第八話 言葉より先に歯車が分かる
尽が自分で座れるようになったのは、二度目の双曜潮のあとだった。
地球時間でどれほどかは分からない。
止まった腕時計を基準にできないため、門の石柱が鳴った回数、食事、眠った時間をノートへ記す。
赤光が強くなる区間。
碧光の輪が広がる区間。
二つの光が釣り合い、壁の鉱石灯が一斉に明滅する瞬間。
夜は来ない。
眠る時間は、空の暗さではなく身体と城の鐘が決めていた。
右手から先に戻った。
次に左手。
足は最後だった。
左膝を固定されているため歩けないが、つま先は動く。
メルダは毎回、動いた範囲を粘土板へ刻む。指輪へ魔力らしい石をもう一度近づけることはなかった。
ボルン、ガルド、ティムは巡路報告の合間に顔を出した。
三人の役目も、少しずつ分かった。
ボルンは巡路隊長。
ガルドは鉱脈と魔力汚染を測る探路士。
ティムは城防工房の見習いで、地図、器具修理、記録運搬を担当している。
本人たちが日本語で説明したわけではない。
絵と道具と、何度も聞いた単語からの推測だった。
間違っている可能性もある。
尽はノートに、名前の横へ疑問符を付けた。
最初に覚えた言葉は、水だった。
「ヴァ」
メルダが水差しを示す。
尽は水を指す。
「みず」
「ミ・ズ」
メルダが繰り返す。
一方的に現地語を教わるのではない。
互いに同じ物へ違う音を置く。
痛い。
「グラ」
止める。
「ドゥラ」
名前。
「ナム」
数字は、指と石で覚えた。
一から十。
矮人の片手も指は五本なので、途中までは分かりやすい。
十一から、数え方が変わった。
十を一塊として数えるのではなく、六を一組にする場面がある。工房の歯車は十二歯、二十四歯、三十六歯が多く、時間も双曜潮を六つへ分けるらしい。
尽は地球の十進法を紙へ描く。
ティムは六進と十二進が混ざった表を描く。
二人とも途中で混乱した。
最終的に、物の個数は石を並べることになった。
高度な文明同士の交流は、石が強い。
指輪は時々、一語だけ意味を落とした。
水。
痛み。
名前。
止まれ。
同じ語でも、毎回は反応しない。
尽が疲れているとき、指輪が温かいとき、相手が強く一つの意味を伝えようとしたとき。条件らしいものはあるが、揃わない。
尽は自動翻訳を期待するのをやめた。
単語帳を作る。
左に現地語の音。
中央に絵。
右に日本語。
意味が怪しいものには丸ではなく三角。
ティムも同じ形式を真似した。
尽の〈火〉と、ティムの示す炉火、魔法火、警報火は別の単語だった。
尽が全部を〈ひ〉と書くと、ティムは三つの絵へ違う音を付けた。
「日本語が雑みたいに見えるやん」
ティムは意味を理解せず笑った。
治療区から出られるようになると、尽は城門内の回廊を見た。
氷風城は、岩を掘った穴ではない。
岩壁の内側へ、何層もの通路、炉、住居、倉庫、市場が積み重なっている。
天井から太い鎖が下がる。
荷台が上下する。
水車のような輪が回り、離れた場所の送風機を動かす。
魔法らしい光もある。
それでも、すべてを魔法だけで動かしてはいない。
歯車。
軸。
滑車。
重り。
摩擦を減らす油。
尽が知っている仕組みと、知らない材料が組み合わされている。
歩くのを忘れ、壁際の昇降機を見上げた。
ティムが袖を引く。
「ドゥラ」
止まれ。
尽の前を、角のある商人の荷車が通る。
城内には人間、矮人、長耳の者、角のある者、獣人がいる。互いに睨む者もいるが、武器は布や革で封じられていた。
交差路ごとに、城門と同じ禁闘絵札。
違反者らしい二人が、門衛に挟まれて別室へ連れていかれる。片方は人間、片方は牙のある大男。人間だけ許される様子はない。
ティムは胸を叩き、城を指す。
「ドゥラ・カン」
争うな。
それだけは指輪なしでも分かるようになった。
回廊の奥で、大きな音がした。
金属が歯を噛み損ねる音。
がん。
がん。
一定間隔。
荷物用の昇降機が、途中で止まっている。
下では矮人たちが綱を引き、上では人間の商人が怒鳴っていた。荷台には鉱石箱が六つ。片側だけ低く傾いている。
ティムは工房見習いの顔へ変わり、走った。
尽も杖をついて追う。
近づき過ぎるなと止められ、黄色い床線の外へ立つ。
整備員が側面の蓋を開ける。
鎖は切れていない。
主歯車も回る。
それでも一周ごとに歯が跳び、荷台が一寸落ちる。
整備員は歯車の摩耗を疑い、交換品を持ってこさせる。
尽は音を聞いた。
一周ごとではない。
