第八十二話 紙の鳥は、止める時ほど拙く鳴く
翌朝、尽が学院の門へ着くと、リゼッタはすでに待っていた。
いつもの赤い発帯。いつもの制服。帽子も眼鏡もない。
ただし、肩から提げた鞄だけが妙に大きかった。
「おはようございます」
「おはよう」
「荷車を見に行くんですか?」
リゼッタは一度まばたきをした。
「なぜ、そう思うの?」
「鞄が大きいからです」
「教材を入れているだけよ」
鞄の口から、縄と折り畳み式の小さな望遠筒、それに乾燥肉の包みが見えていた。
尽は黙った。
リゼッタも黙った。
先に折れたのは彼女だった。
「一人では行かないわ」
「それなら、教授に」
「言う。今から言うつもりだった」
「本当に?」
「尽」
サイラス教授は、四人の話を最後まで聞いた。
紙鳥のことだけは、尽が先に説明した。鬼門国で手に入れた古い式札が、昨日から勝手に反応し、短い伝言を運んだこと。
教授は式札を手に取らず、少し離れた場所から見た。
「式神札は、本来、術者の命令を運ぶ。自分で『一人では駄目だ』などとは言わん」
「僕が、そう思っていたからかもしれません」と尽。
「なら、札がお前の考えを真似た可能性はある」
「それは、もっと怖くないですか?」とペペ。
教授は否定しなかった。
「怖い。だから、札の扱いは今後、私の許可を取れ。無闇に命令するな。何を聞き、何を覚える札なのか、まだ分からん」
尽は頷いた。
「荷車の方は?」
リゼッタが聞く。
教授は机の上の報告書を叩いた。
「北門の衛士に伝えた。今朝、商会から出る荷車を調べる手はずだ。お前たちは学院に残る」
リゼッタの肩が、ほんの少し下がった。
「残るのね」
「残る」
「窓から見ているだけなら」
「残らない」
「北門まで散歩するだけなら」
「それも残らない」
「教授、今日だけ言葉が多いわ」
「お前が今日だけ危なそうだからだ」
結局、四人は実習室で待つことになった。
待つだけでは落ち着かないので、教授は風晶灯の改良案を出せと言った。
「待機は仕事ではない。手を動かせ」
尽は机へ金属板を置いた。
昨日見た商会の灯りを思い出す。風晶の中に黒い筋があった。魔力が抜かれた後の濁りなら、灯りの明るさだけでは見分けられない。
「風晶の状態を、外から見られる道具がほしいです」
ユーノが言った。
「反応を測るなら、一定の風を通して振れ方を見る?」
「風を通すと、普通の傷と魔力の抜けを分けられるかもしれません」
ペペは紙へ小さな箱の絵を描いた。
「風晶をここへ入れて、風を当てる。光が揺れたら悪い、揺れなかったらいい?」
「単純すぎますが、最初はそれでいいと思います」
リゼッタは鞄から、昨日見えた望遠筒をそっと机の下へ押し込んだ。
「なら、検査箱を作るための風晶は私が出すわ」
「今度は二百片ではなくて大丈夫です」と尽。
「十片だけよ」
「それなら、普通です」
「普通でしょう?」
彼女は少し嬉しそうだった。
四人は小さな木箱を作った。
箱の両側に細い穴を開け、片方から一定の風を流す。中の風晶に微かな回転を与え、光の揺れを鏡板へ映す仕組みだ。
尽が風の糸を入れる。
新品の風晶は、淡い光を保った。
旧水路から回収した風晶は、最初は同じように見えた。
だが、十呼吸ほどすると、光の中心に黒い点が浮いた。
ペペが息を呑む。
「見える」
「外からでも分かるんですね」とユーノ。
尽は鏡板の角度を変えた。
「魔力が流れようとして、途中で詰まる。だから光が揺れるんだと思います」
「つまり、あの商会の品は……」
リゼッタの言葉は、途中で止まった。
準備室の扉が勢いよく開いた。
サイラス教授だった。
顔色が悪い。
「北門から報せだ。荷車は、予定時刻より早く出た」
