第九十一話 第四環は、消された名前を返すために回り始めた
第四環は地図に載っていなかった。
マルド老人が古い工事記録の余白を重ね、山肌の線と避難小屋の位置を照らし合わせて、ようやく入口を見つけた。崩れた採石場の奥。人が通らなくなって何十年も経つ場所だった。
調査隊が着いた時、山全体が低く唸っていた。
四つの風見塔から伸びた風路は、岩山の中央にある巨大な円盤へ繋がっている。円盤の周りには、盗まれた風晶が数えきれないほど並び、黒い針が一本ずつ深く刺さっていた。
黒衣の女は円盤の前にいた。
「遅かった」
「まだ止められる」と尽。
「止めれば、また消える。ミレアも、観測者たちも、帳簿の外へ戻る」
女は一冊の濡れた帳簿を抱えていた。第三環で見つけた記録と同じものだ。
「私の祖母は、最後の観測者の一人だった。帰ったのに、戻った者は六人だと書かれた。誰も祖母の話を信じなかった。だから私は、声を集めた。数にすれば、誰にも消せない」
リゼッタが円盤を見た。
「数にしても、あなたのお祖母様の名前は戻らないわ」
「戻らなくても、消えない」
「それは違う。名を消された痛みを知っているなら、他の人の名まで消してはいけない」
女の手が震えた。
円盤が回り始める。風晶の光が一つに集まり、山の中を無数の声が通り抜けた。
『ひとり。ふたり。さんにん』
尽は式札を開いた。
紙鳥は、円盤の音に怯えるように羽を縮めている。
「数えなくていい」と尽は言った。
「聞いて、覚えて。名前を呼べるように」
彼は帳簿を思い出す。
ミレア・ヴォルン。風の逆流を聞いた技師見習い。
教授が、古文書室から持ってきた観測者名簿を開いた。
一人ずつ、消された名を読む。
衛士も、ペペも、ユーノも、知っている名を読んだ。日付しか残らない者には、担当した風向きと帰った記録を添えた。
声は数ではなく、呼びかけになった。
式札の紙鳥が、名を一つずつ紙へ写していく。
円盤の回転が遅くなった。
黒衣の女は泣きながら、最後の頁を開いた。
そこには祖母の名があった。
『エルナ・レイグ。第四環、帰還確認』
彼女は初めて、帳簿を胸から離した。
「……帰っていた」
「記録は残っていたの」とリゼッタ。
「隠されていただけよ」
円盤の針が外れ、風晶の光が空へ散った。
誰かを一つに固めるための装置は止まった。代わりに、山を抜ける風が四方へ戻っていく。
紙鳥は女の前へ降り、白い翼に小さく一行を浮かべた。
『エルナ・レイグ』
女は、それを両手で包んだ。
けれど、円盤は止まっていなかった。
回転は遅くなっただけで、黒い針の根元にはまだ光が残っている。山の風路へ戻りかけた風が、半分だけ中央へ引かれていた。
「全員、円盤から離れてください!」
教授が叫ぶ。
黒衣の女は動かなかった。帳簿を抱えたまま、円盤の前に座り込んでいる。
「私が止める」と彼女は言った。
「どうやって」と尽。
「針を全部抜く。私が始めた」
「一人で抜いたら、第一環と第二環の風がここへ戻るかもしれません」
「でも、私が」
「始めた人が、最後まで一人で壊す必要はありません」
尽は彼女の前へ、名簿の写しを置いた。
「エルナさんの名前を戻したいなら、これをまた一人の帳簿にしないでください」
女は、紙を見た。
尽は続けた。
「あなたがやったことは、調べます。襲われた商隊のことも、首輪をつけられた響喉獣のことも、塔で怖い思いをした人のことも。なかったことにはできません」
女の顔が強ばる。
「罰するの」
「調べる。誰か一人が決めないように」
教授が静かに頷いた。
「今は、止める手伝いをしろ。お前が知っている針の順番を言え」
女は長く息を吐いた。