重い箱が傾いたときだけ、二度続けて鳴る。
歯そのものなら、荷重が同じでも同じ位置で跳ぶはずだ。
尽はティムの紙を借りる。
荷台。
左右の鎖。
上の滑車。
箱六つ。
傾いた側に四つ、反対に二つ。
均等に載せ直す絵を描く。
ティムは首を振る。
積み替えには荷台へ人が乗る必要があり、今は危険。
尽は次の絵を描く。
空の予備箱へ石を入れ、軽い側から綱で吊るす。
荷台へ人を乗せず、一時的に釣り合いを戻す。
整備員が絵を見る。
髭の長い老人だった。
尽。
絵。
昇降機。
順に見て、何か尋ねる。
分からない。
ティムが必死に、尽が崖を削った話と区別しながら説明する。薄片爆発の絵を出しかけ、老人に叩き落とされた。
今は薯片の話ではない。
老人は自分で荷重を計算した。
軽い側へ、鉱石ではなく砂袋を一つずつ追加する。最初から同じ重さへしない。
一袋。
音が小さくなる。
二袋。
荷台の傾きが戻る。
歯跳びが止まった。
昇降機を最寄りの足場までゆっくり下ろす。
人が乗って箱を積み直すのは、完全に固定してからだった。
尽の案で直ったわけではない。
原因もまだ確定していない。
荷重の偏りが症状を悪化させていたことだけは分かった。
老人は、外した歯車を交換せず、軸受けを調べた。
片側の油溝へ、緑色の細かな砂が詰まっている。
回転抵抗が増え、偏荷重のときだけ鎖が跳ねていた。
だが、グランドーガはそこで作業を終えなかった。
軸受けを二つ、布の上へ並べる。
一つは今外したもの。もう一つは倉庫から持ってきた同型品。
老人は尽へ細い鉄棒を渡し、両方を指した。
違いを見ろ、ということらしい。
尽は杖を壁へ預け、床へ片膝をついた。左脚には体重を掛けない。
新品の軸受けを棒で回す。静かに二周半。
故障品は一周と少しで止まる。
油溝の緑砂は、すでに見つかっている。答えとして指差すだけなら簡単だった。
けれど、尽は首を横へ振った。
それだけではない。
故障品を逆向きに回す。今度は半周で止まり、わずかに戻る。
軸受けの外輪へ鉛筆の線を引く。止まる位置を三回記録すると、ほぼ同じ場所だった。
尽は紙に円を描き、一箇所だけへ小さな傷を付けた。
砂が抵抗を増やしただけなら、止まる位置は毎回ずれるはずだ。内部の転動子か、受け面にも傷がある。
グランドーガは何も言わず、軸受けを割った。
内側の一枚に、髪の毛ほど細い亀裂が走っていた。緑砂が油を吸い、乾いた状態で荷重を受け続けた結果らしい。
整備員は交換品だけを持ち上げる。
老人はそれを下ろさせ、周囲の同型軸受けをすべて開けるよう命じた。
一台だけ直しても、同じ砂を吸った他の機械が明日止まる。
ティムが尽の紙を覗き込み、目を丸くした。
尽は得意になりかけ、すぐに口を閉じた。
自分が見つけたのは傷の位置だけだ。緑砂の正体も、どこから混じったかも分からない。この世界の金属強度も、油の性質も知らない。
知っている仕組みが通じたからといって、すべてを知っていることにはならない。
その線を越えれば、次は人を巻き込む。
老人は尽へ、油溝と絵を交互に示す。
胸を叩く。
「グラン・ドーガ」
名前らしい。
ティムが背筋を伸ばした。
老人を指し、工房を指し、両手で大きな槌を振る真似をする。
鍛造か機械工房の偉い人。
尽も自分を指す。
「尽」
老人——グランドーガは、尽の杖と固定された左膝を見る。
次に、紙へ描いた昇降機を見る。
そして短く言った。
指輪がわずかに温かくなる。
〈来い〉
尽は工房へ招かれたと思った。
一歩出ようとする。
膝が痛み、よろける。
グランドーガは即座に首を振った。
床を指す。
寝台の方角を指す。
もう一度、短く言う。
今度は指輪が反応しない。
ティムが笑い、紙へ寝ている尽と、その横で腕を組む老人を描いた。
意味は、たぶんこうだった。
治ってから来い。
グランドーガは去る前に、尽の紙から亀裂を示す円だけを切り取った。
代わりに、小さな真鍮の歯車を寝台脇へ置く。
歯は一枚欠け、軸穴も歪んでいる。直せという課題なのか、ただの見舞いなのか、今の語彙では聞けない。
尽は歯車を掌で転がした。
壊れた物を見ると、中を知りたくなる。
神戸で時計を分解し、父に叱られたときと同じ感覚が戻ってきた。
ただし今回は、替えの部品も説明書もない。
それでも、知らない世界で初めて渡されたものが、剣でも魔法書でもなく、壊れた歯車だったことを、尽は少し嬉しいと思った。
正式な弟子入りには、まだずっと早かった。




