第九十四話 王子の命令は、学院の鐘より先に鳴った
風見塔の調査から戻った翌朝、尽は授業の鐘より早く学院へ来ていた。
北門には新しい風晶検査箱が置かれ、学生が通るたび青い光が一度だけ揺れる。塔で見つかった黒針の件以来、衛士は荷車の中まで調べるようになった。いつもの遅刻者たちが、今日は文句も言わず列へ並んでいる。
「昨日までなかったのに」
ペペが検査箱を見た。
「昨日まで、必要だと認めた人が少なかったのよ」
リゼッタはそう答え、帳簿の端へ検査にかかった時間を書いた。尽は自分の鞄の中で、風晶片が冷たくなるのを感じた。
黒針に反応した欠片だ。学院長へ渡す前に、もう一度だけ紙鳥の式札で記録を確かめたかった。だが、朝のうちに王立術具研究会から呼び出し札が届いた。
差出人はレオハルト・ソラヴェイン。
「行くの?」
ユーノが聞いた。
「行く。呼び出しを無視すると、後で何を言われるか分からない」
研究会の実習室は、朝の光がよく入る塔の二階にある。壁には金色の術具が並び、窓際にはレオハルトの班が作った結晶灯が置かれていた。以前なら、扉の前から笑い声が聞こえただろう。
今日は静かだった。
部屋にいたのは王子だけである。外套は乱れなく整い、机には茶も菓子も置かれていない。代わりに、失われた研究会印章の写しと、学院の保管庫から持ち出された記録の複写が並んでいた。
「座りたまえ」
レオハルトは言った。
誰も座らなかった。
「風見塔の件で、研究会の名が使われたことは聞いた」
彼は紙を一枚持ち上げる。
「だが、研究会の名があったからといって、私が関わった証拠にはならない。君たちもそう言っていただろう」
「言いました」
尽は答えた。
「だから、学院の記録を調べる必要があるとも言いました」
レオハルトの笑みがわずかに薄くなる。
「その記録と風晶片を、私へ渡したまえ。王宮の監査官が調べる」
「学院長へ提出します」
尽は鞄の口を閉じた。
「王宮が調べるなら、学院と王宮の両方へ同じ写しを出せばいい」
「君は話が分からないな」
王子の指が、机を一度叩いた。
その音だけで、ペペの肩が跳ねた。レオハルトはすぐに穏やかな顔へ戻ったが、声の底に冷たいものが残っている。
「私はこの国の王子だ。学院の小さな疑いを、国の騒ぎにしない責任がある。君たちは余計な記録を外へ出す前に、命令を聞けばいい」
リゼッタが帳簿を閉じた。
「責任と言うなら、印章が消えた時に報告すべきだったわ」
「報告した」
「替えを作れば済むと言われて、そこで止めたのでしょう」
レオハルトはリゼッタを見た。彼女の声は大きくない。だから実習室の静けさが、かえって言葉を目立たせた。
「あなたは、研究会の信用を守ろうとした。その結果、誰かが研究会の名前を使えた」
「私を責めるのか」
「事実を言っているだけよ」
尽は二人の間へ入るように言った。
「王子を疑っているわけではありません。だからこそ、一人へ渡せないんです」
王子はしばらく尽を見た。整った顔が、急に年相応より幼く見えた。
「君たちは、私が怖いのか」
「怖いです」
尽は正直に答えた。
「王子だからではない。今、僕たちの話を聞く気がないから」
レオハルトの頬が引きつった。
「聞く必要がない。私は命令できる」
金色の光が、彼の足元から床を走った。
尽が鞄を引くより早く、光の鎖が手首へ飛ぶ。ペペは机を蹴って鎖の軌道をずらし、ユーノは鏡板を掲げた。鎖の一部が鏡面へ跳ね、壁の結晶灯を砕く。
「王子、止めて!」
リゼッタの火は鎖の先だけを焼いた。熱は机へ届かない。けれど王子は二つ目の術式を組んだ。
今度は実習室の扉が閉まり、窓の光が金色の網へ変わる。
「証拠を渡せば、誰も傷つかない」
「もう傷つけようとしてる」
尽は窓の隙間へ意識を向けた。風を大きく起こせば、机も人も倒れる。細く。王子の足元だけ。彼は掌で風を曲げ、外套の裾を払うほどの渦を床へ作った。
レオハルトは一歩踏み出し、足を滑らせた。
膝が床へ当たり、金の網が消える。
廊下で警報の鐘が鳴った。
王子は唇を噛んだ。血が少しにじんでも、彼は笑った。
「王族への襲撃だ。逃げられると思うな」
尽は息を止めた。何が起きたかを説明すればいい。実習室の結晶灯、鎖の傷、皆の証言がある。
だが警備が先に来れば、証拠も尽たちも王宮の手へ渡る。レオハルトが自分で書状を出せる間に、話は一つの形へ固められる。
裏口の扉が開いた。
エウリス教授が立っていた。
「今は出ろ」
「教授。でも」
「正しい説明をするために、生きて戻れ。記録は私が預かる」
尽は迷った。調査記録の写しを教授へ渡す。風晶片は鞄の奥へ入れ直した。エウリスは写しを内ポケットへしまい、短い道順を書いた紙を尽の手へ押しつけた。
「西門から出ろ。学院の外で待つ者へ連絡を残せ。戻る時は、一人で来るな」
尽たちは実習室を出た。
授業開始の鐘は、まだ鳴っていない。




