第九十話 名前を呼べない時は、残した記録を拾い直す
第三環から戻った夜、調査隊は学院の古文書室へ閉じこもった。
風見塔の観測者名簿を探すためだ。
帳簿は古く、雨に濡れた頁も多い。マルド老人は日付を読み、ペペは石板の模様を写す。ユーノは風向きの記号を照合し、尽は式札を机の中央に置いた。
リゼッタは、珍しく金貨ではなく、自分の手で頁をめくっていた。
「名簿を買い取ると言わないんですね」と尽。
「これは売り物じゃないわ」
「何でも買えるわけではない?」
「買えるものだけで生きていたら、すぐに大事なものを見落とすでしょう」
彼女は言ってから、少し照れたように紙へ目を落とした。
夜更け近く、一冊の記録簿が見つかった。
第三環の最後の観測者は、若い技師見習いだった。
名は、ミレア・ヴォルン。
担当は『風の逆流を聞くこと』。
記録の最後には、こうある。
『第四環の試験日に、声が重なった。人数を数える装置が、私たちの名を受け取らない。戻った者は七人。帳簿には六人と書かれた』
ペペが顔を上げた。
「一人、帳簿から消された」
「黒衣の女は、その人の声を集めようとしている?」
尽は式札へ触れた。
紙に、ゆっくり名前が浮かぶ。
『ミレア』
紙鳥は小さく震えた。
それは泣き声ではなかった。
長く置き去りにされた者が、ようやく自分の名前を聞いた時の、かすかな返事だった。
教授は名簿を閉じた。
「第四環へ行く。だが、女を止めるだけでは足りん。塔の記録そのものを、正しい数へ戻す必要がある」
リゼッタは立ち上がった。
「なら、記録を運ぶ方法を考える。風晶を奪った者は、声を集めている。私たちは、名前を届ける」
尽は頷いた。
式札の紙鳥も、机の上で一度だけ羽を広げた。
第四環には、まだ無数の声がある。
けれど今は、数ではなく、呼び戻すべき名前として聞こえ始めていた。
名が分かったからといって、すぐ第三環へ戻って呼べばよいわけではない。
名簿の余白には、別の筆跡が残っていた。
〈名を一つで呼ぶな。聞こえた者だけが帰ろうとする。残った者の声を、また塔が拾う。〉
ミレアは、失われた一人ではなかった。彼女の名前だけを取り戻せば、他の六人が再び「数」にされる。第三環の風は、誰か一人を救いたい気持ちほど利用しやすい。
「どうすればいいんですか」とペペ。
教授は、古い記録簿を数冊開いた。
同じ試験日の記録は、風見塔だけに残っていない。学院の出席簿。近くの宿場が受け取った食料札。医務室の包帯帳。七人が帰った夜、誰が何を持ち、どこで眠ったかが、ばらばらに残っている。
「一冊では、消される」と教授は言う。
「だから、別々の帳面から拾う」
尽は、机へ紙片を並べた。
ミレア・ヴォルン。風晶の整備。左手に火傷。甘い根茶を嫌う。第六風見班。兄が一人。帰還予定日は雨。
どれも名簿の一行だけでは分からないことだった。
ユーノが、医務室の記録を指す。
「この人は、生きて帰った後に包帯を替えている。なら、塔が消したのは身体だけじゃない。帰った記録も、少しずつ消している」
マルド老人は首を振った。
「完全には消せなかった。人は一つの帳面だけで暮らしていない」
リゼッタは、紙を束ねるために太い紐を出した。
「それぞれの記録を、同じ答えにしない。違うまま持っていく」
「違うままで?」とペペ。
「ミレアが根茶を嫌ったかどうか、今さら誰にも断言できないでしょう。でも、少なくとも誰かがそう書いた。全部を一つのきれいな話にしたら、また誰かが書き替えられる」
