第八十六話 第一環の塔は、風より先に足音を数えていた
第一環の風見塔は、丘の上に立っていた。
白い石で組まれた細長い塔は、遠目には壊れた鐘楼のように見える。塔の上には羽根車があり、赤い陽を受けてゆっくり回っていた。
閉鎖されているはずなのに、羽根車は生きている。
「誰かが手入れしている」と衛士長。
塔の周囲には、新しい足跡がいくつもあった。荷馬車の車輪跡もある。けれど入口の扉には、役所の古い封印が残ったままだ。
「扉を通っていない?」とユーノ。
マルド老人は壁の石組みを撫でた。
「地下に保守路がある。昔の図面では、丘の裏手から入れたはずだ」
調査隊は塔へ正面から入らず、丘を回り込んだ。
裏手の草むらには、半分土に埋まった鉄格子がある。格子の鍵は壊され、脇に黒い蝋の欠片が落ちていた。
リゼッタがしゃがみ込む。
「同じ印よ」
三本の線が中心へ集まる円。
教授は衛士二人を先へ入れ、残りに防塵布を配った。
「中では声を出すな。呼ばれても返事をするな。これは怪談への対策ではない。古い塔には、風の反響を利用した術式が残っている可能性がある」
「返事をすると、名を忘れるのは?」とペペ。
「たぶん、怖がらせるための話だ」
「たぶん、なんですね」
地下の保守路は、ひどく狭かった。
石壁の内側を、冷たい風が流れている。足元には古い管が通り、ところどころに青い風晶の欠片が埋め込まれていた。
尽は検査箱を小脇に抱え、最後尾近くを歩く。
リゼッタはその隣だ。
「怖いですか?」と尽が小声で聞く。
「怖くないわ」
「僕は少し怖いです」
「なぜ正直に言うの?」
「怖いと分かっていた方が、無茶をしないから」
リゼッタは前を向いたまま黙った。
しばらくしてから、小さく言う。
「……私も、少しだけ」
その言葉の直後、壁の奥から声がした。
『ひとり』
全員の足が止まる。
声は男とも女とも分からない。石壁に反響して、すぐ近くから聞こえた。
『ふたり』
尽は口を閉じた。
教授の杖が、前方で小さく光る。
『さんにん』
声は、調査隊の人数を数えている。
衛士が一人、思わず後ろを振り返った。
『よん――』
リゼッタの肩が跳ねた。
尽は自分の手の甲をつねった。返事をしない。名前も言わない。ただ歩く。
数える声は十まで続き、急に止んだ。
調査隊は十一人いる。
「一人、足りない」とペペが唇だけで言った。
尽は首を振る。
数えられなかった一人がいるのか。
それとも、数える者が途中で声を失ったのか。
式札が帳面の中で震えた。
『こえ、二つ』
同じ文字が出る。
地下路の先には、小さな丸い部屋があった。
中央に古い風晶柱が立ち、壁には無数の細い管が集まっている。管のほとんどは壊れていたが、四本だけが新しい黒い金属針で繋がれていた。
「集めている」と教授。
「第一環から、第四環へ」とマルド老人。
尽は検査箱を開いた。
柱の根元から落ちた風晶片を入れる。鏡板の光は、すぐ黒い渦になった。
「ここも同じです」
突然、塔の上から金属音が響いた。
誰かが羽根車を止めた。
地下路を抜ける風が、逆向きになる。
壁の管が一斉に鳴り、丸い部屋の床に描かれた古い術式が青白く光った。
「全員、壁際へ!」
教授が叫ぶ。
今度は、声を出してよかった。
床の中央から、風の塊が立ち上がった。
人の形に近い。頭も腕もない。ただ渦巻く風の中に、無数の細い声が混じっている。
『ひとり。ふたり。さんにん』
風の塊は、また数え始めた。
衛士が剣を抜く。
「斬るな!」とマルド老人。
「風を切っても、散るだけだ!」
リゼッタが火を出しかけた。
尽が、彼女の手首を押さえた。
「火も駄目です。風が熱を持ったら、もっと暴れます」
「じゃあ、どうするの?」
尽は風の塊を見た。
数える声は、管から入ってくる魔力に反応している。なら、これは敵ではなく、古い塔の安全装置かもしれない。
人数を数え、異常な風の流れを見つけるためのもの。
「流れを戻します」
彼は壊れた管へ近づいた。
「尽!」
「教授、壁の管を閉じられますか」
「二本なら」
「ユーノさん、検査箱の鏡板を貸してください。ペペさんは、その布を」
指示を出す間にも、風の塊は大きくなる。
リゼッタは火を消した。
代わりに、壁際の管を見た。
「この針を抜けばいい?」
「一度に抜かないでください。順番があります」
「分かっているわ」
「本当に?」
「今は言わないで!」
尽は鏡板を風晶柱の前へ立てた。
反射した光が、黒い金属針の根元に集まる。そこだけ魔力の流れが逆向きだ。
「左から二本目。次は右端」
リゼッタが指先に小さな火を灯した。
針を固定する黒い蝋だけを溶かす。
今回は、火は暴れなかった。
彼女が針を一本抜く。
風の塊が縮んだ。
『じゅう。じゅういち』
声が、最後の二人まで数えた。
尽は息を止めた。
十一人。
今度は、全員を数えた。
二本目の針が抜けると、風の塊は柱の中へ吸い込まれ、床の光も消えた。
地下室には、荒い呼吸だけが残った。
