第八十七話 第二環の風は、嘘をつく者ほどまっすぐ吹く
第一環の塔を封じた後、調査隊は丘の麓にある避難小屋で短い休息を取った。
小屋の壁には、昔の旅人が残した風向きの印が並んでいる。西へ行くほど風が強くなる。赤い陽が高くなる時間には、谷へ下りるな。道標が鳴らなければ、足を止めろ。
「道標が鳴らないことなんて、あるんですか?」とペペ。
マルド老人は、冷えた湯を一口飲んだ。
「普通はない。風がある場所では、風見石が必ず低い音を出す。鳴らないなら、風が消えているか、誰かが音を奪っている」
尽は式札を見た。
声を数える塔。風の声を吸う針。黒衣の女が御者に残した『数を間違えるな』という言葉。
すべてが、同じものを集めようとしている。
休息を終え、第二環へ向かう山道に入った。
途中から、風が急に弱くなる。
木の葉は動かない。草も揺れない。赤い陽だけが、妙に近く感じた。
リゼッタが立ち止まった。
「静かすぎるわ」
「音がないですね」と尽。
「違う。音はある。でも、遠い」
彼女の言葉通りだった。靴底が砂を踏む音も、衛士の鎧が鳴る音も、薄い布を一枚隔てた向こうから聞こえるようにぼやけている。
第二環の塔は、崖の中腹に半分埋まっていた。
塔の上部は崩れ、羽根車もない。入口の前には、荷馬車の新しい跡が何本も残っている。
「中に誰かいるかもしれません」と衛士長。
教授は隊列を整えた。
「入る前に、戻る人数を確認する。私から順に、腕へ赤い布を結べ」
声を出して名を呼べない場所でも、布なら数えられる。
リゼッタは自分の布を結びながら、尽の手元を見た。
「結び目が弱いわ」
「大丈夫です」
「だめ。これでは走ったら外れる」
彼女は尽の腕を引き、結び直した。指先は思ったより器用だった。
「縄は持っていないのに、結び方は知っているんですね」
「縄を持たないことと、結べないことは別よ」
「持ってきていないですよね?」
リゼッタは一瞬、目をそらした。
鞄の底から、細い紐が少しだけ見えた。
「これは、帳面を束ねる紐」
「長すぎませんか?」
「帳面が多いの」
教授が咳払いをした。
「入るぞ」
第二環の内部は、第一環より広かった。
中央に空洞があり、周囲を螺旋状の階段が囲んでいる。壁には小さな穴が無数に開き、どこからか細い風が出たり入ったりしていた。
けれど音はない。
風が穴を通っているのに、笛のような鳴り方をしない。
尽は検査箱から鏡板を取り出し、壁の穴へかざした。鏡面に赤い陽の光が反射し、風の流れだけを淡く映す。
「ここだけ、逆向きです」
壁の奥から、風が入っているのではない。吸い込まれている。
リゼッタが小さく頷いた。
「第一環と同じ。けれど、もっと大きい」
上の階で、金属が擦れる音がした。
衛士二人が駆け上がる。
次の瞬間、階段の手すりが外れた。
衛士の一人が足を滑らせ、空洞へ落ちかける。
リゼッタは反射的に鞄から紐を引き抜いた。
帳面を束ねるには、ずいぶん丈夫な紐だった。
彼女は片端を石柱へ巻き、もう片端を衛士へ投げる。
衛士が掴み、仲間と一緒に引き上げられた。
全員が息を吐いた。
教授が、リゼッタの紐を見た。
「帳面を束ねる紐?」
「大きな帳面なの」
「どんな帳面だ」
「商会の帳面」
「まだ商会を持っていないだろう」
リゼッタは、少しだけ胸を張った。
「将来のためよ」
教授は呆れたように頭を振ったが、紐は返さなかった。
塔の最上部には、黒い金属針を束ねた大きな円盤があった。
円盤は空洞の中心へ向き、壁の穴から集めた風をすべて飲み込んでいる。
