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第八十八話 数えられた者は、名前より先に手を離す

音のない風は、冷たくも熱くもなかった。


それなのに、尽の頭の奥を直接撫でる。


誰かに、自分の名前を呼ばれたような気がした。


風間尽。


その響きが、本当に聞こえたのかどうかも分からない。


気づくと、手に持っていた検査箱を床へ置きかけていた。


置いて、先へ行け。


そんな考えが、胸の奥から湧いてくる。


「尽!」


リゼッタの声が聞こえた。


彼女は尽の腕を掴んでいる。赤い布の結び目も、まだ外れていない。


「何をしているの」


「分かりません。手を離した方が、楽な気がして」


「楽な方へ行く時ほど、確認しなさい」


彼女の声は強かった。


けれど、彼女自身の指も震えている。


ペペは壁際で、自分の名前を書いた紙を見つめていた。ユーノは、鏡板を落としそうになっている。衛士の一人は、赤い布をほどこうとしていた。


数えられた者は、何かを手放したくなる。


名前。道具。仲間の手。


教授は杖を床へ突き立てた。


光が広がり、風の流れを一瞬だけ押し返す。


「全員、布を掴め! 自分の物を一つ、声に出さず確かめろ!」


尽は腕の赤い布を握った。


リゼッタの結び目は固い。


最初に見た時は、ただの過保護な結び方だと思った。


今は、それが自分をここへ繋いでいる。


黒衣の女は円盤の前から動かなかった。


「手放せば、軽くなるのに」


「軽くなった後、誰が拾うんですか」と尽は言った。


女は首を傾げた。


「拾う必要はない。数に入ればいい」


その言葉に、尽は背筋が冷えた。


相手は人を、人として見ていない。


ただの数だ。


式札が帳面の中で羽音を立てた。


尽は片手で札を取り出す。


白紙の上に、震える文字が浮かんだ。


『ひとり、ふたり、さんにん』


札は、塔の声を真似ている。


「違う」と尽は小さく言った。


札へ向けて、はっきり考える。


人は数ではない。


名前を呼ばなくても、ここにいる者がいる。


『尽。リゼッタ。ペペ。ユーノ』


白い紙に、四つの名前が浮かんだ。


式札が初めて、自分から数えるのを止めた。


紙鳥になり、尽の肩へ止まる。


その小さな羽音だけが、音のない風の中で聞こえた。


リゼッタが目を見開く。


「今、札が名前を」


「覚えたんだと思います」


黒衣の女の笑みが消えた。


「余計な声を入れるな」


彼女は円盤を叩いた。


塔全体が震える。


黒い針が回り始め、風の吸い込みが強くなる。


尽たちは足を取られた。


リゼッタが、また紐を石柱へ巻く。


「今度は、帳面用の紐じゃないわ!」


「何用ですか?」


「命を繋ぐ用よ!」


「最初からそう言ってください!」


彼女は尽へ紐を渡し、ペペとユーノにも順に結んだ。


衛士たちも柱の反対側で隊列を作る。


教授が叫ぶ。


「円盤の流れを止める。だが、針を抜く順番を間違えれば第一環の時より大きく暴れるぞ!」


尽は鏡板を拾った。


風の流れを映す。黒い針は十二本。中心から外へ、逆向きの渦を作っている。


第一環では二本で済んだ。


ここでは、十二本すべてを同時に止める必要がある。


「一度に抜くのは無理です」と尽。


「なら?」とリゼッタ。


尽は、自分たちを繋ぐ紐を見た。


風を逃がす道は、一つだけではない。


「円盤を壊さず、別の出口を作ります」


彼は石柱の周りに紐を張り、鏡板を角度を変えて立てた。教授の光を鏡へ反射させ、風の向きを少しずつ外へ逸らす。


リゼッタは針の根元だけを焼く。


一番内側から、一本。


二本。


風が乱れるたび、紐がきしむ。


ペペは怖そうに涙を浮かべながら、それでも鏡板を支えていた。ユーノは風晶の光を見て、次に抜く針を指で示す。


黒衣の女がこちらへ手を伸ばした。


「やめろ。数が揃わなくなる」


教授の杖光が、女の足元を打つ。


女は後ろへ跳び、壊れた階段の上へ逃げた。


「衛士、追うな!」


教授が命じる。


追えば、紐の外へ出る。


女は笑ったまま、塔の上へ消えた。


最後の針が抜けた。


円盤は止まった。


風は一度だけ大きく膨らみ、鏡板と紐の間を抜け、崩れた塔の天井から空へ飛んだ。


遠くで、風見石が鳴った。


今度は確かに聞こえた。


低く、長い、帰る道を教える音だった。


塔の床には、黒衣の女が落とした小さな帳面が残っていた。


表紙には何もない。


だが最初の頁に、三つの名前が書かれている。


『第一環 風の声』


『第二環 足音の声』


『第三環 まだ無名』


尽の式札は、紙鳥の姿のまま帳面を見つめた。


そして、かすかな声で言った。


「……まだ、名前がない」


第二環の外へ出ると、調査隊は一人ずつ赤い布を外した。


誰も欠けていない。


