われたのか、訊いてはこなかった。もっとも、王太子妃殿下に、とは言えない。話がややこしくなる。
ほどなく、店の入口に男が一人現れた。仕立ての良い地味な外套をまとっていた。こちらに一礼すると、まっすぐジルのもとへ歩み寄る。
「お迎えに上がりました」
「ああ、もうそんな時間か」
ジルは本を棚へ戻し、立ち上がった。
「では、私はこれで。楽しい時間をありがとうございました」
優雅に一礼して、従者と共に店を出ていく。扉が閉まる直前、隣でサラがもう一度深く頭を下げた。
(やっぱり王宮勤めは礼儀正しいのね)
とはいえ、ちょっとかしこまりすぎなのでは、とも思ってしまう。まあ、これも彼女の性分なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「今日は楽しかったです。本当に、ありがとうございました」
王宮の門の前で、サラが小瓶を胸に抱いて頭を下げた。
「また三人で出かけましょうね。次こそ、古代の話禁止を守ってもらうわよ」
「……努力いたします」
笑い合って別れた。
だが帰り道、隣を歩くアンナが首をかしげた。
「サラ様、書店を出てから、ずっと考え込んでいらっしゃいましたね」
「そう?」
「はい。何度も、書店の方を振り返っていらっしゃいました」
気づかなかった。ジルに勧められた本のことばかり考えていたからだ。
(見とれていただけ……よね?)
それはそれで、何だか気になる。
◇ ◇ ◇
走り出した馬車の中で、ジルは窓の外へ目を向けていた。
「待ち合わせとはいえ、あの場で声をかけるのは感心しないな」
「申し訳ございません。会議の刻限が迫っておりましたので」
「サラに顔を見られた。まあ、あの娘は口が堅いから心配はないとは思うが……」
従者が恐縮して頭を下げる。
「まあいい。それで、先日の件は?」
ジルの声の調子が変わった。従者の背筋も伸びる。
「はい。やはり、候補としてお名前が挙がったようです」
「となれば、いずれ妃候補として推される流れもあり得るか」
「否定はできません」
王都の夕景が窓を流れていく。ジルはしばらく黙っていた。
「……こちらも、急がねばならんな」
「いかがなさいますか」
「番犬のそばに置いておくのが、一番安全だろう」
従者が顔をしかめた。
「番犬とは……さすがにお言葉が過ぎるかと」
「はは、冗談だ。だが、ああ見えてあの人は、怒らせると誰よりも怖いぞ」
口元は笑っていた。だが、窓の外を見る目は少しも笑っていなかった。




