第九十七話 白い網は、森の獣より人を待っていた
谷へ入る前に、セレーネは一人ずつの顔を見た。
夜の雨が葉から落ち、朝の光を細かく砕いている。見張り小屋の前にはフェルドと、昨日入口に立っていた女の衛林隊員が待っていた。女はナディアと名乗ったが、尽たちへ向ける目は昨日と変わらず慎重だった。
「ここから先は、森の道ではありません」
ナディアが言う。
「獣が使う水場です。根を傷つけない。目印以外の茸を摘まない。谷で見つけた物は、勝手に鞄へ入れない」
ペペが自分の工具袋を見た。
「拾わなければいいんですよね」
「拾った後に聞く者が多いので、先に言います」
ペペは背筋を伸ばした。
セレーネは地図を開いた。紙には谷を囲む高い岩場と、細い水の流れが描かれている。
「私とフェルドは前を見ます。尽さんは風で糸の動きを探してください。ユーノさんは鏡板で魔力の残りを見ます。ペペさんは、戻る道へ印を付けてください」
「任せて」
「目立たない印で」
ペペの返事が半分になった。
「リゼッタさんは」
セレーネはそこで少しだけ間を置いた。
「火を使う前に、必ず声をかけてください」
「最後だけ説明が長いわね」
「大切なので」
リゼッタが肩をすくめる。昨日の夜に聞いた話を思い出したのか、セレーネもすぐには目を逸らさなかった。
「分かったわ。森を丸焼きにする趣味はないもの」
ナディアが、ほんの少しだけ笑った。
谷への道は途中から消えていた。人の背より高い草が足元を隠し、濡れた枝が外套へまとわりつく。尽は腕を上げ、掌ほどの範囲に風を流した。強く吹かせれば、残された痕跡も飛んでしまう。草の先だけを揺らすくらいでいい。
白いものが、風に触れて震えた。
「止まって」
尽が言う。
前方の草の間に、髪の毛より細い糸が走っている。一本だけなら朝露か蜘蛛の糸に見えた。けれどそれは何本もあり、人の胸ほどの高さで木から木へ結ばれていた。
「網は獣を捕る高さじゃない」
フェルドが矢を番えたまま近づく。彼が細い枝を投げると、枝は途中で弾かれ、白糸が一瞬だけ銀色に光った。
「人を待っている」
尽は喉が乾くのを感じた。
谷へ誰が来るかを知っていた者がいる。密猟者を追う衛林隊か、セレーネか。どちらにしても、森の中の事情を聞ける場所にいた者だ。
「鏡板を」
ユーノは頷き、小さな板を糸へ向けた。鏡面に朝の光が集まり、結び目の奥で黒い影が滲む。風晶片と同じ、針のような魔力の揺れだった。
「黒い針が混ざっています」
ユーノの声が低くなる。
「糸を切ると、結び目が反応するかもしれません」
「先に、どこまで張られているか見ます」
尽は地面へ近い風を流した。草の裏、石の隙間、低い枝。白糸は道を横切るだけではない。少し先の岩場を囲うように、見えない壁を作っていた。
その内側から、鈍い鳴き声が聞こえた。
セレーネが顔色を変えた。
「角獣です」
ナディアが手を上げ、全員を止める。
「網を抜ければ術が動く。右手の水路から回る」
水路と呼ばれた場所は、膝まで泥へ沈む細い溝だった。ペペが最初の一歩で靴を取られ、片足だけ泥に残した。
「待って、靴が」
「声を抑えて」
リゼッタが腕を掴む。
「でも、片方だけで帰るの?」
「帰るまでに拾えばいいわ」
尽は笑いそうになったが、口を結んだ。足を抜く音さえ、今は大きく聞こえる。
岩場の裏へ回ると、白い網の内側に若い角獣が倒れていた。片方の角にはまだ短い産毛が残り、後ろ脚へ糸が深く食い込んでいる。近くの木には空の小瓶が吊られ、甘い匂いが漂っていた。
「眠り草です」
ナディアが言った。
「獣を眠らせ、助けに来た者まで網へ掛ける。よく考えています」
セレーネは網へ手を伸ばしかけ、止めた。
「助けます。ただし、先に術式を外します」
尽は結び目を見た。風で触れれば反応を確かめられるかもしれない。けれど間違えれば、網が縮んで角獣の脚を切る。
「ユーノ、黒い揺れはどこが強い?」
「中央と、左の根元です。中央の方は、糸の振動を記録しているように見えます」
「記録?」
