第九話 歯車は直す前に測れ
真鍮の歯車には、見れば分かる故障が二つあった。
歯が一枚ない。
軸穴が歪んでいる。
だからといって、その二つを直せば元通りになるとは限らない。
尽は寝台の上へ布を敷き、歯車を転がした。
半周ほど進むと、毎回同じ場所で右へ倒れる。
欠けた歯を下へ向けても、横へ向けても同じだった。
重心がずれている。
軸穴の歪みだけでは説明できない。
側面を光へかざす。真鍮色の輪の一部に、幅の狭い暗色があった。別の金属を埋めた跡にも見えるし、熱を受けて色が変わっただけにも見える。
削れば分かるかもしれない。
だが、削った瞬間に元の状態は失われる。
小学校の頃、分からないラジオ部品を端から切り開き、父に言われた言葉を思い出す。
壊す検査は、最後にしろ。
尽は紙を細長く切った。
歯車の外周へ巻き、一本ごとの歯先を鉛筆で写す。紙を外して直線にすると、歯の間隔が並んだ。
欠損の左右だけが広いのではない。
反対側の三枚も、わずかに間隔が詰まっている。
歯車全体が熱か圧力で変形していた。
次に軸穴へ鉛筆を差し込み、歯車を回す。鉛筆の先が描く円は、中心から外れている。
定規はない。
ノートの罫線を使う。
地球の一ミリがこの世界で何と呼ばれるかは分からない。それでも、同じ線を基準にすれば比較はできる。
尽は結果を三つに分けた。
見えたこと。
測ったこと。
まだ分からないこと。
最後の欄が一番長くなった。
材質。
使われていた機械。
回転方向。
許される誤差。
欠けた時期。
修理歴。
そもそも、修理する価値がある部品なのか。
ティムが治療区へ来たとき、尽は紙を見せた。
若い矮人は歯車を取り、欠けた場所へ金属を盛る仕草をする。
尽は首を振った。
紙に炎を描く。
歯車を描く。
熱で輪がさらに歪む絵を描いた。
ティムは今度、全体を削り直す仕草。
尽は歯の数を指し、隣に別の歯車を描いた。相手側の歯車が同じでなければ噛み合わない。
ティムは腕を組む。
二人で壊れた歯車を見た。
直す方法を話しているはずなのに、何一つ直せない。
「せめて言葉が通じたらな」
ティムが自分の口を指し、耳を指し、尽の単語帳を叩いた。
同意だけは完璧に通じた。
メルダの許可が出たのは、四度目の双曜潮だった。
左膝の固定板は外れない。
短い杖を使い、治療区と工房入口を一往復するだけ。痛みが増えたら戻る。赤い線を越えて重作業区へ入らない。
条件は絵札で一つずつ確認された。
尽が全部へ頷くと、メルダは腰紐に青い札を付けた。
負傷者。
たぶん、そういう意味だ。
工房へ続く回廊は、温度が一歩ごとに上がった。
石壁の中を熱水管が走り、床下から低い振動が伝わる。大槌の音、鋸の音、送風機の唸り。その間へ、短い呪文と金属の鳴くような高音が混ざっていた。
尽が想像した鍛冶場より広い。
剣だけを作っている場所でもない。
鍋。
水道弁。
荷車の車軸。
義足の関節。
鉱石灯の反射板。
大隧道の換気羽根。
壁際には修理待ちの品が、赤、黄、白の札で分けられている。赤札の棚には触れるなという手の絵。黄札には持ち主の印と破損箇所。白札には作業を終えたらしい日付の刻線。
グランドーガは炉の前にいなかった。
入口近くの長机で、五つの歯車を並べていた。
尽が近づくと、老人は挨拶もせず、真鍮の歯車を指した。
尽は紙を差し出す。
グランドーガは最初の図だけ見て、紙を裏返した。
次に、机の五つを指す。
一つ選べ、ということだろうか。
五つのうち四つには、目で分かる傷がある。
歯先の欠け。
錆。
軸穴の割れ。
表面の焦げ。
残る一つだけが、新品のように光っていた。
尽はその一つを取らなかった。
五つを横一列へ置き、紙片で歯の間隔を写す。
光る歯車だけ、間隔が少し広い。
見た目がきれいでも、この四つと同じ機械には使えない。
尽は五つ全部へ三角を描いた。
良品なし。
グランドーガの片眉が上がる。
老人は焦げた歯車を取り、隣の小さな炉へ放り込もうとした。
尽は思わず杖を放し、その手首を掴みかけた。
左膝が崩れる。
ティムが肩を支えた。
焦げた歯車は炉へ入らず、机へ戻された。
グランドーガは尽を睨む。
尽も歯車を指した。
