第九十六話 森の客は、助けられる前に疑われた
セレーネが案内したのは、王都でも城でもなかった。
森の斜面に露出した大きな根の間に、丸い見張り小屋が埋まっている。入口の扉は樹皮と同じ色で、近くまで来るまで建物だと分からない。フェルドが指を二度鳴らすと、根の隙間に灯った小さな光が、尽たちの顔を順に照らした。
「客を連れて帰ったのですか」
扉を開けた女のエルフは、開口一番にそう言った。
「襲われかけた姫君を助けた者たちだ」
フェルドの答えにも、女は表情を変えない。
「だからこそ、確認します。姫君を助ける芝居で近づく者もいる」
ペペが小さく息を呑んだ。尽も反論できなかった。王子の実習室で起きたことを、自分たちは見た。けれど外から聞けば、王子を襲った学生が逃げている話にしかならない。
「分かりました」
尽は言った。
「調べてください」
小屋の中は思ったより広かった。根に沿って丸い壁が続き、壁際には弓、薬草の束、地図の筒が並んでいる。中央の低い卓には白布が敷かれ、書記らしい若い精霊族が羽根ペンを構えていた。耳は丸く、額の中央に薄い青の紋がある。
「名前と出身を」
「風間尽。ソラヴェイン魔法学院の学生です」
尽が答えるたび、羽根ペンが紙を走る。リゼッタ、ペペ、ユーノも同じように名を告げた。荷物は入口に預け、持っていた短剣も、ペペの工具袋も机の上へ置く。風晶片だけはセレーネが白布の中央へ移させた。
欠片は、昼間より温かかった。
「これは何ですか」
書記が聞く。
「風見塔の近くで見つけました。黒い針に反応した風晶片です」
尽が答えると、女の衛林隊員が眉を寄せた。
「黒い針」
リゼッタが、学院で起きたことを最初から話した。研究会の印章が消えていたこと。風見塔に研究会の名を使った荷札があったこと。王子が記録と風晶片を自分へ渡せと命じ、断った直後に光の鎖を放ったこと。
感情を足さずに話しているのに、声が途中で一度だけ掠れた。
「王子が先に術を使ったの」
リゼッタは最後に言った。
「尽が風で止めた。私たちは扉を開けようとしただけよ」
ペペは卓の端に置かれた木片を見つめたまま続ける。
「鎖は尽の手首へ飛んだ。僕、すごく近くで見た。だから、間違えない」
ユーノは紙を一枚取り出した。逃げる間にも守り抜いたらしい、実習室の見取り図だ。机の位置、窓、入口、鎖が伸びた方向。彼は細い線で印をつけていく。
「もし尽さんから先に攻撃したなら、窓側の灯具は壊れません。鎖が鏡板に反射して、あちらへ当たりました」
書記が初めて顔を上げた。
「王子を倒したのですか」
「倒していません」
「手配書には、王子が倒れたと」
「術を止めた時、足を滑らせて膝をついただけです」
尽は答えた。
部屋の空気が少しだけ止まった。自分の言葉が頼りなく聞こえた。王子を前にして、冷静だったわけではない。怖かった。腹も立った。その直後に逃げた。それらを全部並べれば、自分でも綺麗な話にできない。
「僕たちは、逃げました」
尽は続けた。
「教授が逃げろと言ったからです。戻って説明するつもりです。でも、今は王子の側が先に書いた話が広がっています」
セレーネは黙って聞いていた。彼女の外套の裾には、さっきの網を避けた時についた土がまだ残っている。
女の衛林隊員が白糸の網を卓へ置いた。
「こちらの件も聞かせましょう」
糸は水を含んで鈍い銀色になり、根の灯りを返している。セレーネが端についた三本の波線を指でなぞった。
「海沿いの交易商会の印です。薬草と染料を扱う商会ですが、最近は許可のない荷まで森へ入っています」
「密猟者ですか」
尽が聞くと、フェルドが頷いた。
「獣を捕る者もいる。眠り草を撒く者もいる。春先には、外の術具を使って泉の水位を測った連中がいた。誰が金を出しているかは掴めていない」
