第十話 喧嘩の値段は貨物札で決まる
翌日、メルダは外出許可の絵札を三枚並べた。
工房。
市場。
治療区。
順番を変えるな。
寄り道するな。
痛みが増えたら、最後まで我慢せず戻れ。
尽は頷いた。
念のため、単語帳へも書く。
〈膝が三角になったら帰る〉
痛みを丸、三角、ばつの三段階で記録していた。今は丸と三角の間。地球の病院なら外出させてもらえない気がするが、この世界の治療区にも、患者を寝台へ縛り続ける余裕はないらしい。
ティムが小さな手押し車を持ってきた。
尽は乗せられるのかと思い、拒否した。
ティムは呆れた顔で、車へ木箱と記録板を積む。
運ぶのは患者ではなく証拠だった。
「分かってた。今のは確認や」
通じない言い訳をして、尽は杖をついた。
中央市場は、城門より騒がしかった。
岩壁を円形に削った大空洞へ、三層の通路が巡っている。下層は荷車と鉱石。中層は食料、布、日用品。上層には両替所、商会、宿、通訳屋。
赤い陽光を導く鏡筒と、碧い鉱石灯が同じ天井から市場を照らす。
果物を積む長耳の女。
角へ金輪を付けた革商人。
羽のある郵便屋。
二人用の鎧を一人で担ぐ熊の獣人。
人間の子供と牙のある子供が、同じ屋台の焼き菓子を奪い合っている。
尽は見たいものだらけだった。
そのたびにティムが青縁札を振る。
寄り道禁止。
市場の東端に、荷改め場があった。
床へ白い区画線が引かれ、荷物を開ける台、重さを量る天秤、液体を採る細管、魔力反応を見る石盤が並ぶ。
グランドーガは先に来ていた。
老人の前で、人間の男と角のある女が怒鳴り合っている。
人間は赤い鳥の紋章を付けた商人。名札の音を、ティムがゆっくり教えた。
エドリク。
角の女は黒角商会の荷主。
ヴェズラ。
言葉は分からなくても、互いを指す回数と、緑粉を示す手つきで内容は想像できた。
エドリクは、ヴェズラの油に毒が混じっていたと言う。
ヴェズラは、エドリク側の倉庫で封が破られたと言う。
たぶん、その程度だ。
正確な内容は分からない。
尽は単語帳へ〈たぶん〉と書き、二重線で囲んだ。
推測を事実の欄へ混ぜないためだ。
荷改め官らしい矮人が、双方の貨物札を台へ置かせる。
赤鳥商会の札。
黒角商会の札。
その下に、同じ青縁の中継札。
工房に運ばれた三本の車軸と同じだ。
ヴェズラが油樽の蓋を開けようとする。
官吏が止める。
先に外側。
封印。
重さ。
底面。
開ければ、開けた後に混入した可能性が増える。調べる順序も証拠の一部なのだ。
尽は思わず頷いた。
言葉が通じなくても、このやり方は分かる。
外側の封蝋は二つとも残っている。
ただし、黒角商会の樽は底に緑粉。赤鳥商会の油缶にも底の片側へ同じ粉。
中身を売った者が毒を入れたなら、容器の底だけに同じ形で付くのは妙だ。
しかも粉は、どちらも進行方向へ向いた縁に多い。
尽は手押し車の車輪を見る。
左輪の外側へ、薄い緑線。
ティムの靴底にも一粒。
「動くな」
尽が日本語で言った直後、指輪が熱を持った。
「ドゥラ!」
今度は現地語が口から出た。
単語一つ。
市場の半分を止めるには足りた。
ティムが片足を上げたまま固まる。
尽は床を指す。
荷改め場の白線と石床の継ぎ目に、緑の粉が筋になっていた。
樽から落ちた粉ではない。
荷物が通る向きに沿って、奥の昇降口まで続いている。
官吏が鐘を二度鳴らす。
門衛が通路を閉じる。市場全体を避難させず、まず白線内と隣の通路だけを封鎖した。
乾いた灰を粉の両側へ撒き、人が踏み広げないようにする。
ヴェズラは緑線を見て、エドリクを指した。
エドリクもヴェズラを指し返す。
声がさらに大きくなる。
ヴェズラの角の根元へ碧い光が集まった。
エドリクの手が腰の短剣へ伸びる。
短剣には封兵の革帯が巻かれている。抜こうとしても柄が一寸しか動かない。
先に動いたのはエドリクだった。
短剣を諦め、ヴェズラの肩を突く。
ヴェズラは拳で殴り返した。
一回ずつ。
門衛は二人とも床へ伏せさせた。
人間だけでも、魔族だけでもない。
エドリクが先だと叫ぶ声。
ヴェズラは正当防衛だと叫んでいるのかもしれない。
門衛は二人の手首へ同じ灰色の紐を掛けた。
荷改め官が禁闘札を示す。
先に争ったか。
殴り返したか。
貨物汚染の責任が誰にあるか。