「網に触れた物の重さか、魔力をどこかへ送る術式です」
学院の実習室にあった金の網を思い出した。閉じ込めるだけなら、こんな面倒な仕組みはいらない。誰が掛かったかまで知りたいのだ。
尽は深く息を吸った。
「僕が中央の風を止めます。リゼッタは左の根元だけ焼いて。ナディアさんは、切れた後に獣を引いてください」
「私もやります」
セレーネが言う。
「根を動かして、網が脚へ落ちないようにします」
フェルドは反対しかけたが、セレーネの手にはすでに淡い緑の光が集まっていた。
「姫君、私の合図で」
「はい」
尽が指を折る。
三つ。
二つ。
一つ。
風が白糸の中央へ入り、細い結び目を持ち上げた。黒い揺れが跳ね返ろうとする。尽はそれを押し返さず、隣の糸へ逃がすように流れを曲げた。
「今」
リゼッタの火が左の根元を赤く染める。糸が焼ける匂いがして、同時にセレーネの足元から根が伸びた。網の下へ入り込み、重みを受け止める。
角獣が目を覚まし、暴れた。
白糸が大きく揺れる。尽の風が一度、外へ弾かれた。
「尽さん」
ユーノの声が飛ぶ。
鏡板に映った黒い針が、道の方を向いていた。術式は網を切られたことを、外へ伝えようとしている。
尽は手首を返し、風を一本の線へ絞った。黒い揺れを糸の中で回し、帰る道を失わせる。額に汗が流れた頃、リゼッタの火が残った糸を焼き切った。
網が落ちる。
だが根が受け止めた。
ナディアとフェルドが角獣を抱え出し、ペペが遅れて片方の靴を掲げた。
「拾えた」
「今、それなの」
リゼッタが呆れた声を出す。
角獣は数度足を踏み、谷の奥へ逃げていった。白い尾だけが草の向こうで揺れ、すぐ見えなくなる。
岩場の中には、小さな木箱が残されていた。表には薬材商の印。裏返すと、三本の波線と、その下に薄く削られた文字が見えた。
ユーノが布を当て、そっと土を払う。
「ソラヴェイン王立術具研究会の管理番号です」
尽の胸が冷えた。
「王子の研究会だ」
ペペが言った。
「研究会の番号を、誰かが使ったのかもしれない」
尽は答えた。
そう言わなければならなかった。番号があるだけで、レオハルトが森の罠を指示したことにはならない。だが学院の中で、印章が消え、荷札が使われ、今度は管理番号が森へ現れた。
木箱の蓋を開ける前に、ナディアが記録札を一枚置いた。
「発見時刻。立会人。封の状態。全部残します」
「その方がいい」
リゼッタが言う。
「後で誰かが、最初からここにあったと言い出さないように」
箱の中には空になった小瓶が三つ、精霊獣の淡い羽、それから濡れた紙片が入っていた。紙は半分ほど溶けていたが、残った文字だけは読める。
〈エルシリン高等魔法学院・温室地下保管庫〉
セレーネは紙片を受け取り、長く息を吐いた。
「学院の保管庫は、王国の研究記録を置く場所です。温室の地下には、古い植物標本と、外へ持ち出せない魔力素材もあります」
「外から来た人は入れない?」
尽が聞く。
「入れません」
「王女でも?」
セレーネは首を横に振った。
「私の印で入れば、記録の扱いが曖昧になります。王家が隠したと疑われるかもしれない」
リゼッタは紙片から目を離さなかった。
「なら、正規の研究生として入る理由を作る」
「簡単にはできません」
セレーネはきっぱり言った。
「学院には入学の手続きがあります。研究生の受け入れにも、先生方と王国の許可がいる。私が勝手に通せば、あなたたちを守るための手続きが、別の疑いを増やします」
尽は頷いた。急いでいたせいで、学院から逃げた。ここでも急げば、同じように誰かの言葉に隙を渡す。
「まず報告ですね」
「はい」
ナディアが木箱へ封印札を貼る。セレーネはその印が乾くまで見守っていた。
谷の出口へ戻る頃、遠くから鳥笛が三度鳴った。
フェルドの表情が変わる。
「見張り小屋からだ。外の国の使者が来た」
尽は白い網の切れ端を見た。学院の番号が森へ出ている。そして王都は、自分たちを追っている。
木箱を抱えたナディアが先に走り出した。尽たちもその後を追う。




