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第八十四話 火力は、派手にする前に逃がす道を作る

石箱の黒い蝋が、ひび割れた。


一筋の青白い光が隙間から漏れ、荷馬車の床板を走る。


衛士たちは御者を抱えて後ろへ下がった。尽たちも石畳の端まで退く。けれど、箱の周りにはまだ他の九箱が積まれている。


一つが暴ければ、残りまで巻き込む。


「教授、封じられませんか?」


ユーノが叫んだ。


「術式が内側へ吸い込む形だ。外から押さえれば、反発する」


黒い蝋の三本線が、ぐるぐると中心へ縮んでいく。


尽は昨日の水路を思い出した。


逃げ場を失った水は、上へ噴いた。


魔力も同じなら、止めるより先に逃がす道を作るべきだ。


「上へ抜け道を作れませんか」


教授が尽を見た。


「箱の中へ風を通すというのか。術式の向きが読めん」


「読めなくても、外へ逃がす場所があれば」


「失敗すれば、箱ごと吹くぞ」


リゼッタが、尽の隣へ立った。


「私が火で蓋だけ溶かす」


「駄目です」と尽。


「今度は小さくできるわ」


「蝋の下に何があるか分かりません」


「でも、何もしなければ爆発する」


彼女の声は震えていなかった。


だからこそ、尽は首を振った。


「一人でやらないでください。火は必要です。でも、先に風路を作ります」


教授が、二人の間へ杖を差し入れた。


「やるなら、私が術式を支える。学生に任せるには危険すぎる」


「先生だけでも危険です」と尽。


「だからお前たちは、指示通りに動け」


尽は短く息を吐いた。


時間がない。


彼は地面に膝をつき、荷馬車の周囲へ小さな石を並べ始めた。風晶灯で使った薄い金属板を、衛士の詰所から借りる。板を斜めに立て、箱の上へ細い筒のような空間を作る。


「風は、ここを通します。真上ではなく、少し西へ。人がいない方へ」


「私の火は?」とリゼッタ。


「蝋が割れた場所だけ。大きくしないで、温度を上げてください」


「分かっているわ」


「本当に?」


「今は聞かないで!」


ペペとユーノが板を支える。


教授は杖で、箱の周りへ薄い膜を作った。完全な防壁ではない。暴れた魔力を、上へ向けるための壁だ。


尽は風の糸を両手に集めた。


学院で作れたのは、針ほどの細さだった。


今は、それより太く、長くしなければならない。


息を吸う。


赤い陽の光を、遠くの熱を、地面の上を抜ける風を思い浮かべる。


自分の中へ入れるのではない。


ただ、箱の中から外へ通る道を、頭の中で一本にする。


「今です」


リゼッタの火が走った。


細い。


昨日のような火球ではない。


黒い蝋の割れ目だけを、赤い線がなぞる。


蝋が溶けた。


同時に、箱の中から青白い魔力が噴き出した。


尽の風がそれを掴む。


掴んだ瞬間、腕の骨まで痺れた。


風は見えない。けれど、青い光を含んだ時だけ、太い縄のように形が分かる。


光は上へ走った。


金属板の間を抜け、西の空へ抜ける。


ぼん、と遠くで音がした。


爆発ではない。雲の中で雷が鳴ったような、低い音だ。


尽は膝をついた。


腕が震える。


だが、石箱は割れなかった。


リゼッタが蓋へ近づこうとする。


「まだです!」


尽が言うより早く、二箱目の蝋が光った。


「リゼッタさん、下がって!」


彼女は飛び退いた。


一歩、二歩。


三歩目で、後ろに置かれていた菓子の荷箱へ背中から突っ込んだ。


木箱は倒れ、焼き菓子が石畳へ散らばる。


リゼッタは菓子の袋を頭に載せたまま、起き上がった。


「……避けたわ」


「荷箱が受け止めました」とペペ。


「避ける先に、たまたまあったのよ」


「菓子が?」


「菓子も役に立つでしょう」


