第九十五話 逃げる道は、森の中で王女に見つかった
学院の裏門を抜けた時、尽は初めて自分の足が震えていることに気づいた。
背後では、まだ朝の空気を裂くように警報の鐘が鳴っている。石畳の先にある洗濯場では、女たちが大きな籠を抱えたまま塔の方を見上げていた。誰も尽たちを見ていない。それでも、声をかけられたら終わりだと思った。
「こっちです」
ユーノが、教授から渡された紙片を握りしめて走る。紙には細い字で、荷捌き場、染物小屋、外壁の水路、とだけ書かれていた。
ペペは途中で息を詰まらせた。
「これ、本当に先生が言った道なの? 僕ら、ただの逃亡者にしか見えないんだけど」
「今は逃亡者でいい」
リゼッタは振り返らなかった。
「捕まって、王子の言い分だけを記録に残されるよりはましよ」
尽は頷いたが、胸の奥は重かった。さっきの実習室には、砕けた結晶灯も、鎖が焼いた跡も残っている。自分たちが説明すれば、教授も証言してくれるはずだ。それなのに逃げる。正しいことをしたつもりで、学院の門をこそこそ出ている。
水路の脇へ身を寄せると、外壁の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「西の棟も見ろ。四人組だ。風術を使う黒髪の男がいる」
尽は思わず髪を押さえた。
「特徴が雑すぎる」
「王子にとっては十分なんでしょうね」
リゼッタの声は硬い。
ペペが水路へ掛かった板をずらした。下には、染料の桶を運ぶための低い通路が続いている。匂いはきつかったが、今は選べない。四人は濡れた石壁に肩を擦りながら進み、荷捌き場の裏へ出た。
そこには、灰色の幌を掛けた荷馬車が一台止まっていた。御者台の老商人は、尽たちを見ると何も言わず、荷台の布をめくった。
「エウリス先生の紹介だ。食料箱の間へ入れ。門を出るまでは声を出すな」
「僕たちを乗せたら、あなたも困るでしょう」
尽が言うと、商人は肩をすくめた。
「困るさ。だが、学院の先生に昔、息子を助けてもらった。借りを返すなら今日だ」
荷台には乾燥豆の袋と、森国へ運ぶ塩漬け肉の樽が積まれていた。ペペが樽の陰へ潜り込み、ユーノが一番奥へ入る。リゼッタは帳簿を胸へ抱いたまま、尽の隣に座った。
幌が落ちた。
馬車が動き出してから、誰もすぐには話せなかった。
門番の声が近づく。
「積荷は」
「乾燥豆と塩肉だ。エルシリンの市まで」
「通行証」
紙をめくる音がした。尽は風を使いたくなる衝動を噛み殺した。ここで風を起こせば、誰かが気づく。何もしないことが、こんなに難しいとは思わなかった。
「待て」
荷台の横が叩かれた。
ペペの靴が、ほんの少し尽の膝へ当たる。リゼッタの指先が、見えないところで火花を一つだけ散らした。馬が鼻を鳴らし、御者が慌てた声を出す。
「おい、火気は困る。塩肉が駄目になる」
「分かった、行け」
馬車はまた進んだ。
石畳の音が土の道の音へ変わってから、商人が幌を少し開けた。
「もう顔を上げていい。王都の外だ」
尽は外へ出た。遠くにソラヴェイン魔法学院の白い塔が見える。晴れた朝の光を受けて、何事もなかったように立っていた。
あの中に、調査記録の写しを預かった教授がいる。レオハルトもいる。尽たちが戻らなければ、王子の言葉だけが広がるかもしれない。
「戻ります」
自分に言い聞かせるように、尽は言った。
「今すぐではなくても、必ず」
リゼッタが小さく頷く。
「その時は、逃げるためじゃなく、調べるために戻るわ」
商人の馬車は、王都から西へ延びる街道を三日かけて進んだ。最初の夜は街道沿いの宿場で荷台の下に寝た。王宮から届いたらしい手配書は、翌日の昼には市場の掲示板に貼られていた。
