第九十三話 事件の後の教室では、英雄より提出物が強い
風見塔の一件から三日後、尽たちは普通の授業へ戻っていた。
戻ったはずだった。
「風見塔を止めた子たちだ」
廊下を歩くだけで、知らない生徒が振り返る。ペペはそのたびに小さくなり、ユーノは本の陰へ隠れた。尽はできるだけ早く教室へ入ろうとした。
リゼッタだけは、少し胸を張っていた。
「英雄扱いには慣れておくべきね」
「提出物は終わっていますか?」と尽。
リゼッタは止まった。
「……何の?」
サイラス教授は教壇から四人を見た。
「風見塔で何を学んだか。魔法的、構造的、社会的な問題をそれぞれ書け。明日の朝まで」
教室が静かになる。
リゼッタは尽へ顔を向けた。
「三種類?」
「三種類です」
「英雄に提出期限はないと思っていたわ」
「あります」
午後、四人は実習室に残った。
尽は風路の図を描き、ユーノは黒い針の構造をまとめる。ペペは風見塔で消された記録が、商人や旅人にどう影響したかを書いた。
リゼッタは白紙を前に、珍しく黙っていた。
「書けませんか?」
「書けるわ。ただ、どこから書くか決めているの」
「二時間、決めています」
「大きな問題ほど、入口が難しいのよ」
紙鳥が机の上へ降り、彼女の白紙を覗き込んだ。
『なまえ』
小さな文字が浮かぶ。
リゼッタはしばらく紙を見た。
やがて、ゆっくり書き始めた。
『記録は、利益や損失だけでなく、人が帰った事実を残すためにある』
尽は横から見て、何も言わなかった。
その日の夕方、学院長から一通の手紙が届いた。
差出人は、光の精霊王国エルシリンにある高等魔法学院。
風見塔の記録修復と、尽たちが作った風晶検査箱について聞き、共同研究と短期研修を申し入れてきた。
リゼッタの目が輝く。
「精霊王国の学院!」
「急ですね」とペペ。
「向こうは種族を問わず学生を受け入れる。風と生命の魔法は、ここより進んでいるはずだ」
教授は尽を見る。
「行くか?」
尽は紙鳥を見た。
風の仕組みをもっと知りたい。式札が覚えた名前を、ただの偶然で終わらせたくない。
「行きたいです」
リゼッタはすでに鞄の大きさを考えていた。
「今度は縄を――」
教授が咳払いをした。
「持ち物表を先に出せ」
「……学習した女だもの。もちろんよ」
提出期限の朝、四人の報告は同じ内容にならなかった。
尽は、風路の図を最初に置いた。黒い針がどの向きへ風を集め、どこで逆流を起こしたか。分からない部分には、分からないと書いた。第一環から第四環までの図は、紙の端へ収まりきらず、二枚目へ続いた。
ユーノは、装置の材料について書いた。風晶そのものが悪いのではない。回路を閉じ、外からの確認をなくし、異常を知らせる仕組みを外した時に危険になる。彼は、盗まれた風晶の返却だけでは足りず、次に誰が貸し出し、誰が検査するかまで決める必要があると結んだ。
ペペは、黒枝宿場の荷役人の話を書いた。
門が閉じた時、荷物の遅れで仕事を失った人。響喉獣の声を聞いて、家族へ返事をしかけた人。風見塔の名前が帳簿から消えたため、戻った者の証言まで疑われた人。魔法装置の被害は、塔の中だけで終わらない。
リゼッタは、最後まで一枚の紙へ向かっていた。
書き出しは、紙鳥が示した通り「名前」だった。
だが途中から、商会の帳簿のような表が続く。止まった荷車の数。傷んだ薬草の量。迂回に掛かった日数。補償を受け取るべき商人と、記録を出すべき役所の窓口。
尽が読んで、少し驚いた。
「これ、社会的な問題だけじゃないです。補償の手順まであります」
「損を受けた人へ、正しい言葉だけ渡しても仕方ないでしょう」
「でも、金額だけでは人を数にするって」
「だから、名前と一緒に書くのよ」
リゼッタは表の一番左に、小さな欄を作っていた。