「中央からではない。外側の四本を、対になるように抜く。先に北と南。次に東と西。最後の二本は、同時に緩めないと風が戻る」
マルド老人がすぐ図を描いた。教授は衛士へ位置を割り振る。リゼッタは火を最小まで絞り、黒蝋だけを溶かす。尽とユーノは鏡板を使い、針の根元に残る風の向きを確かめる。ペペは、名簿と出発表を抱え、誰が円盤へ近づいたかを数える。
「九人」とペペが言う。
「九人、ここにいます」と尽。
最初の二本が外れる。
山の北側と南側から、風見石の低い音が聞こえた。
次の二本。
円盤が大きく揺れ、黒衣の女がよろめく。リゼッタが咄嗟に腕を掴む。以前なら、自分より先に装置へ向かったかもしれない。今は、倒れそうな相手を先に支えた。
「離して」と女。
「離したら、また一人で決めるでしょう」
「私は、あなたたちを危険に」
「だから、次は勝手に危険へ入らないで」
リゼッタの言葉はきつい。それでも手は離さない。
最後の二本へ移る前、尽の式札が激しく震えた。
紙鳥の羽に、七つの名前が浮かぶ。ミレア。エルナ。そして、帳簿に残る六人分の断片。
『ここに、いた』
紙鳥は、声を大きくするのではなく、円盤の下にある小さな石板へ名を写した。石板は、これまで数字だけを受け取っていたらしい。名が並ぶと、黒い線が一つずつほどけた。
「今です」と尽。
最後の針が外れた。
風は一度、山を揺らした。
石が落ち、円盤の縁が割れる。衛士が盾を上げ、教授が光で崩れた岩を押し返す。リゼッタは尽の腕を引き、尽はペペとユーノの紐を掴む。
誰も、先に出口へ走らない。
風が収まった時、巨大な円盤は完全に止まっていた。
四つの塔から伸びていた風路は、もう中央へ集まらない。谷へ、森へ、宿場へ、ばらばらの土地へ戻っていく。
黒衣の女は、割れた石板の前に膝をついた。
「祖母は、帰った後に何をしたの」
マルド老人が、医務帳の写しを見た。
「左手の火傷へ薬を塗った。二日後、風見塔の軸を直した。根茶は飲まなかった」
女は涙をぬぐった。
「根茶、嫌いだったのね」
「そこまで分かる記録が残っていた」
彼女は小さく笑った。祖母の英雄譚ではない。傷を負い、仕事をし、苦い茶を嫌った人の話だった。
それで十分だったのかもしれない。
山を下りる前、教授は女へ拘束具を付けた。丁寧に扱ったが、自由にはしない。彼女は抵抗しなかった。
「私の名は、サフィア・レイグ」と言った。
尽は紙鳥を見た。
紙鳥はサフィアの名を帳面へ写したが、飾りのように囲わなかった。ただ、今ここにいた人として一行に残す。
第四環は、消された名前を返すために回り始めた。
しかし返すとは、過去を一つの正しい物語へ閉じることではない。
残った違う記録を、これからも誰かが読める場所へ置くことだった。
学院へ戻る前に、教授は押収した黒い針、革手袋、塔の帳簿を一つの箱へ入れなかった。
針は学院の工房へ。刻印の写しは衛士隊へ。商隊襲撃の証言は黒枝宿場の門番長へ。サフィアの供述は、彼女が読める形で別に記す。
「逃げられたら」とペペが聞く。
「一つ盗めば全部消える形にはしない」と教授。
サフィアは拘束具の手首を見た。
「私の言葉も、信じないの」
「信じるかどうかを、私だけで決めない」と教授は答えた。
サフィアはしばらく目を閉じたあと、頷いた。
自分が数にしてしまった人々を、今度は一つの告白に閉じ込めない。その審査を受けることから、彼女の償いは始まる。
尽たちが学院の門へ戻った時、紙鳥は肩の上で眠っていた。風塔の声は止んだ。だが、山の外にはまだ戦争を商売にする者がいて、雾渊には誰も読み終えていない帳簿がある。
一つの塔を止めたことは、終わりではない。
次の旅へ持っていくべき記録が、少し増えただけだった。




