↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
87/219

第八十七話 第二環の風は、嘘をつく者ほどまっすぐ吹く

第一環の塔を封じた後、調査隊は丘の麓にある避難小屋で短い休息を取った。


小屋の壁には、昔の旅人が残した風向きの印が並んでいる。西へ行くほど風が強くなる。赤い陽が高くなる時間には、谷へ下りるな。道標が鳴らなければ、足を止めろ。


「道標が鳴らないことなんて、あるんですか?」とペペ。


マルド老人は、冷えた湯を一口飲んだ。


「普通はない。風がある場所では、風見石が必ず低い音を出す。鳴らないなら、風が消えているか、誰かが音を奪っている」


尽は式札を見た。


声を数える塔。風の声を吸う針。黒衣の女が御者に残した『数を間違えるな』という言葉。


すべてが、同じものを集めようとしている。


休息を終え、第二環へ向かう山道に入った。


途中から、風が急に弱くなる。


木の葉は動かない。草も揺れない。赤い陽だけが、妙に近く感じた。


リゼッタが立ち止まった。


「静かすぎるわ」


「音がないですね」と尽。


「違う。音はある。でも、遠い」


彼女の言葉通りだった。靴底が砂を踏む音も、衛士の鎧が鳴る音も、薄い布を一枚隔てた向こうから聞こえるようにぼやけている。


第二環の塔は、崖の中腹に半分埋まっていた。


塔の上部は崩れ、羽根車もない。入口の前には、荷馬車の新しい跡が何本も残っている。


「中に誰かいるかもしれません」と衛士長。


教授は隊列を整えた。


「入る前に、戻る人数を確認する。私から順に、腕へ赤い布を結べ」


声を出して名を呼べない場所でも、布なら数えられる。


リゼッタは自分の布を結びながら、尽の手元を見た。


「結び目が弱いわ」


「大丈夫です」


「だめ。これでは走ったら外れる」


彼女は尽の腕を引き、結び直した。指先は思ったより器用だった。


「縄は持っていないのに、結び方は知っているんですね」


「縄を持たないことと、結べないことは別よ」


「持ってきていないですよね?」


リゼッタは一瞬、目をそらした。


鞄の底から、細い紐が少しだけ見えた。


「これは、帳面を束ねる紐」


「長すぎませんか?」


「帳面が多いの」


教授が咳払いをした。


「入るぞ」


第二環の内部は、第一環より広かった。


中央に空洞があり、周囲を螺旋状の階段が囲んでいる。壁には小さな穴が無数に開き、どこからか細い風が出たり入ったりしていた。


けれど音はない。


風が穴を通っているのに、笛のような鳴り方をしない。


尽は検査箱から鏡板を取り出し、壁の穴へかざした。鏡面に赤い陽の光が反射し、風の流れだけを淡く映す。


「ここだけ、逆向きです」


壁の奥から、風が入っているのではない。吸い込まれている。


リゼッタが小さく頷いた。


「第一環と同じ。けれど、もっと大きい」


上の階で、金属が擦れる音がした。


衛士二人が駆け上がる。


次の瞬間、階段の手すりが外れた。


衛士の一人が足を滑らせ、空洞へ落ちかける。


リゼッタは反射的に鞄から紐を引き抜いた。


帳面を束ねるには、ずいぶん丈夫な紐だった。


彼女は片端を石柱へ巻き、もう片端を衛士へ投げる。


衛士が掴み、仲間と一緒に引き上げられた。


全員が息を吐いた。


教授が、リゼッタの紐を見た。


「帳面を束ねる紐?」


「大きな帳面なの」


「どんな帳面だ」


「商会の帳面」


「まだ商会を持っていないだろう」


リゼッタは、少しだけ胸を張った。


「将来のためよ」


教授は呆れたように頭を振ったが、紐は返さなかった。


塔の最上部には、黒い金属針を束ねた大きな円盤があった。