衛士長が、散らばった菓子を見下ろした。


「あれ、姫さんが差し入れたやつじゃないか」


「今は言わないで!」


二箱目、三箱目。


尽たちは同じ手順を繰り返した。


教授が膜を支え、尽が風を通し、リゼッタが蝋だけを焼く。ペペとユーノは金属板を持ち替え、風路が崩れないようにした。


十箱すべてを開く頃には、尽の指先は感覚が薄くなっていた。


リゼッタの顔にも煤がついている。


だが、今回は泥を被っていなかった。


箱の中にあったのは、風晶だけではなかった。


青緑の小片を中心に、黒い金属の針が何十本も刺さっている。針の根元には灰色の粉が塗られ、風晶の魔力を少しずつ中心へ集める構造になっていた。


教授が一つを布越しに持ち上げた。


「魔力を溜める装置だ。風晶を弱らせ、集めた力を別の場所へ送る」


「別の場所は、風見塔ですか?」と尽。


「可能性は高い」


リゼッタは散らばった焼き菓子を拾い、まだ包みが破れていないものを衛士へ渡した。


「食べられる分は食べて。今日の検査は、長くなりそうだから」


「姫さんは?」


「私は要らないわ」


そう言った直後、彼女の腹が小さく鳴った。


尽は一枚差し出した。


「食べましょう」


「今のは、箱の音よ」


「箱は全部、空です」


「……一枚だけもらう」


教授は押収した黒い金属針を見つめていた。


やがて、針の一本に刻まれた印を布で拭う。


三本の線が中心へ集まる円。


黒い蝋にあったものと同じ印だ。


ただし円の外側に、小さく別の文字がある。


『風見塔・第四環』


教授は顔を上げた。


「塔は一つではない」


西の旧街道の先に、かつて風を読むために作られた塔が、いくつも連なっている。


誰かは、その古い塔を順番に使い、風晶から抜いた魔力を集めている。


尽の式札が、白い紙の上で震えた。


今回は言葉にならない。


小さな紙鳥の羽だけが、何度も西を指した。


風見塔の一つではない。


もっと先に、聞くべき声があるようだった。


御者は衛士の毛布に包まれ、震える指で荷札を見つめていた。


「石橋で荷を渡したら、次はどうするはずだった?」と教授が聞く。


男は首を振る。


「知らない。俺は第四環までって言われただけで……帰りは空荷でいいと」


「誰に言われた?」


「黒い外套の女です。顔は見えなかった。でも、声だけは覚えてる。静かな声で、何度も『数を間違えるな』って」


尽の掌で、式札が強く震えた。


『数える者』


札が追っているのは人影ではないのかもしれない。


声。


同じ声が、風晶を抜き、荷を動かし、どこかの塔で何かを数えている。


リゼッタは焼き菓子の残りを鞄にしまった。


「第四環へ行く前に、第一環から第三環を調べる必要があるわね」


「行くのは衛士です」と尽。


「分かっているわ。私は地図を調べる」


「それなら安心です」


「……少しは、信用してくれるようになった?」


尽は答えるまでに、ほんの少し間を置いた。


「地図のことなら」


リゼッタは焼き菓子を一枚取り出し、尽の額へ軽く当てた。


「やっぱり、信用していないじゃない」


尽は菓子を受け取った。


「信用しているから、地図を任せるんです」


「それだけ?」


「一人で第四環へ行かないとも、今は信用しています」


リゼッタは口を開きかけ、閉じた。


少しだけ悔しそうで、少しだけ嬉しそうだった。


「今は、という言葉が余計よ」


西の空では、風見塔のある方角に薄い雲が集まり始めていた。


赤い陽の下で、雲の縁だけが青白く光る。


あの光がただの天気の変化なのか、それとも誰かが風晶を動かしているのか。


まだ、誰にも分からなかった。

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