第九十八話 王子の使者は、森の法より先に命令を置いた
見張り小屋へ戻ると、根の扉の前に黒い馬が一頭つながれていた。
雨に濡れた石畳の上で、その馬だけがひどく場違いに見える。鞍にはソラヴェイン王家の紋章があり、扉の脇には紺の外套を着た男が立っていた。衛林隊員二人が距離を置いて見張っている。
男は尽たちを一度見たが、すぐセレーネへ視線を移した。
「セレーネ王女殿下。ソラヴェイン王宮の書記官、カルヴォスと申します」
深く頭を下げる動作は整っていた。けれど目だけは、小屋の中を数えている。尽、リゼッタ、ペペ、ユーノ。逃げた四人が揃っていると確かめる目だった。
「要件を」
セレーネは言った。
カルヴォスは封蝋のついた書状を差し出す。
「王族襲撃の容疑者四名を、ソラヴェインの法に従って引き渡していただきたい。対象は風間尽、リゼッタ・アルヴァ、ペペ・ロス、ユーノ・フィンの四名です」
自分の名前を他人の口で聞くと、尽の背筋が固くなった。
「容疑の内容は」
ナディアが問いかける。
「レオハルト殿下の実習室へ侵入し、危害を加え、王家の調査資料を持ち出したこと」
「侵入ではありません」
尽は口を挟んだ。
「王子から呼び出されました」
「その点も、帰国後に調べます」
カルヴォスは淡々と返した。
「殿下は現在、重傷のため、詳しい聴取に応じられません」
「重傷?」
尽は思わず聞いた。止めたのは、王子の足元へ流した風だけだ。レオハルトは膝をついた。唇を噛んでいた。けれど、運ばれるほどの怪我には見えなかった。
カルヴォスは返事をしない。
「医師の診断書はありますか」
リゼッタが言った。
「学生へ渡す文書ではありません」
「なら、森の記録へは『使者は診断書を提示しなかった』と書くわ」
ナディアが横から言った。
カルヴォスの頬が、ほんの少しだけ動いた。
セレーネは書状を開いた。読み終えるまで、誰も話さなかった。根の壁に掛かった灯りが揺れ、紙の端を照らしている。
「エルシリンの森で起きた襲撃未遂について、彼らは目撃者であり、調査協力者です」
セレーネは書状を卓へ置いた。
「森の法に従って記録を取り、保護の要否を決めます。あなたの国の書状だけで、今ここにいる人を渡すことはできません」
「王女殿下。これは両国の問題です」
「だから、片方の言葉だけで決めません」
カルヴォスは小屋の窓から外を見た。森の奥には、王宮の衛兵よりずっと多くの目がある。無理に連れ出せば、ここでは彼の方が説明を求められる。
「王宮は正式な回答を求めます」
「こちらも報告書を出します」
「七日以内に」
「七日以内に、回答します」
セレーネの声は変わらなかった。
カルヴォスは新しい書状を一枚出した。先ほどのものより薄い。封はされていない。
「殿下から、風間尽殿へ伝言があります」
尽が受け取ろうとすると、男は紙を引かなかった。
「学院へ戻れば、君の友人たちにも事情を聞くことになる。研究会の者も、授業で近くにいた者もです」
小屋の空気が冷えた。
「脅すの?」
ペペが一歩前へ出た。リゼッタがすぐに袖を掴む。
「脅しではありません。必要な聴取です」
「王子が先に術を使ったことも、聞くんですか」
尽は聞いた。
「そのために帰国していただきたい」
カルヴォスは、今度だけ尽をまっすぐ見た。
「逃げ続ければ、君たちの説明はますます難しくなる」
言葉だけなら正しい。だから余計に腹が立った。尽たちは帰るつもりだった。だが誰かを人質のように名前へ並べられて、今すぐ戻るわけにはいかない。
「回答は、エルシリンの窓口へ届けてください」
セレーネが言う。
「尽さんたちは、私たちの調査に関する限り、森の客です」
カルヴォスは紙を手放し、深く礼をした。黒馬へ乗る前、彼は谷から運ばれた封印箱を一瞬だけ見た。その視線を、尽は見逃さなかった。
馬の蹄の音が聞こえなくなってから、ペペが椅子を蹴った。
「脅してる」
「脅しよ」
リゼッタは言った。
「だから今すぐ戻って、王子と二度目をやるのは駄目。あちらは、私たちを急がせたい」
尽は渡された紙を開いた。中には短い一文だけが書かれていた。
〈塔の欠片は、森の根より深い〉
「何だ、これ」
ユーノが紙を覗き込む。
「脅し文句かもしれない」
「誰かが書いた暗号かもしれません」
尽は紙を折り、懐へ入れた。王子の言葉か、王子の周りにいる誰かの言葉か。今は判断できない。
セレーネは衛林隊の報告書を開いた。谷の木箱、白い網、学院地下保管庫と書かれた紙片、カルヴォスが箱へ向けた視線。机の上には、集めたものが一つずつ並んでいる。
「精霊国の記録官と、学院の外部資料照合室へ申請を出します」
彼女は言った。
「皆さんを学院へ入れる場合、匿うためではなく、証拠を扱う研修生としてです」
「許可は出るんですか」
ペペが聞く。
「私が出すものではありません」
セレーネは首を横に振った。
「学院長、記録官、衛林隊の代表が決めます。外来の学生を受け入れるなら、面談と実技確認が必要です。授業へ出て、規則を守り、地下保管庫へは勝手に近づかないと約束してもらいます」
「地下に近づけないのに、地下を調べるの?」
「記録を扱う資格を作るためです」
リゼッタが答えた。
「手続きが面倒だからこそ、後で誰かが勝手に入ったと言えなくなる」
セレーネは頷いた。
「王都の使者へ渡す回答も、その記録と一緒に作ります。引き渡すかどうかだけではありません。森で見つけた物を、誰が、いつ、どのように扱ったかまで書きます」
尽は風晶片を見た。逃げるために越えた森で、また学校へ入る話をしている。
けれど今度は、招待状一枚に導かれるわけではない。自分たちの署名と、見つけた証拠を持って入る。
七日間、尽たちは見張り小屋で報告書の写しを作り、谷で見つかった物の目録を手伝った。ペペは封印箱を運ぶ台車の車輪を直し、ユーノは網の術式を鏡板へ写し取った。リゼッタは港の加工糸について、商人から聞いた記録を整理した。
尽は風晶片の反応を、朝と夜で紙へ残した。夜になると、欠片は決まって東の方角へわずかに温かくなる。精霊学院がある方角だった。
七日目の夕方、セレーネが根の扉を開けて入ってきた。
手には四枚の薄緑の札がある。
「学院から返事が来ました」
ペペが立ち上がる。
「入れる?」
「許可はまだです」
セレーネは札を卓へ並べた。
「代わりに、明日の朝、面談と実技確認を受けるよう命じられました」
札には、エルシリン高等魔法学院、外来研修候補者と記されていた。