教授はそれを二度数え、三度目はマルド老人に任せた。慎重すぎるほど慎重に、帰る者の数を確かめる。


リゼッタは尽の腕から布をほどいた。


「最初から、結び方を馬鹿にしなければよかったでしょう」


「馬鹿にはしていません」


「少ししていたわ」


「少しだけです」


彼女は満足そうに布を畳んだ。


「次からは、もっと丈夫な紐を用意する」


「教授に見つからないように?」


「教授に許可を取ってからよ」


尽は少し驚いた。


リゼッタはすぐにそっぽを向く。


「驚くほどのことではないわ。私は学習する女だもの」


避難小屋へ戻る途中、紙鳥になった式札は尽の肩で眠るように動かなかった。


けれど風が西から吹くたび、嘴だけが第三環の方角へ向く。


帳面に書かれた『まだ無名』という言葉は、誰かの失われた名前なのか。それとも、まだ生まれていない声なのか。


尽には分からない。


ただ、次の塔へ進む前に、皆の名前と帰る道を、もっと確かに覚えておかなければならないと思った。


小屋へ戻ると、マルド老人は帳面の三つの記録を写し取った。


第一環は風の声。第二環は足音の声。第三環はまだ無名。


「塔ごとに、集めるものが違うのかもしれん」と老人は言う。


教授は地図の第三環へ印をつけた。


「明日はここへ行く。ただし、黒衣の女が先回りする可能性がある」


リゼッタは保存食の残りを数えた。


「今度は、衛士の分を二日分増やす」


「また投資ですか?」と尽。


「生きて帰る人が次の地図を書くんでしょう。なら、空腹で倒れさせないための投資よ」


尽は頷いた。


その晩、紙鳥は帳面の上で小さく羽を休めた。


眠っているように見えたが、第三環の方角から風が吹くたび、紙の胸だけが微かに震えていた。


避難小屋へ戻ってからも、誰もすぐ眠れなかった。


風を吸う塔の中では、手放した方が楽だと思った。外へ出ると、その考えが自分のものだったのかさえ曖昧になる。ペペは寝台の端へ座り、何度も自分の荷袋を確かめていた。


「なくした物、ありますか?」


尽が聞く。


「ない。でも、さっきまで、これを置いていけば軽いと思った」


ペペが見せたのは、姉が縫ったという小さな布袋だった。中には飴が二つ、乾いた花びらが一枚、家の鍵が入っている。


「役に立たない物ばかりです」


「役に立つかどうかだけなら、僕の工具袋も半分くらい要りません」


「でも、尽さんは持っている」


「後で必要になるかもしれないから」


ペペは布袋を握り直した。


「私も、後で思い出したいかもしれない」


教授は、その会話を聞いてから全員へ短い紙を配った。


〈持ち帰る物。残したくない物。次に同じ場所へ入る前、確認したいこと〉。


書けない者は、書かなくてよい。ただし、何もないと決める前に、一度考える。


衛士の一人は、剣の手入れ布と書いた。ユーノは祖父から借りた眼鏡。リゼッタはしばらく紙を睨んだあと、細い帳面紐と書く。


「紐ですか」と尽。


「笑うなら返して」


「笑っていません。大事な紐なんですね」


「大事よ。帳面を束ねるし、人も繋ぐ」


彼女は少しだけ声を落とした。


「……私が、誰かを置いて先に走らないためにも」


尽は、それ以上聞かなかった。


紙鳥の式札は、皆が紙へ書く様子を見ていた。やがて尽の帳面の上へ降り、嘴で空白を叩く。


『なまえ、のこす』


「名前を残す?」


紙鳥は頷くように羽を揺らした。


『よぶ。かえる』


第一環と第二環の塔は、人を数にして流れへ混ぜようとした。紙鳥は逆に、一人ずつを呼び、戻るための印を覚えようとしている。


尽は小さな紙片を切り、皆へ渡した。名を書くことを強制しない。書くなら、本人が書く。文字が書けない者は印を残す。衛士は剣の形を、ペペは小さな花を、ユーノは丸い眼鏡を描いた。


リゼッタは、少し迷ってから自分の名を書いた。


達筆だった。


「上手ですね」


「王家の書記に習ったもの。当然よ」


「帳簿も書けますし、紐も結べますし、火も細く出せます」


「褒めすぎると、次に何か頼むつもりだと思うわ」


「今はありません」


「今は、ね」


紙鳥は名と印を一つずつ見て、帳面の端へ小さく写した。どこかへ送るのではない。尽の手元に、帰る時の確認を残すためだ。


夜が深くなる頃、教授は第三環へ向かう計画を変更した。地下水路へ入るのは翌日ではない。肩を打ったリゼッタの治療、第二環の封印確認、黒衣の女が残した革手袋の鑑定を終えてからにする。


「遅れます」とペペが言った。


「遅れる」と教授は訂正した。「遅れたから失う物があるなら、それも記録する。だが、急いで誰かを失えば、次の記録を書く人が減る」


小屋の外で、第三環の方角から風が鳴った。


紙鳥は震えたが、飛び立たなかった。


尽も、今夜は追わないと決めた。


帰るために名前を残す。その手間を、敵より遅いことだと思わないために。

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