第八十五話 古い塔の地図は、道より先に戻り方を教える
風見塔の調査隊が出ると決まったのは、その日の夕方だった。
学院長の許可を受け、サイラス教授、術具院の鑑定師、衛士六名が第一環から第三環までを確認する。学生は原則として参加禁止。
ただし、押収品を見抜いた検査箱の作り手については例外になった。
「尽、ユーノ、ペペ。お前たちは検査箱の担当として同行する」
サイラス教授は三人の名前を呼んでから、少し間を置いた。
「リゼッタも、物資と帳簿の照合役として来い」
「私は?」
リゼッタが自分を指した。
「行っていいんですか?」
「お前の商人の目が役に立つ。だが、条件がある」
教授は指を一本立てた。
「勝手に前へ出ない」
「はい」
二本目。
「危険な術を、私の許可なく使わない」
「はい」
三本目。
「縄は置いてこい」
リゼッタの顔が固まった。
「なぜ縄だけ」
「昨日から、お前が縄を見る目が信用できない」
「縄に罪はないわ」
「お前が使うと、たぶんある」
結局、鞄に入れてよいのは水筒、保存食、帳面、筆記具、予備の外套だけになった。
翌朝、尽たちは学院の古文書室に集まった。
風見塔の地図を探すためだ。
古文書室は石造りの地下にあり、紙と乾いた革の匂いがする。棚には何百年も前の地図が並び、双日の位置、風向き、交易路、災害の記録まで、細かい字で書き込まれていた。
鑑定師のマルド老人が、一枚の大きな羊皮紙を机へ広げた。
西の山地に、四つの円が描かれている。
「風見塔は、元々ただの観測塔ではない」
老人は第一環を指した。
「赤陽域と緑陽域の境目を通る風は、時々、魔力の流れを乱す。昔の技師たちは塔を使い、風の強さと魔力の偏りを測った。異常があれば、街道を閉じるためにな」
「第四環は?」と尽。
老人の指が、一番外側の円で止まった。
「記録が少ない。完成前に閉鎖されたらしい」
「なぜですか?」
「建設中に、作業員が何人も消えた。山の風にさらわれたという者もいた。だが、当時の報告書には奇妙な一文がある」
老人は別の紙を取り出した。
そこには、震えた筆致でこう書かれていた。
『塔の中で、誰かが人数を数えている。返事をした者から、名を忘れた』
ペペが息を止めた。
「名を忘れる?」
「昔の人は、分からないことをすぐ怪談にする」とマルド老人。
「ただ、第四環はその後、封鎖された。今も役所の地図には載っていない」
尽の袖の中で、式札が冷たくなった。
『こえ、二つ』
札が数えている声。
古い塔で人数を数える声。
偶然とは思えない。
リゼッタは地図へ身を乗り出した。
「第一環から第三環までは、一本道で繋がっているの?」
「繋がってはいる。だが、途中に古い風路がある。風が強い日には近づかん方がいい」
「今日は強い?」
「赤陽が高い。午後には吹く」
彼女は地図の端へ、細かい字で物資を書き始めた。
保存食。水。防塵布。予備の風晶。簡易検査箱の部品。
「縄は書かないんですね」と尽。
「教授に没収されるものを帳簿へ書くほど、私は馬鹿ではないわ」
「持っていくんですか?」
「持っていかない」
「今、少し間がありました」
「尽」
出発前、レオハルトが文書室の扉にもたれていた。
彼はいつもの整った制服を着ていたが、顔色は良くない。
「風見塔へ行くそうだね」
「公式の調査です」と尽。
「王立術具研究会の印が見つかった件は、聞いた」
リゼッタが帳面を閉じる。
「何か知っているの?」
レオハルトは不快そうに眉を寄せた。
「知らない。だが、研究会の印章は先月、保管庫から一つなくなった。僕は報告した」
「誰に?」
「学院の事務局だ。替えを作れば済むと言われた」
「なぜ言わなかったんですか」とペペ。
「盗まれたなどと騒げば、研究会の信用が落ちる」
「今、落ちています」とリゼッタ。
レオハルトは言い返せなかった。
尽は彼の手を見る。白い指先が、外套の縁を強く握っていた。
「印章が消えた日は、いつですか」
「旧水路の点検が止まった頃だ。三週間前」
風晶の抜き取りも、その頃から始まったのかもしれない。
レオハルトは小さく息を吐いた。
「僕も行く」
「許可は?」と教授の声が背後から飛んだ。
レオハルトは振り向く。
「ありません」
「なら残れ」
「でも、研究会の名が」
「名を守るなら、まず報告を隠すな。お前が今すべきは、保管庫の出入りを全部洗い出すことだ」
教授は容赦がなかった。
レオハルトは唇を噛み、やがて頷いた。
「分かりました。必ず、誰が印章を持ち出したか調べます」
リゼッタは彼が去る背を見て、ぽつりと言った。
「あの人、少しだけましになったわね」
「少しだけ?」
「まだ部品を独占した罪が残っている」
「そこは忘れないんですね」
午後、調査隊は西門を出た。
先頭に衛士。中央に荷馬車。最後尾に教授と学生たち。
尽は荷馬車の揺れに合わせ、検査箱を抱えていた。式札は帳面の内側に挟んである。
地図には、風見塔へ向かう道だけでなく、途中で引き返すための避難小屋と、崖道を避ける迂回路まで赤い線で書かれていた。
「地図って、行く場所より戻る場所の方が多いんですね」とペペ。
マルド老人が笑った。
「生きて帰る者が、次の地図を書けるからな」
尽はその言葉を帳面の端へ書いた。
前へ進むだけが、冒険ではない。
戻れる道を残すことも、同じくらい大事だ。
その時、帳面の中の式札が、かすかに羽音を立てた。
まだ塔は見えない。
それでも、誰かの声はもう風の向こうで尽たちを数えていた。
出発の前夜、リゼッタは寮の食堂で保存食を小分けにしていた。
干し肉を四人分。硬いパンを四人分。水は少し多めに。
「衛士の分までありますね」と尽。
「調査中に空腹な人がいると、判断が荒くなるわ」
「それは経験ですか?」
「経験よ」
彼女は即答してから、皿の上の干し肉を一枚つまんだ。
「……昔、空腹のまま訓練試合をして、三回負けたことがある」
「三回?」
「相手が強かっただけよ。空腹は関係ないわ」
「今、経験だと」
「尽」
ペペが笑いながら、四つの包みへ名前を書いた。
リゼッタの包みだけ、少し大きい。
彼女はすぐに抗議した。
「私だけ多くない?」
「働く人は食べた方がいいって、リゼッタが言ったから」とペペ。
言い返せず、リゼッタは包みを鞄へしまった。
出発時、教授は改めて隊列と合図を確認した。
先頭が止まれば、全員が止まる。離れた者を見つけても、名を呼ばず、鈴を一度だけ鳴らす。帰路は、行きに残す赤い布印を辿る。
尽は地図に書かれた避難小屋の印を見た。
どんなに遠くへ行っても、戻る印を消してはいけない。
その考えを確かめるように、彼は式札を帳面の一番内側へ入れた。
白い紙は、今は何も書かない。
けれど尽が帳面を閉じると、紙の端だけが小さく西を向いた。
風見塔へ行くのは明日だ。
それまでに、札が何かを思い出さないことを、尽は少しだけ願った。