そこに書かれていたのは、王子の実習室へ侵入し、王族へ危害を加えた不届きな学生四名。
「侵入って、僕たち、呼び出されたよね」
ペペが干しパンを折りながら言う。
「書いた人は、呼び出した事実を忘れたのかも」
ユーノは手配書を眺めた。
「忘れたのではなく、書かなかったのでしょう」
尽は紙から目を逸らした。怒りより先に、妙な寒さが来た。言葉を先に決めてしまえば、後から起きたことまでその形に見える。レオハルトは、自分で傷ついた膝を見せて、誰かへそう話したのだろうか。
商人は手配書の下に、果物屋の値札を重ねた。
「森国の境は、王宮の役人より商人の顔が利く。だが、着いたら別の荷に移れ。わしの馬車まで目をつけられちゃ困る」
尽たちは礼を言った。助けてもらうたび、戻る理由が一つ増える気がした。
四日目の昼、街道は大きな木の根に押し上げられ、石の道から土の道へ変わった。国境の標柱には、ソラヴェイン王国の紋章と、若葉を抱く鹿の紋章が並んでいる。検問所は思ったより静かだった。荷を調べる衛士の耳が少し尖っていることに、ペペが目を丸くする。
「本当に精霊国なんだ」
「耳だけで決めるのは失礼です」
ユーノが言うと、ペペは慌てて口を閉じた。
荷札と通行証を確かめた森国の衛士は、尽たちへ一度だけ視線を向けた。しかし学生服の上へ商人の古い外套を着た四人を、それ以上は止めなかった。王都からの手配が森国まで届いていないのか、届いていても扱いを決めていないのか。尽には分からない。
ただ、境を越えた途端、風の匂いが変わった。
湿った土と、花の蜜と、見たことのない樹皮の香りが混じっている。枝の高いところを青い鳥が飛び、羽ばたくたび、こぼれた光が葉の裏で揺れた。
商人は次の町へ向かう分かれ道で馬車を止めた。
「ここから先は、森の道に慣れた者と行け。エルシリンの奥へ入りたいなら、勝手に踏み込むなよ」
彼は尽へ、小さな革袋を渡した。中には保存食と、最低限の硬貨が入っていた。
「返す時は、真っ当な身分に戻ってからでいい」
尽は何度も頭を下げた。
馬車が見えなくなると、四人は急に小さくなった気がした。王都ではどこにいても学院の塔が見えた。ここでは、見上げても枝と空しかない。
「さて」
リゼッタは森の案内板を読んだ。
「王宮の外で風晶片を読める人を探す。エウリス教授の紙には、エルシリンの王家に古い風晶の記録があると書いてあった」
「王家へ会いに行くの?」
「会えたら、ね」
ペペは案内板の下に描かれた注意書きを指した。
「『歌う泉より北は案内人同伴』ってある。僕、この国の案内板、急に詩的になるの苦手かも」
「泉が歌うなら、分かりやすいでしょう」
ユーノは真顔だった。
尽は少しだけ笑った。笑った後で、こんな時にと思う。それでも、四人でいると息が続いた。
歌う泉を探して森道へ入ってから一刻ほど経った頃だった。
前方の道の真ん中に、白い外套の少女が座り込んでいた。
銀色の髪には葉が一枚引っかかり、足元には小さな鞄が置かれている。森の中で迷った旅人に見えた。ただし、外套の裾は泥一つなく、靴も歩いた人間のものとは思えないほどきれいだった。
「あの」
少女は尽たちに気づくと、ぱっと顔を上げた。
「道を知りませんか。私の護衛が、私を見失ったようで」
リゼッタが尽へ囁く。
「護衛が王女を見失うことはないわ」
少女の耳は、少し尖っていた。囁きは聞こえたらしい。彼女は困ったように笑う。
「では、私が護衛を置いてきたのかもしれません」
「置いてきたんですか」
ペペが素直に聞いた。
「急いでいたので」
尽は、思わず周囲を見回した。道の左右には茂みしかない。けれど風は不自然に止まっている。鳥も鳴いていなかった。
