第19話 北から来た姫
王太子妃の応接室は、イルスレイド王国の貴族の屋敷でよく見られる豪華絢爛な装飾とはずいぶん雰囲気が異なるものだった。
金箔も大理石もない。温かみのある木彫りの工芸品が棚に並び、壁には柔らかな色合いの織物が掛かっている。窓辺の小さな鉢には、見たことのない白い花が咲いていた。
「ふふ、珍しい? 故郷の品々なの」
「し、失礼しました。つい……」
見回していたのを気づかれていたらしい。ソフィアは咎めるでもなく、長椅子へ腰を下ろした。
サラが手際よく茶を淹れていく。ラウルは勧められた椅子の端に浅く腰かけ、膝の上で両手を握っていた。なんといっても王太子妃の私室だ。自分もそうだが、やはり落ち着かない。ラウルにとっては生きた心地がしないだろう。
「さて」
ソフィアがカップを手に取った。
「図書館では、ずいぶん熱心に何かを調べていらしたわね」
「は、はい。古代史を少し……」
「旧聖典」
まさか王太子妃からその言葉が出るとは。カップを持つ手が止まってしまった。隣でラウルも固まっている。
「ごめんなさいね。入口のあたりで少し聞こえてしまったの」
誰もいなかったので、声の大きさを気に留めていなかった。うっかりしていた。
「それと──」
ソフィアは紅茶を一口含み、何でもないことのように続けた。
「ロイデン猊下にお会いになったそうね。中央教会で」
思わず、ソフィアの顔を見つめてしまった。
「……ご存じなのですか?」
「それなりに〝耳〟は良いのよ」
うふふ、とソフィアは微笑んだ。穏やかで、柔らかい笑みだ。だが、一昨日の出来事をどうやって知ったのだろう。
「猊下とはどのようなお話を?」
「その……聖石のことで教会に伺ったんです。そうしたら、たまたま猊下がいらっしゃって」
この人には隠し事はできないのだろう。事情をかいつまんで話した。
「猊下は親切にしてくださって。本国に戻られたら催促してくださると」
「そう」
ソフィアはそっけなく相槌を打つと、カップを口へ運んだ。
(──?)
先ほどまでの笑みが、ふっと引いたように見えた。
(……何か、まずいことを言ったかしら)
沈黙が落ちる。サラが新しい茶を注ぐ音だけがやけに耳についた。
「あの、妃殿下。お聞きしても?」
ここまで、ソフィアの目的が今ひとつ分からない。意を決して尋ねてみる。
「先日、庭園でお会いしたとき……何かおっしゃりかけましたでしょうか?」
ソフィアの手がカップの縁で止まった。ほんの一瞬だった。だが、すぐに微笑みが戻る。
「……そうだったかしら」
「はい。わたくしの方を見て、何か」
「よく覚えていらっしゃるのね」
ソフィアはそっとカップを置いた。
「デビュタントの夜のこと、王妃殿下から伺っていたの。たいそう面白がっていらしたわ。それで、お顔を見てつい」
これは、はぐらかされたのか、と思った。だが、それを王太子妃に聞くわけにはいかない。
「それに、あなたは『二つ持ち』だと伺っているわ」
胸の奥が軋んだ。また、だ。否定する言葉は喉まで来ている。だが、王太子妃に何と答えたらよいのか。
「……過分な噂です」
それだけ返すのがやっとだった。
ソフィアはじっとこちらを見ていたが、やがて小さく首をかしげた。
「不思議ね。『二つ持ち』と言われて、そんなお顔をなさる方は初めて。……ほら、二つ持ちの方ってやっぱり特別でしょう? 周りもそう扱いますし」
何か含みがあるような言い方だ。
「わたくしは──」
と言いかけて一瞬迷った。だが、この人なら笑わない気がした。
「血脈がすべてだとは、思っておりません」
ソフィアの目がわずかに見開かれた。
「血脈がなくても努力で届く場所があるはずだと……そう信じて、剣も学問もやってきました」
言ってから、顔が熱くなった。王太子妃に向かって何を青臭いことを語っているのか。血脈なんて関係ないなどと言ったところで鼻で笑われるだけだ。