焦げは表面だけかもしれない。熱処理された部品かもしれない。用途も調べず廃棄するのは早い。
説明は言葉にならない。
尽は紙の〈まだ分からない〉欄を叩いた。
グランドーガはしばらく黙り、それから大声で笑った。
周りの職人が作業を止めるほどだった。
老人は焦げた歯車を布で拭う。
黒い色が落ちた。
煤を塗っただけだった。
試された。
尽は顔が熱くなる。
しかも、試験に正解したのか、老人の悪戯に引っ掛かったのか分からない。
グランドーガは尽の紙を表へ戻し、〈まだ分からない〉欄へ太い丸を付けた。
欠損の図でも、寸法の図でもない。
そこを選んだ。
続いて老人は、最初に渡した真鍮歯車を固定台へ載せる。細い探り針で暗色部を擦ると、表面の下から銀色の線が現れた。
過去に別材を埋め、修理した跡だった。
グランドーガは古い修理線と歪んだ軸穴を指し、両手を左右へ広げた。
捨てるか。
作り直すか。
尽は少し考え、歯車そのものではなく、隣に大きな輪を描いた。
どこで何を動かしていたか、先に見たい。
部品だけで答えを決めない。
老人は丸もばつも付けなかった。
グランドーガが奥へ声を掛けると、職人が木箱を一つ運んできた。
中にあったのは、大きな時計に似た装置だった。
文字盤の代わりに十二の水滴印。側面から二本の管。底には小さな羽根車がある。
ティムが桶を持ち上げ、装置へ水を通す仕草をした。次に、小石を十二個並べ、家々へ分ける。
水量を測る機械らしい。
真鍮歯車は、羽根車の回転を文字盤へ伝える途中に入っていた。
大きな力は掛からない。
欠けた歯を一枚だけ補っても、すぐ破裂するような部品ではない。
だが、軸穴の偏りと全体の歪みを残せば、表示する水量が少しずつずれる。
一軒なら小さな誤差でも、十二軒へ毎日分ければ、誰かの桶だけがいつも足りなくなる。
尽は紙へ二つの案を描いた。
古い歯車を補修し、短い期間だけ使う。
同じ歯数と間隔で新しい歯車を作り、古いものは修理履歴と一緒に残す。
その横へ、水滴を何度も量る絵を加える。新しくても、組んだだけでは信用しない。既知の量を流し、表示と比べる。
グランドーガは二つの案を見比べた。
急場なら上。
今回は下。
老人は新造を示す紙へ槌印を押し、古い歯車には白札を結んだ。捨てる棚ではなく、記録棚へ置かれる。
直さないことも、修理の答えになる。
尽はその一文を日本語で書き足した。
代わりに、薄い灰色の札を一枚出す。
槌の印。
片目の印。
名前を書く空欄。
ティムが自分を指し、同じ札を胸元から出した。ただし彼の札には槌が二つあり、尽のものは槌が一つと目だけだった。
弟子札ではない。
見学か、試用か、その程度だ。
尽は空欄へ〈風間尽〉と日本語で書いた。
グランドーガが首を振る。
ティムが粘土板へ、現地文字で〈ジン〉の音を刻む。尽はその形を見ながら写した。
この世界で初めて、自分の名をこの世界の文字で書いた。
札を腰へ付けたところで、工房奥から呼子が三度鳴った。
職人が、修理棚から三本の車軸を運んでくる。
どれも違う商会の札が付いている。赤い鳥、黒い角、白い輪。
軸受けの蓋を開けると、油の縁へ緑色の粉が付いていた。
昨日の昇降機と同じ色だった。
グランドーガの笑いが消える。
三本とも壊れ方は違う。
一つは油切れ。
一つは軸面の摩耗。
一つはまだ回るが、異音が出る。
共通しているのは緑粉だけ。
老人は商会札を並べた。三つの札の裏に、同じ青い縁取りの小札が結ばれている。
尽には読めない。
ティムが床へ城の簡単な地図を描き、中央市場の一角を叩いた。
荷の受け渡し場所。
三本は、そこを通っている。
尽は緑粉へ顔を近づけようとした。
グランドーガの手が額を押し戻す。
次に老人は、尽の腰の青い負傷札を指した。
見学者より先に、患者だった。
調べたい。
だが、触れてよいとは限らない。
グランドーガは三本の車軸を赤札棚へ移し、工房の換気口を開けた。粉を拭った布も、昨日と同じ蓋付き壺へ入れる。
そして青縁の小札を一枚、尽の単語帳へ挟んだ。
明日。
市場。
その二語だけは、ティムの指と絵で分かった。
真鍮歯車の答えは、まだ出ていない。
けれど、尽がこの世界で最初に調べることは、決まったらしい。