「セレーネ様」
低い声が、木々の奥から飛んだ。
少女が小さく肩をすくめる。
「見つかりました」
同時に、別の場所で笛が鳴った。
白い糸の網が枝から落ち、少女の頭上へ広がる。尽は手を伸ばした。風を強く起こせば、網ごと彼女を吹き飛ばしてしまう。だから網の端だけを持ち上げるように、渦を細くねじる。
リゼッタの火が糸を数本だけ焼き、ペペは近くに積まれた倒木を蹴って網の落ちる場所へ転がした。ユーノは鏡板をかざし、網へ飛んだ小さな針を明後日の方へ逸らす。
網は少女ではなく倒木を包み、ぎしりと締まった。
その瞬間、少女の指先から淡い緑の風が広がった。枝が一斉に鳴り、隠れていた何人かの足音が森の奥へ散っていく。追いかけようとした尽の前へ、古い木の根がせり上がって道を塞いだ。
「逃がしてしまいました」
尽が言うと、少女は首を振った。
「いえ。顔を見られなかった方が、今は都合がいいです」
さっきの低い声の主が、枝を払って現れた。革鎧を着た長身のエルフで、弓を握っている。彼は少女を確認すると深く息を吐き、次に尽たちを厳しい目で見た。
「姫君から離れろ」
「待って、フェルド」
少女は彼の前へ出た。
「この方たちは私を助けてくれました。網をかけた人たちとは違います」
弓兵の視線が、倒木へ落ちた。網の糸には小さな商印が押されている。三本の波線を並べた印だった。
尽の背中が冷えた。
風見塔で見つけた運搬札にも、レオハルトの研究会が隠していた荷札にも、同じ印があった。偶然とは思えない。
「これは、どこの印ですか」
尽が尋ねると、弓兵のフェルドは答える前にセレーネを見た。
「海沿いの交易商会です。森国の薬草を買う者たちが使う印ですが、ここ数月、許可のない者まで森へ入っている」
「それを調べに来たの?」
リゼッタがセレーネへ聞く。
「はい。ですが、護衛を置いてくる必要はなかったと、今は思っています」
「今は、ね」
ペペが言うと、セレーネは少しだけ頬を膨らませた。
「最初から反省していたら、ここまで来ていません」
フェルドが額を押さえた。
尽は、森国の王女が迷子ではないことだけは理解した。自分から危ない場所へ入り、失敗したと分かっても、必要なことだったと言い切る。その横顔は、さっき学院で見たレオハルトとはまるで違う。命令される側の声を、彼女は聞こうとしていた。
「あなたたちも、追われていますね」
セレーネは尽の古い外套と、靴に残った王都の泥を見て言った。
尽はすぐに答えられなかった。正体を明かしていい相手かは分からない。けれど網の印を見た彼女の目には、作り話で近づく人間を見分けようとする真剣さがあった。
「学院で、証拠を取り上げられそうになりました」
尽は言った。
「王子と争って、今は戻れません。僕たちはこの印と、風晶片のことを調べたい」
セレーネは驚かなかった。むしろ、ようやく話がつながったように息を吐いた。
「森の客として、いったん匿います。王家の記録庫なら、あなたの風晶片も調べられるかもしれません」
フェルドが反対しかける。
「姫君」
「客を森の入口に置いていく方が危険です。彼らを狙った者と、私を狙った者が同じ道を使っている可能性があります」
落ち着いた口調だった。けれど、決めたことは曲げない目だった。
「ただし、すぐ王都へ連れて行くわけにはいきません。まず見張り小屋で事情を聞かせてください」
尽は仲間を見た。リゼッタは短く頷き、ユーノは網の印を紙へ写し取っている。ペペはセレーネの鞄を見て、何か言いたそうにしていた。
「分かりました」
尽は答えた。
逃げるために越えた国境の先で、彼らは新しい問題の真ん中へ立っていた。