円盤は空洞の中心へ向き、壁の穴から集めた風をすべて飲み込んでいる。


その前に、黒い外套の人物が立っていた。


女だった。


顔は覆われている。だが、御者が覚えていた静かな声が響いた。


「第一環が止まった。数が狂う」


彼女は誰かへ話しかけている。


しかし、そこには誰もいない。


式札が震える。


『こえ、みっつ』


女は円盤へ手を置いた。


「まだ足りない。第二環の分を送る」


教授が杖を上げる。


「動くな!」


女は振り返り、初めて調査隊を見た。


顔の下半分だけが見える。


笑っていた。


「数えられた人たち」


その一言で、壁の穴が一斉に開いた。


音のない風が、塔の内側へ吹き込んだ。


尽は赤い布の結び目を握った。教授が言った通り、名を呼ばず、鈴も鳴らさない。けれど無言で立っているだけでは、足元の感覚まで遠くなりそうだった。


リゼッタは鞄から保存食を取り出し、一枚の硬いパンを尽へ押しつけた。


「食べなさい」


「今ですか?」


「口を動かせば、自分がここにいると分かるでしょう」


「声は出せません」


「噛むだけでいいの」


変な理屈だったが、パンの硬さと塩気は確かだった。尽は一口噛んだ。顎が動く。自分の手が布を握っている。隣にはリゼッタがいる。


ペペにも、ユーノにも配られる。


衛士長は呆れた顔をしたが、受け取った。


「緊急時の保存食を、こんな所で使うのか」


リゼッタは小声で答えた。


「緊急時だから使うのよ」


黒衣の女は、その様子を見ていた。


風の中で、彼女の外套だけが不自然に揺れない。


「手放せない者ばかり」


「それが悪いんですか」と尽。


「悪い。重い。数にすれば、皆同じになる」


尽は返事をしなかった。


同じになることが楽な時もある。けれど、そのために人の手や名前まで捨てるなら、それは軽さではない。


塔の奥で、金属針がもう一度鳴った。


黒衣の女は円盤へ手を伸ばす。


それを止めなければ、次は誰かが本当に手を離す。


教授は衛士へ合図を送った。二人が左右の階段へ回り、残る者は石柱へ紐を結ぶ。追うためではない。風が強くなった時、誰もばらばらにならないためだ。


リゼッタは紐の端を渡しながら、いつものように強がる言葉を探していた。


だが、うまく見つからない。


「……私の後ろにいて、とは言わないわ」


尽が彼女を見る。


「皆で、同じ場所にいましょう」


それだけ言って、彼女は円盤の方を見た。


一人で勝てない相手がいることを、彼女は少しずつ覚え始めていた。


黒衣の女は円盤の前で、調査隊が紐を張る様子を眺めていた。


「結ぶのね」


「ほどけないように」とリゼッタ。


「ほどけないものは、いずれ重くなる」


女の声は静かだった。脅しというより、すでに答えを知っている者の言い方に聞こえる。


尽は円盤の縁を見た。黒い針は、第一環のものより太い。十二本のうち、四本だけが新しい。残りは古い風晶管へ繋がれ、塔の壁の穴から吸った風を西へ送っている。


「何を集めているんですか」


女は答えない。


「声ですか。足音ですか。それとも、人が返事をしなかった回数ですか」


その言葉で、女の肩がほんの少し止まった。


リゼッタが尽を見る。彼女も気づいたらしい。


「当たったの?」


「分かりません。でも、外れた時の顔ではないです」


女はゆっくり手袋を外した。指先には、黒い粉がこびりついている。風晶を削る職人の手ではない。粉は爪の間へ入り込み、皮膚を薄く灰色に染めていた。


「お前たちは、名前を守りたがる」


「守ります」と尽。


「名があるから、失う。声があるから、呼び戻される。数なら軽い。数は泣かない」


「数えた人が泣くんです」