三つは別々に調べる。
少なくとも、扱いからはそう見えた。
尽は門前でもらった小さな禁闘札を取り出す。
絵の二人が、どちらも鎖を掛けられていた理由が分かった。
中立とは、全員が仲良くすることではない。
嫌いな相手を殴らず、殴られてもその場で判決を下さず、証拠を残して第三者へ渡すことだ。
きれいごとより、ずっと面倒だった。
門衛が二人を連れていったあと、調査は続いた。
グランドーガが尽へ、緑線の先を示す。
歩けるか。
尽は左膝を確かめる。
痛みは三角。
本来なら戻る条件だ。
尽は首を横へ振った。
ティムが一瞬、意外そうな顔をする。
調べたい。
けれど、自分で決めた停止条件を、面白そうだから破れば意味がない。
尽は紙へ足とばつを描き、代わりに緑線、昇降口、採取壺を描く。
自分は戻る。
採取して結果を持ってきてほしい。
グランドーガは短く頷いた。
見学札を付けたばかりの少年が、調査隊の中心になる必要はない。
ティムは尽を治療区へ送ってから、ガルドを連れて昇降口へ戻った。
結果が届いたのは、食事を一度挟んだあとだった。
ガルドは三つの蓋付き壺と、一枚の厚い布片を持ってきた。
布は青い縁取り。
鉱石荷を吊り上げる際、箱と鎖の間へ挟む緩衝布だった。表は青く染められているが、裂けた内側へ緑粉が大量に入り込んでいる。
ティムが絵で経路を示す。
碧暮側から来た鉱石箱。
第三昇降口。
青い緩衝布。
荷改め場。
各商会の荷車。
同じ布が擦れるたび、床と容器の底へ粉が落ちた可能性がある。
ヴェズラの油そのものが原因とは、まだ言えない。
エドリクの倉庫で混入したとも、まだ言えない。
では、緩衝布を誰が用意し、どの鉱石を包み、危険表示をしたか。
そこから先は契約と貨物記録の問題になる。
一枚の布で全部解決したわけではなかった。
ガルドは別の紙へ、粉の反応を描いた。
水で針状結晶。
赤い光では色が薄くなる。
碧い光では変化が少ない。
昨日の爆坑の粉と似ているが、同一と断定する印はない。
採取場所も混ざった物も違う。
尽は単語帳へ、新しい欄を作った。
〈同じに見える〉
〈同じと確認した〉
二つを別の記号にする。
ティムも自分の記録板へ、その記号を写した。
治療区の外では、もう噂が走っていた。
人間商人が魔族の毒を暴いた。
魔族商人が人間の偽装を見破った。
異邦の少年が魔族を庇った。
異邦の少年が人間商会の不正を告発した。
どれも、尽がしたこととは違う。
尽はただ、床の粉を指しただけだ。
事実は一筋の緑線だった。
噂は市場の出口を四つに分かれ、別々の色で走っていく。
言葉を覚える前から、言葉の怖さだけは理解できた。
グランドーガは夕方に戻った。
正確には、この世界に夕方はない。赤光が弱まり、碧光の輪が太くなる作業交代時刻だった。
老人は尽の見学札を外した。
試用期間が一日で終わったのかと思い、尽の胸が沈む。
グランドーガは代わりに、灰色の札へ細い横線を一本刻んだ。
槌一つ。
目一つ。
横線一つ。
ティムが自分、尽、工房、三本の指を順に示す。
三回。
工房へ来い。
その間に判断する。
たぶん、仮の工房試験だった。
賃金らしい小銅貨の絵もある。見学だから無給、というわけではない。ただし治療費と食費の欄も別に刻まれている。
尽には相場が分からない。
分からないまま頷けば、どんな契約になるかも分からない。
彼は札を受け取らず、単語帳を開いた。
銅貨。
食事。
治療。
三つを指し、数字を問う仕草をする。
グランドーガは笑わなかった。
面倒そうに椅子へ座り、石を十二個並べた。
賃金。
食費。
治療費。
材料を壊した場合。
怪我を悪化させた場合。
ティムを通じ、絵と石だけの契約確認が始まった。
弟子入りより先に、労働条件を聞く。
異世界の英雄らしさは、たぶん欠片もない。
それでもグランドーガは、途中で席を立たなかった。
尽も、分かったふりをしなかった。
双曜潮の鐘が鳴る頃、灰色の札には双方の印が付いた。
三回の試用。
危険作業なし。
左膝に三角の痛みが出たら中止。
壊れた品は、持ち主と用途を確認するまで勝手に切らない。
尽が最初に覚えた工房規則は、魔法の使い方ではなかった。
分からないものを、分からないまま扱う方法だった。