だが、ソフィアは笑わなかった。
「わたくしの故郷ではね」
窓辺の白い花に、視線が移る。
「血脈を、ここほど重んじないの。北の国は古くからガルナック帝国と行き来があって。……帝国では生まれより何ができるかを見るのよ。その気風がわたくしの国にも流れてきているの」
「そんな国が……」
「あるのよ。この大陸では少数だけれど」
ソフィアはカップを両手で包んだ。
「だから、嫁いできて驚いたわ。ここでは誰もが最初に血脈を気にするのね。わたくしの血脈は何か、どれほど強いのか、とか」
それと、と彼女は少し言葉を詰まらせた。
「王太子妃として、お世継ぎにふさわしい血を持っているのか」
その言葉で、胸に鈍い痛みが走った。
誰もわたくしに直接聞くことはないのだけど、と話すソフィアの声は穏やかなままだった。だが、カップを包む指先に、わずかに力がこもっている。
(──庭園で見た、あの表情……)
口には出せなかった。
「ごめんなさい。愚痴になってしまったわね」
ソフィアが顔を上げたとき、そこにはもう先ほどまでの微笑みがあった。
「それで、『旧聖典』のことだけれど」
何事もなかったように話題が戻った。
「妃殿下、何かご存じなのですか!?」
ラウルが思わず身を乗り出したが、すぐに自分の無作法に気づいたのか青くなっていた。だが、ソフィアは気にした様子もなかった。
「少しだけ。〝旧〟とつくからには、今の聖典は〝改められたもの〟ということでしょう?」
たしかに。言われてみれば当たり前のことだ。
「何かが書き換えられた。あるいは、削られた。図書館の本が破られていたのなら、なおさらね」
破られていた、とは言っていない。ソフィアは図書館にある書物の、何をどこまで知っているのだろうか。
「誰が、何のために……」
「それは分からないわ。ただ、教会の中だけを探しても答えは出ないと思うの。だって、〝残したくないもの〟なんですものね。残っているはずがないわ」
ぐうの音も出なかった。
「では、どこを探せば……」
「教会の外よ。たとえば、南のシャリューン王国。あの国には今も精霊信仰が根強く残っていて、教会とは別の伝承を持っている。わたくしの故郷にも古い言い伝えがいくつか」
ソフィアは指先で卓の上に小さく円を描いた。
「同じ出来事を、別の国が別の言葉で語り継いでいるとしたら。重ねてみれば、消された部分が浮かび上がるかもしれないわね」
隣でラウルの喉が鳴った。
(比べる……他の国の伝承と)
考えたこともなかった。この王国の書庫ばかりを掘っていた。
「ありがとうございます、妃殿下。……糸口が見えた気がします」
「それは良かったわ」
ソフィアは立ち上がった。それが、辞去の合図だった。
「今日は楽しかったわ。久しぶりに」
そう言って、再び窓辺の白い花に目をやった。
「本当に……久しぶりに」
◇ ◇ ◇
応接室を辞し、図書館へ戻る廊下を歩いた。
「……すごい方でしたね」
サラがほっと息をつく。ラウルはまだ肩に力が入ったままだ。
「心臓が止まるかと思った。だって、王太子妃殿下の部屋だぞ……」
「でも、ちゃんと話せてたじゃない」
「話せてない。一言、口を挟んだだけだ」
ラウルは額の汗をぬぐうと、長い息を吐いた。
歩きながら、ソフィアとの会話を思い返していた。
旧聖典のことを知っていた。ロイデンに会ったことも知っていた。本が破られていたことまで。でも、庭園で何を言いかけたのかは教えてもらえなかった。
それよりも、枢機卿のことを口にした時の様子が気になった。あのそっけない返事。枢機卿の何が問題なのだろうか。
「エミリア様?」
サラが覗き込んでくる。
「……いいえ、何でもないわ」
窓の外で日が傾き始めていた。久しぶりに、と繰り返し言ったあの声が、いつまでも耳に残っていた。