その前に、黒い外套の人物が立っていた。
女だった。
顔は覆われている。だが、御者が覚えていた静かな声が響いた。
「第一環が止まった。数が狂う」
彼女は誰かへ話しかけている。
しかし、そこには誰もいない。
式札が震える。
『こえ、みっつ』
女は円盤へ手を置いた。
「まだ足りない。第二環の分を送る」
教授が杖を上げる。
「動くな!」
女は振り返り、初めて調査隊を見た。
顔の下半分だけが見える。
笑っていた。
「数えられた人たち」
その一言で、壁の穴が一斉に開いた。
音のない風が、塔の内側へ吹き込んだ。
尽は赤い布の結び目を握った。教授が言った通り、名を呼ばず、鈴も鳴らさない。けれど無言で立っているだけでは、足元の感覚まで遠くなりそうだった。
リゼッタは鞄から保存食を取り出し、一枚の硬いパンを尽へ押しつけた。
「食べなさい」
「今ですか?」
「口を動かせば、自分がここにいると分かるでしょう」
「声は出せません」
「噛むだけでいいの」
変な理屈だったが、パンの硬さと塩気は確かだった。尽は一口噛んだ。顎が動く。自分の手が布を握っている。隣にはリゼッタがいる。
ペペにも、ユーノにも配られる。
衛士長は呆れた顔をしたが、受け取った。
「緊急時の保存食を、こんな所で使うのか」
リゼッタは小声で答えた。
「緊急時だから使うのよ」
黒衣の女は、その様子を見ていた。
風の中で、彼女の外套だけが不自然に揺れない。
「手放せない者ばかり」
「それが悪いんですか」と尽。
「悪い。重い。数にすれば、皆同じになる」
尽は返事をしなかった。
同じになることが楽な時もある。けれど、そのために人の手や名前まで捨てるなら、それは軽さではない。
塔の奥で、金属針がもう一度鳴った。
黒衣の女は円盤へ手を伸ばす。
それを止めなければ、次は誰かが本当に手を離す。
教授は衛士へ合図を送った。二人が左右の階段へ回り、残る者は石柱へ紐を結ぶ。追うためではない。風が強くなった時、誰もばらばらにならないためだ。
リゼッタは紐の端を渡しながら、いつものように強がる言葉を探していた。
だが、うまく見つからない。
「……私の後ろにいて、とは言わないわ」
尽が彼女を見る。
「皆で、同じ場所にいましょう」
それだけ言って、彼女は円盤の方を見た。
一人で勝てない相手がいることを、彼女は少しずつ覚え始めていた。
黒衣の女は円盤の前で、調査隊が紐を張る様子を眺めていた。
「結ぶのね」
「ほどけないように」とリゼッタ。
「ほどけないものは、いずれ重くなる」
女の声は静かだった。脅しというより、すでに答えを知っている者の言い方に聞こえる。
尽は円盤の縁を見た。黒い針は、第一環のものより太い。十二本のうち、四本だけが新しい。残りは古い風晶管へ繋がれ、塔の壁の穴から吸った風を西へ送っている。
「何を集めているんですか」
女は答えない。
「声ですか。足音ですか。それとも、人が返事をしなかった回数ですか」
その言葉で、女の肩がほんの少し止まった。
リゼッタが尽を見る。彼女も気づいたらしい。
「当たったの?」
「分かりません。でも、外れた時の顔ではないです」
女はゆっくり手袋を外した。指先には、黒い粉がこびりついている。風晶を削る職人の手ではない。粉は爪の間へ入り込み、皮膚を薄く灰色に染めていた。
「お前たちは、名前を守りたがる」
「守ります」と尽。
「名があるから、失う。声があるから、呼び戻される。数なら軽い。数は泣かない」
