第九十二話 帰る道に名を残せば、紙の鳥も迷わない
風見塔の事件は、すぐには終わらなかった。
盗まれた風晶の返却、古い観測者名簿の再調査、アルド・ヴェイン商会と術具研究会の印章を巡る捜査。学院と役所は忙しくなった。
黒衣の女、ナディア・レイグは衛士に連れて行かれた。
逃げなかった。祖母の記録が残っているかを、何度も確かめるように振り返っていた。
リゼッタは役所の窓口で、被害を受けた商人の帳簿をまとめていた。
「返却だけでは足りないわ。検査で止まった荷、傷んだ品、遠回りした車賃。全部、数字にする」
「また数字ですか」と尽。
「今度の数字は、人を消すためじゃない。損を放っておかないための数字よ」
彼女は少し照れながら、帳簿へ判を押した。
学院へ戻ると、レオハルトが待っていた。
保管庫の記録を洗った結果、失われた印章は事務局の古い鍵を使って持ち出されていた。犯人は、商会へ情報を流していた元職員だった。
「研究会の名を傷つけた」とレオハルトは言った。
「あなたが隠したことも、少しは傷にしたわ」とリゼッタ。
「分かっている」
彼は珍しく、言い返さなかった。
尽は式札を机へ置いた。
紙は、もう勝手に数えない。
命令を待つように、静かに白い面を見せている。
尽は筆を取り、初めて自分で短い命令を書いた。
『聞いた名を、許可なく使わない。助けを求める声だけを、帰れる場所へ運ぶ』
紙鳥は文字を読み、ゆっくり頷くように嘴を下げた。
「名前は?」とペペ。
尽は少し考えた。
「まだ、決めません。自分で呼ばれたい名があるかもしれないから」
リゼッタが笑った。
「そこまで考えるなら、もう仲間でしょう」
紙鳥は彼女の肩へ飛んだ。
リゼッタは一瞬だけ驚き、それから得意そうに顎を上げた。
「賢い鳥ね。誰が一番頼りになるか、分かっているわ」
紙鳥は彼女の発帯を嘴でつついた。
角を隠す結び目が少し緩む。
「こら! そこは触らないで!」
尽とペペとユーノが笑った。
紙鳥は慌てて尽の肩へ戻り、白い翼に一行だけ浮かべた。
『ごめん』
尽はその文字を見て、少し嬉しくなった。
命令を守るだけの紙ではない。
間違えて、謝ることもできる。
学院の北門には、新しい風晶検査箱が二つ置かれた。
その脇には、風見塔で見つかった観測者たちの名を記した小さな板が立っている。
帰った者が、帰ったと分かるように。
そして尽たちは、次の授業の鐘に遅れそうになって、慌てて学院の坂を駆け上がった。
遅刻した授業は、よりによって安全手順だった。
講師は、尽たちが教室へ滑り込むと、黒板の前で腕を組んだ。
「遅れた理由を三つに分けて説明しなさい」
尽は息を整える。
「一つ目、北門の検査箱で、風晶の読み取りに時間がかかりました。二つ目、坂道を走る判断が遅れました。三つ目、紙鳥がリゼッタさんの発帯を引っ張って」
「最後は理由ではないわ!」
リゼッタが言った。
教室のあちこちで笑いが起きる。講師も口元を隠したが、すぐ真面目な顔へ戻った。
「では、最後を除いた二つは、次にどう変える?」
尽は少し考えた。
「検査箱の読み取りは、待つ人と記録する人を分けます。坂道は、授業前に出発時刻を決めます」
「よろしい。遅刻も、原因を分ければ次の手順になる」
それは風見塔で学んだことと同じだった。大きな事故だけが、記録を必要とするわけではない。
授業の後、教授は尽たちを呼び止めた。
机の上には、紙鳥の式札に関する提出書がある。学院は、式札を危険な古術として没収することもできた。風塔の装置が、同じく声と名へ触れる術だったからだ。
「許可を出す条件がある」と教授は言った。
尽の背筋が伸びる。