「この印を、学院でも見ました」
尽は言った。
セレーネの目が鋭くなる。
「レオハルト王子が繋がっていると思いますか」
「分かりません」
尽はすぐに首を振った。疑いだけで名を重ねれば、王子がしたことと同じになる。
「でも、学院の中から情報か物が外へ出ているなら、確かめたいです」
書記は長い間、羽根ペンを止めていた。やがて紙を裏返し、別の欄を開く。
「森の客として保護する場合、目的と期間を記録します。王家の許可なく、外来者を奥地へ入れることはできません」
セレーネがすぐに言った。
「記録庫の照合をお願いします。風晶片は王家の保管庫に似たものがあるはずです」
「姫君。彼らは王都の手配を受けた者です」
「だから調べます。手配書があるから、話を聞かないという記録にはしません」
声は穏やかだった。けれどフェルドも書記も、それ以上すぐには言い返さなかった。
結局、尽たちはその夜だけ見張り小屋に留め置かれることになった。翌朝、白い網が使われた谷を衛林隊と調べ、その結果を添えて王家へ保護を申請する。もし森の決まりを破れば、申請は取り消しになる。
「何もしなくても、森の決まりは破れそうだね」
二階へ上がる階段で、ペペが囁いた。
「ペペは、先に木の根を蹴らないで」
「まだ蹴ってないよ」
「まだ、ね」
リゼッタの言葉に、ペペは黙った。
二階の寝室には、蔓を編んだ寝台が四つ並んでいた。窓の外では木の葉が擦れ、遠くから水の音が聞こえる。尽は横になっても目を閉じられなかった。王都の掲示板に貼られた手配書が、まぶたの裏に残っている。
しばらくして、廊下の床板が小さく鳴った。
尽が扉を開けると、セレーネが二つの湯飲みを持って立っていた。
「眠れませんか」
「セレーネ様も」
「様はいりません。今は、王女らしいことをしていないので」
「護衛を置いてきたからですか」
尽が言うと、彼女は少しだけ目を細めた。
「それもあります」
差し出された湯飲みから、甘い草の匂いがした。尽は受け取り、窓際の長椅子へ座る。セレーネも隣ではなく、向かいの壁際に腰を下ろした。
「学院に残った人が心配です」
尽は湯気を見ながら言った。
「教授や、研究会と関係のない学生まで、王子に巻き込まれるかもしれない」
「私も同じです」
セレーネは言った。
「森で何か見つけると、すぐ一人で走りたくなります。誰かが傷つく前に見つければいいと思って。でも、今日のように自分が捕まりかけると、護衛も森の人たちも危なくします」
尽は湯飲みを両手で包んだ。
「それでも、調べるのをやめないんですね」
「やめません。今度は、一人で先へ行かないだけです」
彼女は迷いなく答えた。
尽は、逃げてきた自分のことを考えた。逃げるしかなかった。その判断は変えられない。だが、逃げたままにするかどうかは、これから決められる。
「僕たちも、手伝います」
「助けてもらっているのに」
「手配されている学生を森に置く理由が必要なんでしょう」
セレーネは一瞬驚き、それから笑った。
「分かりました。明日は谷へ行きましょう。ただし、勝手に枝を折らないこと。泉を覗き込まないこと。光る茸を食べないこと」
「三つ目だけ、誰がやるの」
尽が聞くと、廊下の奥で寝返りの音がした。
「たぶん、あの方です」
セレーネが指した先で、ペペの寝言が聞こえた。
「甘そう……」
尽は吹き出しそうになり、慌てて湯飲みへ顔を伏せた。
翌朝、卓の上には一枚の許可書が置かれていた。白糸の網が使われた谷へ入るための、期限一日の調査許可だ。
セレーネは自分の名を最初に書き、尽へペンを渡した。
「森の客としてではなく、調査の同行者として署名してください」
紙には五人分の署名欄があった。
尽は名前を書いた。細い線で引かれた自分の字が、森へ残す最初の約束になった。