〈申立人が、自分で確認した内容〉。
代理人や役所が勝手に「これでよい」と決めないための欄だ。
彼女は以前、金を払えば解決したと思っていた。今は、受け取る人が何を失い、何を必要としているかを、本人の言葉で残そうとしている。
教授は四人の紙を並べ、すぐ点を付けなかった。
「同じ事件を見て、四つの報告がある」
教室へ、報告を見に来た生徒たちが集まっていた。
「どれが正解ですか?」
一人が聞いた。
「全部が正解なら、何も書く必要がない」と教授は答えた。
「どれも足りない。だから重ねる」
尽は少しだけ肩の力を抜いた。
英雄として褒められるより、足りない報告として読まれる方が気が楽だった。
昼休み、レオハルトが実習室へ来た。いつものように整った制服を着ているが、以前ほど大きな声ではない。
「エルシリンへ行くのか」
「はい」と尽。
「研究会の風晶資料を、向こうの学院へ渡す話が出ている。僕も整理を手伝う」
リゼッタが言った。
「今度は、都合の悪い頁を抜かないのね」
レオハルトは目を伏せた。
「抜きたくなったら、誰かに見せる」
それは立派な反省の言葉ではない。けれど、彼にはそれで十分な一歩に見えた。
精霊王国からの招待は、観光のためではない。風晶検査箱の共同試験、生命魔法による記録媒体の保存、そして尽の指輪に似た異星由来の反応を調べるためのものだった。
学院長は旅程へ条件を付けた。
外部へ出る学生は、目的、経路、連絡先、帰還予定を事前に書く。変更が起きたら、理由と判断者を残す。持ち物は三人で相互確認する。危険な現場へ寄る場合、研修資格を止める。
リゼッタはその条件を読んで、すぐに反論しなかった。
「窮屈ね」
「行かないという選択もできます」と教授。
「行くわ。窮屈だからこそ、誰が何を決めたか分かる」
尽は彼女を見た。
リゼッタはすぐ気づく。
「何よ」
「本当に学習しています」
「さっきも言ったでしょう」
「今回は、少し信じます」
彼女は顔を赤くして、尽の持ち物表を奪った。
「なら、信じるついでにこれを直す。工具が多すぎる」
「必要です」
「必要かもしれない物と、必要な物を分けるの」
二人のやり取りを見て、ペペが笑った。紙鳥は机の上で、持ち物表の端を嘴で叩く。
『よみなおす』
「その通りです」と教授。
出発は七日後に決まった。
七日は短い。けれど、行く理由を忘れず、帰る予定を残すには十分な時間だった。
尽は教室を出る前、風見塔の報告書の写しを一部、北門の記録箱へ入れた。
エルシリンで何を見つけても、ここで見たものを後から都合よく書き換えないために。
帰り際、北門の前でサフィアとすれ違った。
彼女は衛士二人に付き添われ、聞き取りのため学院へ来ていた。拘束具は外れていない。けれど手には、エルナ・レイグの記録の写しが一枚だけ許されていた。
「精霊王国へ行くの?」
サフィアが聞く。
「研修です。帰る予定も書きました」
「あなたたちは、いつも帰ることを書く」
尽は少し迷った。
「帰れなかった人がいたからです」
サフィアは写しの端を撫でた。
「私は、祖母を取り戻すために、他の人の帰る場所を狭くした」
「これから調べます。だから、言いたいことがあれば記録に残してください」
許すとは言わない。大丈夫とも言わない。
サフィアは、それを求めていなかったようだった。
「エルナは、根茶が嫌いだった」
小さく言って、彼女は衛士と歩き出す。
尽は、その一言が次の記録へ足されることを願った。罪の記録だけでは、人はまた一つの形へ閉じ込められるからだ。
七日後、彼らはエルシリン行きの船へ乗る。
旅立つ前に、戻る者の名を板へ残した。
それは誓いではない。
帰るための、確認可能な予定だった。