リゼッタは針を布の上へ置き、少しだけ胸を張った。
「今度は、ちゃんと小さくできたでしょう」
尽は頷いた。
「はい。すごく助かりました」
彼女は一瞬、言葉を失った。
褒められると思っていなかった顔だった。
「……当然よ」
その直後、天井から小さな石が落ち、彼女の頭へ当たった。
「痛っ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。塔が私の働きを認めたのよ」
ペペが口を押さえる。
「石で?」
「祝福の石よ」
教授は呆れたように笑った。
第一環の塔は止まった。
だが、黒い金属針が繋いでいた先は、まだ西の山へ続いている。
第二環、第三環、その外にある第四環。
尽の式札は、白い面に新しい文字を浮かべた。
『こえ、みっつ』
増えていた。
塔のどこかで、数える声がもう一つ目を覚ました。
教授は、すぐに地上へ戻るとは言わなかった。
「塔の上を確認する。羽根車を止めた者が、まだ近くにいるかもしれん」
衛士長は顔をしかめた。
「地下の装置を止めた直後です。崩落の危険があります」
「だから二人だけで上がる。残りはここで、退路と人数を守る」
尽は自分も行くと言いかけた。だが、鏡板を支えていたペペの指がまだ白い。ユーノも検査箱を抱えたまま、壁の管を見ている。上へ行く者が増えれば、戻る時に誰が下を見守るのか曖昧になる。
「僕は下に残ります」
言うと、リゼッタが意外そうに見た。
「行きたがると思った」
「行きたいです。でも、今は下の方が足りない」
教授は短く頷いた。衛士二人と、石段を上がっていく。
残された者は、壊れた管を一本ずつ見た。黒い針が刺さっていた穴には、古い風晶の粉が溜まっている。尽が鏡板を近づけると、粉は青く光るだけで、先ほどのような黒い渦にはならなかった。
「終わったのかな」
ペペが小さく言った。
「この部屋では」と尽は答えた。
終わった、と言い切るには早い。塔の声は二つ目を目覚めさせた。黒衣の女も逃げた。止めた装置は一つだけで、何を送ろうとしていたかも、まだ分からない。
リゼッタは、抜いた黒い針を布の上へ並べた。
「順番に抜いたから、順番に記録する。どれがどこに刺さっていたかも」
「分かりますか?」
「分からなくならないように、今やるのよ」
彼女は針の横へ、小さな札を置いた。左から二本目。右端。中央寄り。尽はその手伝いをした。いつもなら、リゼッタは先に片づけてから説明する。今日は、ペペとユーノにも見えるよう、一本ごとに声に出した。
「これは、第一番目に外した針。ここから風が逆へ流れていた」
「こっちは、最後に外した針。触る前から熱かった」
ペペが帳面へ書く。ユーノは、壁の穴の位置を図にした。
同じ出来事を、一冊だけに書かない。
それは尽がこの世界で何度も教えられたことだった。
しばらくして、上から笛が二度鳴った。安全の合図だ。
教授たちは、羽根車の軸に残った黒い蝋と、細い革手袋を持って降りてきた。手袋は右手用だけ。内側には風晶粉が染みついていた。
「人影は?」と衛士長。
「いない。西の斜面へ降りた跡が一つ。急いで追えば、罠へ入る」
教授は手袋を見せた。
「羽根車は外から止められていた。塔が勝手に壊れたわけではない」
リゼッタの目が細くなる。
「じゃあ、女は塔を使って人を数えていた」
「人だけとは限らん」
マルド老人が、壁の古い管を見た。
「風晶は音を運ぶ。足音も、呼び声も、術式の残響もな。何を数えたかは、次の環を見なければ分からん」
尽の式札が、帳面の隙間から顔を出した。
紙鳥の嘴が、地上へ続く出口とは違う方向へ向く。
西。
第二環がある方角だった。
地上へ戻る途中、リゼッタは足を滑らせた。
大した段差ではない。転んでも怪我をしない程度だった。けれど彼女は、石壁へ手をついたまま一瞬動かなかった。
「大丈夫ですか」
「大丈夫。足場が私を試したのよ」
「足場は、たぶん誰も試していません」
「試したわ」
彼女は立ち上がり、服の裾を払った。
「そして私は、わざと受けた」
ペペが笑いをこらえきれず、肩を震わせた。
尽も笑いそうになったが、先に手を差し出した。リゼッタは少し迷ってから、その手を掴んだ。
地上へ出ると、赤曜の光が丘を照らしていた。風見塔の羽根車は、もう回っていない。
止まった羽根を見上げ、教授は調査票へ最後の行を書いた。
〈第一環、外部からの改造を確認。装置の目的は未確定。調査隊十一名、全員帰還。〉
尽は、その最後の一文を見た。
全員帰還。
それは勝利の言葉ではない。次の塔へ進む前に、誰を置いていかなかったかを確かめるための言葉だった。
リゼッタが、布に包んだ黒い針を抱え直す。
「次も十一人で行くの?」
教授は首を振った。
「次は、十一人で戻るために、もう少し準備してから行く」
その答えに、尽は少し安心した。
急いで次の謎へ向かうことと、前の場所から無事に帰ることは、同じ仕事ではない。




