第八十九話 第三環では、名前のない風が先に道を選んだ
第三環へ向かう朝、山は白い靄に包まれていた。
赤い陽は出ているのに、谷の底だけが薄暗い。風見石も鳴らない。調査隊は前日の倍の赤布を用意し、二人ずつ細い紐で繋がって歩いた。
「今回は、教授の許可を取った紐よ」とリゼッタは言った。
「良かったですね」と尽。
「褒めてもいいのよ」
「良かったですね」
「同じ言葉を二回言うのは、褒めていない」
第三環の塔は、塔というより崩れた円形の広場だった。中央に石の井戸があり、その周囲に四本の風路柱が立っている。柱の間には、名を削り取られたような石板が何十枚も並んでいた。
マルド老人が石板を調べる。
「観測者の記録だ。風向きを聞き、異常を伝えた者の名を刻んだ」
けれど石板には、日付だけが残っている。人名の場所だけが、刃物で削られていた。
式札が紙鳥になり、井戸の縁へ飛んだ。
『まだ、名前がない』
昨日の声が、今度ははっきり聞こえた。
井戸の底から、誰かのすすり泣きがする。
衛士が覗き込むと、底には黒い針と青い風晶を繋いだ装置があった。針は四本の柱から風を吸い、井戸の中心へ送り込んでいる。
「ここは、声を集める場所です」と尽。
「何のために?」とペペ。
答えは、井戸の向こうから来た。
黒衣の女が、崩れた石壁の上に立っていた。
「忘れられた者に、もう一度、居場所を与えるため」
女は顔を隠していなかった。
若い顔だった。疲れた目だけが、年齢よりずっと古い。
「塔の声は、昔ここで消えた観測者たちの記録です。名を消され、誰にも数えられなくなった人たち。私は集めているだけ」
「集めて、どうするんですか」と尽。
「第四環で、一つにする。名前も役目もなくした声を、もう誰にも消せない数に変える」
リゼッタが前へ出た。
「人を数にするのは、救うことではないわ」
女は笑った。
「王女には分からない。名があり、席があり、帰る城がある者には」
リゼッタの顔が少し強張った。
だが、彼女は退かなかった。
「分からないことはある。でも、分からないからって、勝手に同じ数へ押し込めていい理由にはならない」
女は黒い針を起動した。
井戸から風が噴き上がる。
石板の削られた場所が青白く光り、調査隊の赤布が一斉に引かれた。
尽の足が井戸へ滑る。
リゼッタが紐を掴み、二人で石柱へしがみついた。
「火は?」
「まだです! ここは風が多すぎる!」
尽は鏡板を井戸へ向けた。風の流れは四本の柱から中心へ集まり、その先が第四環を指している。
止めるには、柱を壊すのではなく、記録された声を外へ返す必要がある。
紙鳥が井戸の上で鳴いた。
『名を、呼ぶ』
尽は石板を見た。名前は削られている。だが、日付と担当した風向きは残っている。
マルド老人が理解した。
「記録簿だ。塔の建設局に、写しがあるかもしれん」
今ここで名を戻せない。
なら、せめて声をこれ以上奪わせない。
教授が杖を振り、衛士たちが柱の根元へ布を巻く。尽は風を逆向きに流し、リゼッタは黒い蝋だけを小さな火で溶かした。
四本目の針が外れた時、井戸から吹き上がった風は、泣き声ではなく、長い吐息になって空へ消えた。
黒衣の女は第四環の方を見た。
「遅い。もう、あちらは動き始めている」
そう言い残し、崖道の向こうへ消えた。
式札の紙鳥は、石板の上に降りた。
白い翼の内側に、薄い文字が浮かぶ。
『ひとり、戻る』
誰か一人の声だけが、初めて帰る道を見つけた。
第三環へ降りる朝、教授は調査隊の人数を減らした。
衛士四人、教授、マルド老人、尽、リゼッタ、ペペ、ユーノ。第一環より少ない九人だ。二人は第二環の封印確認と連絡役として地上へ残る。
「減らした方が危ないのでは」とペペ。
「人数が多ければ安全、とは限らない」と教授は言った。
「地下水路は狭い。誰かが慌てれば、全員が詰まる。残る者も、戻る者を待つ仕事をする」
リゼッタは肩の治療布を巻き直し、尽の腕へ新しい紐を結んだ。前より太い。今回は教授の許可を取った紐である。
「痛くないですか」
「痛くないように結んだわ」
「前は?」