尽はその言葉を聞いて、賀茂静のことを知らないまま、胸の奥に古い痛みを感じた。記録を分ける。見たことと聞いたことを混ぜない。誰か一人が真実を持った顔をしない。
それは初めて覚えたはずなのに、ずっと前から手が知っているやり方だった。
式札へ、ミレアの名を書いた紙を近づける。
紙鳥はすぐ飛びつかなかった。代わりに、周りの記録を一枚ずつ嘴で叩いた。
『ひとつ、だけ、だめ』
「一つだけでは駄目」と尽は読んだ。
紙鳥は、七枚の紙を輪に並べるよう促す。
七人の班員の名がすべて分かるわけではない。だが記録の端に、呼び名、傷、使った工具、宿の署名が残っている。名前の空欄を無理に埋めず、分かる印だけを置く。
輪ができると、紙鳥は中央へ降りた。
『ここに、いた』
ミレアを、今いる場所から引き戻す言葉ではない。
あの日ここにいた人として、まず記録へ戻す言葉だった。
ペペが目を潤ませた。
「呼ぶ前に、居場所を作るんですね」
教授は頷く。
「第四環の装置は、記録の数を一つへ揃えたがる。こちらは、七人分の違う痕跡を持って行く。どちらが強いかは分からん」
「でも、やる」とリゼッタ。
彼女は紐の端を結んだ。
「買えないものを守るのは、値段を付けないだけでは足りない。持って行って、奪われないようにしないと」
翌朝までに、調査隊は第四環へ持ち込む物を決めた。
名簿の写しは一枚だけにしない。教授、マルド、ユーノが別々に持つ。尽は式札と印の紙を持つ。リゼッタは紐と、記録を濡らさないための油紙袋を持つ。ペペは、誰が何を持ったかを出発前と帰還後に照合する係になった。
「私は戦えないです」とペペが言った。
「戦えなくても、帰った人数を確認する人は必要です」と尽。
「間違えたら」
「間違えたかもしれないと、言ってください。そこで皆で止まります」
ペペは、ゆっくり頷いた。
夜明け前、式札が窓辺で小さく震えた。
風は第四環の方角から吹いている。
けれど、その風はもう、ただミレアの名を急かす声には聞こえなかった。
名を呼ぶ前に、そこにいた人たちのための席を残せ。
そう言っているようだった。
出発の前、教授は一度だけ演習をした。
誰か一人が紙を隠し、残りの者が「誰が何を持っていたか」を記録だけで確認する。簡単な試しのはずだった。
最初に隠されたのは、尽の工具札だった。
ペペは出発表を見て、工具札は尽が持つと答える。ユーノは昨夜の配布記録から、検査箱と式札は尽、油紙袋はリゼッタ、名簿写しは教授とマルド老人と自分、と続けた。
次に隠されたのは、リゼッタの紐だった。
尽はすぐに答えられなかった。紐はいつもリゼッタが持っていると思っていたが、昨夜、傷の治療中にペペへ預けていた時間がある。
「分かりません」と尽は言った。
リゼッタが少し眉を上げる。
「よく見ていないのね」
「見たつもりで答えるよりはいいです」
ペペが自分の荷袋を開いた。紐は、油紙袋の下にあった。
「預かりました。濡れないようにって」
「正解」と教授。
リゼッタは紐を受け取り、少しだけ気まずそうにした。
「私も、預けたことを言い忘れていたわ」
「それも記録します」とペペ。
小さな演習で、皆は気づいた。誰かを信じていることと、確認を省くことは違う。名前を守る作業は、相手を疑うためではない。見落とした時に、一人だけへ責任を押しつけないためのものだ。
紙鳥は、隠されていた工具札の上へ降りた。
『みつけた』
尽は笑った。
「まだ第四環へ行っていないのに、もう一つ覚えましたね」
紙鳥は羽をふくらませた。
その小さな仕草を、ペペは出発表の余白へ描いた。