女の笑みが消えた。


その瞬間、円盤が回り始めた。


音のない風が、階段の上から下へ落ちる。赤布を結んだ腕が引かれ、石柱へ結んだ紐が張る。衛士の一人が足を踏ん張ったが、鎧の隙間から息が抜けた。


「今です!」


尽は鏡板を床へ置いた。反射した赤曜光が、円盤の針の根元を照らす。流れは十二本すべて同じではない。四本の新しい針だけが、風を吸うのでなく、外へ返している。


「新しい針は抜かないでください。古い方から!」


教授が杖を振る。光が最も内側の針を包む。


リゼッタは紐の端を衛士へ渡し、円盤へ駆けた。勢いよく走ったせいで、途中の石段へ肩をぶつける。


「大丈夫ですか!」


「大丈夫よ。石が少し、私に驚いただけ」


そう言いながら、彼女は顔をしかめていた。


火を大きくすれば、円盤全体が熱を持つ。小さすぎれば黒蝋だけを溶かせない。第一環で学んだ通り、彼女は針の根元だけへ細い火を置いた。


一本目が抜ける。


風の圧が少し落ちた。


二本目。


女が指を鳴らす。壁の穴から、音のない風が一斉に逆流した。紐が強く引かれ、ペペが膝をつく。


尽は紙鳥の式札を放った。


「ペペさんのところへ!」


紙鳥は羽を広げ、ペペの赤布へ止まる。布が一度だけ青く光った。魔力を増やす術ではない。誰がどこにいるかを、尽が見失わないための印だ。


「ユーノさん、鏡板を少し右へ!」


「ここですか?」


「もう少し。はい、そこで」


反射光が変わる。第三の針の根元に、黒蝋ではない金属の留め具が見えた。


女がそれを見て、初めて声を荒げた。


「触るな!」


尽は止まった。


相手が止めたい場所を、すぐ壊すのは危ない。留め具は罠かもしれない。彼は鏡板の角度をさらに変え、留め具の影を壁へ映した。


影は、三本の線が中心で交わる印だった。


黒枝の首輪、第一環の蝋、第二環の円盤。


同じ印が、ここにもある。


教授が低く言う。


「その針は抜かない。記録して封じる」


女は笑った。


「封じる? もう遅い。第三環は目を覚ます」


彼女は円盤の外側へ跳び、崩れた壁の穴へ身を滑らせた。人が通れる大きさではない。だが外套が風へ溶けるように細くなり、次の瞬間には影も声も消えていた。


衛士が追おうとした。


「追うな!」


教授が止める。


「出口が見えない。相手の道へ一人で入るな」


残る針を、皆で順に処理した。新しい四本は抜かず、根元へ石灰と封印布を重ねる。古い八本は、流れを確認しながら一本ずつ外す。


最後の針が外れた時、塔の外から風見石の音が届いた。


今度は、風がどちらから来るかも分かる。


西ではない。


塔の地下から、さらに下へ向かっていた。


マルド老人が床石を叩く。


「第三環は山の先ではない。地下水路の先にある」


尽の式札には、新しい文字が浮かんだ。


『なまえ、ひとつ』


第一環では、声が二つ。


第二環では、声が三つ。


今度は、名前が一つ。


リゼッタは肩を押さえながら、尽の隣へ戻ってきた。


「次は、石段に驚かせないように歩くわ」


「石段は多分、ずっと同じところにあります」


「それでも、私を待つべきだった」


尽は笑いかけて、やめた。


彼女の肩には、鎧の上からでも分かるほど赤い痕がある。


「治療してから行きましょう」


「少しくらい平気よ」


「少し平気と、行っていいは別です」


リゼッタは反論しかけたが、教授が先に頷いた。


「次の探索は明日だ。十一人で戻るために、今日は戻る」


第二環の風は止まった。


けれど地下から、誰かが名前を一つだけ呼ぼうとしている気配は、消えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。