「一、式札を他人の名の収集へ使わない。二、助けを求める声を運ぶ場合も、受け取る側を確認する。三、命令を書き換える時は、少なくとも二人が内容を読む」
「二人で読めば、絶対に安全ですか」
「絶対ではない。だが、一人の思い込みを止める機会になる」
教授は紙を尽へ渡した。
「お前自身が署名しろ。式札はお前の道具だ。だから責任も、誰かへ預けきるな」
尽は署名した。
次に紙鳥の方を見る。
「君の名前を決めていい?」
紙鳥はすぐ頷かなかった。机の上を二歩歩き、窓の外を見た。北門の名板、風見塔の方角、学院の屋根。しばらくして、白い翼に細い文字を出す。
『まだ、きめない』
「分かった」
「名前が決まるまで、何て呼ぶの?」とペペ。
尽は困った。
リゼッタが、紙鳥の様子を見て言う。
「呼ばない時があってもいいでしょう。本人が返事をしたい時だけ、近くへ来る。それで困ることはないわ」
紙鳥は、また彼女の肩へ飛んだ。今度は発帯へ触れない。少し離れた場所で羽を畳む。
リゼッタは得意そうに言った。
「ほら。私の言葉は分かるのよ」
紙鳥は翼へ文字を出した。
『うるさい』
教室にいた全員が黙った。
次の瞬間、ペペが吹き出した。ユーノも笑い、尽は机へ顔を伏せた。リゼッタだけが紙鳥を見上げたまま、言葉を失っている。
「今、何て?」
『ごめん』
「謝るのが早すぎるわ!」
紙鳥は慌てて尽の肩へ逃げた。
その夕方、尽たちは北門の名板へ小さな紙片を添えた。風見塔の観測者の名だけではない。調査へ入った九人の名前と印も、本人が了承した形で残す。誰かが後から「何人だったか」を勝手に決めないためだ。
ペペは自分の花印を見て、少し恥ずかしそうにした。
「子どもみたいです」
「見れば分かる方がいい」とユーノ。
「名前だけが記録ではない。でも、名前も記録から外さない」
尽は板を見上げた。
レムリアへ来る前、彼は自分がどこへ行くかも決められなかった。今は、帰る人のための板へ自分の名を残している。
それは大きな力を得た証ではない。
一人で決めず、誰かと戻る道を残すと決めた証だった。
次の旅は、学院の外へ出る。
雾渊の帳簿、鬼門の軍火、星骸舟の記録。風見塔で止めたものより大きな仕組みが、まだ遠くで動いている。
紙鳥は尽の肩で、南西の方角を見た。
尽も、同じ方角を見た。
今度は地図を北へ固定しなかった。
赤曜と碧曜、今いる場所、帰れる門。それぞれを確かめてから、次の線を引いた。
夜、三人は学院の共同工房で、次の旅の荷を広げた。
尽は工具と式札。セレーネは学院から借りる植物標本箱と、空間記録用の小鏡。リゼッタは旅費、連絡先、食料の調達表を机へ並べる。
「私が全部持つ必要はないわ」とリゼッタ。
「じゃあ、誰が何を持つか書きます」と尽。
「書かなくても覚えている」とセレーネ。
「覚えている人が、途中で倒れたら?」
セレーネは少し考え、素直に頷いた。
三人は荷札を三枚作った。目的地は鬼門国の工匠区。その先に雾渊がある。けれど、最短距離を急ぐとは書かない。途中で不審な軍運や人身売買の痕跡を見つけた場合、誰か一人が勝手に追わず、三人で相談する。
リゼッタは最後の条項へ、わざと大きく書いた。
〈公主は危険な場所へ単独で飛び込まない〉。
「誰のことですか?」と尽。
「あなたも入るわ」
「僕は公主ではありません」
「危険へ先に入る癖がある人、という意味よ」
セレーネが笑いながら、隣へ書き足す。
〈精霊王女は、囮をする前に仲間へ言う〉。
リゼッタが目を細めた。
「それも大きく書いて」
紙鳥は三枚の荷札を順に見て、最後に白い翼へ出した。
『みんな、いう』
尽は頷いた。
名前を残すことから始めた旅は、次に、危険を隠さない約束へ進もうとしていた。