「前も痛くないように結んだ。結果は別として」
地下水路の入口は、第二環の塔から半刻ほど離れた岩場にあった。黒衣の女が逃げた壁穴と同じ方向。水の音は聞こえない。入口へ近づくほど、靴底の砂が勝手に左へ寄る。
「風があるのに、出口がない」とマルド老人。
尽は鏡板をかざした。淡い光の筋は、入口から奥へ向かっている。その中に、一本だけ逆へ流れる細い筋がある。
「ここだけ戻ろうとしている」
教授は頷いた。
「だから、第三環は道を選ぶのだろう。入った者を先へ進ませる風と、帰る者を選ぶ風が同じ場所にある」
地下へ入ると、壁は乾いていた。水路の名に反して水はない。代わりに、床の溝へ白い塩のような結晶が溜まっている。足で踏むと、誰かの名前に似た音がした。
ペペが顔を上げる。
「今、呼ばれた」
尽も聞いた。
けれど、はっきりした名ではない。知っている人が、呼びかける直前に息を吸った時のような音だけだ。
「返事をしない」と教授。
「でも、名前を残したから呼び戻せるんじゃ」とユーノ。
「呼び戻すのは、こちらが確認してからだ。向こうが勝手に呼んだ声へ従うことではない」
尽は式札を開いた。紙鳥は皆の印を記している。尽が短く合図すると、紙鳥は一人ずつの肩へ飛び、最後に尽の手へ戻った。
『ここ』
白い紙に、その一文字が出た。
名を呼ばずに居場所を確かめるための言葉だった。
九人は、狭い水路をゆっくり進んだ。
曲がり角の先で、黒衣の女の外套が落ちていた。破れも汚れもない。人が脱いだのではなく、影だけを布の形に残したようだった。
リゼッタが火を近づける。
布は燃えない。
「罠かもしれません」と尽。
「分かっているわ」
彼女は火を引いた。
教授は衛士へ、布に触れず周囲の床を調べるよう命じる。すると外套の下から、古い石札が出てきた。表には矢印が描かれ、右の細道を指している。
「分かりやすすぎる」とマルド老人。
尽は矢印の先を鏡板で見た。細道の奥は、風がまったく映らない。空気がないのではない。鏡が、先を読めない。
「行かない方がいいと思います」
教授は即座に決めた。
「左へ行く」
左の道は、膝までしかない浅い水路へ続く。水は冷たく、足元の結晶が溶けるたび、誰かの名前に似た音が響く。ペペは何度も立ち止まりかけたが、リゼッタが紐を軽く引いた。
「今は、ここ」
ペペは頷く。
やがて水路は丸い空洞へ出た。
中央には、風晶でできた細い柱があり、その周りを白い風が回っている。風は人の姿を取らない。声も出さない。ただ、近づく者の靴先へ触れ、別々の出口を指した。
九人に、九つの出口。
「一人ずつ行けということか」と衛士。
「違う」と尽は言った。
柱の足元に、古い文字が刻まれている。
〈道は、最も急ぐ者へ開く。帰り道は、残る者へ閉じる〉。
誰かを先に進ませ、残った人を置いていく仕組みだ。
尽は自分の足元を指した風を見ない。式札を取り出し、皆が書いた名と印の紙片を柱の周囲へ置いた。
「全員が一つの出口を選びます」
「どれを?」とユーノ。
「風が指していない出口を探します」
九つの白い風の間に、何も触れない細い暗がりがあった。出口と呼べるほどの隙間ではない。
リゼッタは肩を押さえながら、壁の石を一つ外した。
「ここ、通れそう」
「無茶では」とペペ。
「無茶よ。でも、九人を分ける道よりはまし」
尽は石の向こうを鏡板で照らす。弱い風が、確かに外から入っている。
「戻る風です」
教授は皆を見回した。
誰も一人で進まない。誰も、急ぐ者のために置いていかれない。
その条件で選ぶなら、道は一つだった。
衛士が石を外し、狭い隙間を広げる。九人は紐を外さず、一人ずつではなく、前後を確かめながら抜けた。
最後に尽が出ると、白い風は九つの出口を一斉に閉じた。
どこかで、何かが不満そうに鳴った。
それでも、全員が同じ側にいた。
第三環の無名の風は、先へ急ぐ者にしか道を見せない。
尽たちは、その風が見せなかった帰り道を選んだ。
そして暗い通路の先で、初めて人の文字を見つけた。
〈ここへ来た者へ。私の名を、急いで呼ぶな〉。