「どこへ?」
「西の旧街道。衛士が追っている」
「旧街道なら、学院の西門から見えます」とペペ。
「だからといって、行くな」
教授は先回りするように言った。
リゼッタは口を閉じた。
その沈黙が、逆に尽を不安にさせる。
彼女はちゃんと待とうとしている。
だからこそ、何かが起きれば無茶をするかもしれない。
その時、机の上の式札が震えた。
教授も、今度は見た。
白紙の端が折れ、昨日と同じ小さな紙鳥になる。
紙鳥は尽の前で一度跳ね、扉の方を向いた。
「何か言え」と教授。
尽は鳥へ顔を近づけた。
「聞こえる?」
紙鳥の嘴が、かすかに開いた。
「――かぞえる。こえ。ひとつ、へった」
部屋の空気が止まった。
「声が減った?」とペペ。
「何の声ですか?」とユーノ。
尽は思い出した。
旧修道院の二階で、紙に出た言葉。
『数える者、二人』
一人は帳簿を持っていた。
もう一人は、風晶から力を抜いていた。
声が一つ減ったとは、あの二人のどちらかがいなくなったのか。
教授はすぐに杖を取った。
「衛士へ追加の連絡を出す。お前たちはここにいろ」
今度の声には、冗談がなかった。
教授が出て行くと、リゼッタは椅子へ座ったまま、鞄の紐を握った。
「待つの、嫌いだわ」
「僕もです」と尽。
「でも、今回は走らない」
「はい」
「走らないけれど、できることはする」
彼女は顔を上げ、検査箱を指した。
「あの箱を、二つ作る。北門と西門へ置けるように。もしまた風晶が運ばれているなら、通す前に見つける」
尽は頷いた。
待つだけではない。
次に誰かが危ない品を持ち込んだ時、見抜けるようにする。
四人は机を二つに分けた。
ペペが木箱を組み、ユーノが鏡板に印を刻む。尽は一定の風を保つための術式を整えた。リゼッタは必要な部品を帳簿へ書き出し、学院の備品庫へ正式な申請を出す。
「今回は、先に許可を取るんですね」と尽。
「当然よ。私は学習する女なの」
「昨日、火力の件は」
「もう言わないで」
その時、窓の外を黒い鳥が横切った。
紙鳥ではない。本物の、小さな夜鳥だ。
けれど尽は、その翼の下に白い紙片が貼りついているのを見た。
鳥は西門の方へ飛び、すぐ建物の影へ消えた。
尽の式札が、机の上で冷たくなった。
紙鳥はもう喋らない。
ただ、白い面に一本の線を描いた。
線は、学院の西門から外へ伸びていた。
リゼッタが立ち上がる。
「教授には報告する」
「はい」
「報告してから、指示を待つ」
「はい」
「……でも、その指示が遅かったら?」
尽は窓の外を見た。
赤い陽の下、黒い鳥はもう見えない。
「その時も、一人では行かないです」
リゼッタは一瞬、何か言い返しかけた。
やがて、口元だけで笑った。
「分かったわ。今度は、本当に」
彼女は大きな鞄から縄を取り出し、机の上へ置いた。
「これは、返す。教材じゃなかったから」
ペペが笑いをこぼした。
「正直でえらい」
「褒め方が子ども扱いなのよ」
そう言いながらも、リゼッタは縄を鞄へ戻さなかった。
尽は式札をそっと帳面へ挟んだ。
紙鳥が伝えた言葉は、短くて不確かだった。それでも、助けを呼ぶために飛んだ時と同じように、誰かを危険から遠ざけようとしているように聞こえた。
「札が何を数えているのか、いつか聞けるでしょうか」
ユーノが小さく言った。
「聞けるようになる前に、こちらが何を聞かせるか決めないと」と尽は答えた。
命令を守りすぎるものに、曖昧な命令を与えてはいけない。
鬼門国で学んだその教訓だけは、忘れたくなかった。
実習室の外で、教授の足音が近づく。
四人は、まだ開かない西門の方を見なかった。
代わりに、次の荷を見抜くための小さな箱を作り続けた。