「数えた人が泣くんです」
女の笑みが消えた。
その瞬間、円盤が回り始めた。
音のない風が、階段の上から下へ落ちる。赤布を結んだ腕が引かれ、石柱へ結んだ紐が張る。衛士の一人が足を踏ん張ったが、鎧の隙間から息が抜けた。
「今です!」
尽は鏡板を床へ置いた。反射した赤曜光が、円盤の針の根元を照らす。流れは十二本すべて同じではない。四本の新しい針だけが、風を吸うのでなく、外へ返している。
「新しい針は抜かないでください。古い方から!」
教授が杖を振る。光が最も内側の針を包む。
リゼッタは紐の端を衛士へ渡し、円盤へ駆けた。勢いよく走ったせいで、途中の石段へ肩をぶつける。
「大丈夫ですか!」
「大丈夫よ。石が少し、私に驚いただけ」
そう言いながら、彼女は顔をしかめていた。
火を大きくすれば、円盤全体が熱を持つ。小さすぎれば黒蝋だけを溶かせない。第一環で学んだ通り、彼女は針の根元だけへ細い火を置いた。
一本目が抜ける。
風の圧が少し落ちた。
二本目。
女が指を鳴らす。壁の穴から、音のない風が一斉に逆流した。紐が強く引かれ、ペペが膝をつく。
尽は紙鳥の式札を放った。
「ペペさんのところへ!」
紙鳥は羽を広げ、ペペの赤布へ止まる。布が一度だけ青く光った。魔力を増やす術ではない。誰がどこにいるかを、尽が見失わないための印だ。
「ユーノさん、鏡板を少し右へ!」
「ここですか?」
「もう少し。はい、そこで」
反射光が変わる。第三の針の根元に、黒蝋ではない金属の留め具が見えた。
女がそれを見て、初めて声を荒げた。
「触るな!」
尽は止まった。
相手が止めたい場所を、すぐ壊すのは危ない。留め具は罠かもしれない。彼は鏡板の角度をさらに変え、留め具の影を壁へ映した。
影は、三本の線が中心で交わる印だった。
黒枝の首輪、第一環の蝋、第二環の円盤。
同じ印が、ここにもある。
教授が低く言う。
「その針は抜かない。記録して封じる」
女は笑った。
「封じる? もう遅い。第三環は目を覚ます」
彼女は円盤の外側へ跳び、崩れた壁の穴へ身を滑らせた。人が通れる大きさではない。だが外套が風へ溶けるように細くなり、次の瞬間には影も声も消えていた。
衛士が追おうとした。
「追うな!」
教授が止める。
「出口が見えない。相手の道へ一人で入るな」
残る針を、皆で順に処理した。新しい四本は抜かず、根元へ石灰と封印布を重ねる。古い八本は、流れを確認しながら一本ずつ外す。
最後の針が外れた時、塔の外から風見石の音が届いた。
今度は、風がどちらから来るかも分かる。
西ではない。
塔の地下から、さらに下へ向かっていた。
マルド老人が床石を叩く。
「第三環は山の先ではない。地下水路の先にある」
尽の式札には、新しい文字が浮かんだ。
『なまえ、ひとつ』
第一環では、声が二つ。
第二環では、声が三つ。
今度は、名前が一つ。
リゼッタは肩を押さえながら、尽の隣へ戻ってきた。
「次は、石段に驚かせないように歩くわ」
「石段は多分、ずっと同じところにあります」
「それでも、私を待つべきだった」
尽は笑いかけて、やめた。
彼女の肩には、鎧の上からでも分かるほど赤い痕がある。
「治療してから行きましょう」
「少しくらい平気よ」
「少し平気と、行っていいは別です」
リゼッタは反論しかけたが、教授が先に頷いた。
「次の探索は明日だ。十一人で戻るために、今日は戻る」
第二環の風は止まった。
けれど地下から、誰かが名前を一つだけ呼ぼうとしている気配は、消えなかった。




