第八十一話 印を借りた箱は、持ち主まで白くしない
翌朝、サイラス教授は尽たち四人を準備室へ呼んだ。
机の上には、旧修道院跡から回収された灰色の偽石と、青緑の風晶片、それに王立術具研究会の印が押された小箱が置かれている。衛士が持ち帰った時より数は増えていた。倉庫の床板の下から、まだ十数枚の風晶が見つかったらしい。
「先に言っておく」
教授は窓の鎧戸を閉じた。
「研究会の印があるからといって、レオハルト殿下の関与を意味するわけではない」
リゼッタは椅子の背にもたれたまま、すぐには答えなかった。
「分かっているわ。印は作れるし、借りることもできる」
「なら話は早い。学院長は、証拠を王立術具研究会へ直接渡すことにした。帳簿も、北門の記録もな」
「渡して終わりですか?」
尽が聞くと、教授は短く息を吐いた。
「本来なら、これで学生の仕事は終わりだ。お前たちは目撃者であって、捜査官ではない」
「黒い外套の人は逃げました」とペペ。
「だから衛士が探している」
「風晶から力を抜いていました」とユーノ。
「その件も、術具院の鑑定師に回す」
教授は尽へ視線を向けた。
「お前たちは授業へ戻れ。特に、勝手に旧修道院へ近づくな。次にあそこへ行くなら、泥では済まないかもしれん」
リゼッタが小さく咳払いした。
「昨日の件は、一度だけです」
「一度で十分だ」
準備室を出ると、廊下の窓から赤い陽が差し込んでいた。
尽は袖の内側に指を入れ、式札を確かめる。紙は何も言わない。昨日の紙鳥の足跡だけが、白い面に薄く残っている。
「教授の言う通りにしましょう」
尽が言うと、リゼッタは歩いたまま眉を上げた。
「珍しく、素直なのね」
「危ないからです」
「危ないことと、手を引くことは別でしょう」
「自分たちだけで行くことはしません」
「なら、どうするの?」
尽は少し考えた。
「表から分かることだけ、調べます。荷札と商会のこと。教授に報告する前提で」
リゼッタの口元がわずかに上がった。
「それなら、私に任せて」
「その言い方が一番不安です」
「失礼ね。昨日の私は、手順が少し荒かっただけよ」
「地面が飛びました」
「尽」
昼の休み時間、リゼッタは学院の外套を脱ぎ、落ち着いた茶色の上着へ着替えた。
髪はまとめ、赤い発帯の上から幅広の帽子を被る。角は完全に隠れていた。さらに金縁の眼鏡までかけている。
尽は思わず足を止めた。
「誰ですか」
「リゼ・ノクス。南方の小商会で帳簿を預かっている、二十四歳の補佐役」
「急に年を取りましたね」
「商談では、学生より少し年上の方が舐められないの」
「その声で?」とペペ。
リゼッタは一拍置いた。
「……声は、これから低くするわ」
「無理にしない方がいいと思います」とユーノ。
リゼッタは咳払いをした。
「皆、余計なことを言わないで。私は商談をする。尽たちは、私の遠い親戚の見習いよ」
「親戚、多くないですか?」
「商会には便利なの」
アルド・ヴェイン商会の店舗は、北門近くの古い倉庫街にあった。
看板は新しい。青い風晶を抱えた白い鳥の絵が描かれている。店先には中古の術具、携帯灯、風を起こす小型扇が整然と並んでいた。
外から見る限り、怪しいところはない。
むしろ、安い品を手に取る客で賑わっている。
「普通の店ですね」とペペ。
「普通に見せるために、普通の店をやっているのかもしれないわ」とリゼッタ。
「最初から疑いすぎです」
「帳簿を見る者は、最初から信じすぎないの」
店へ入ると、年配の男がカウンターから顔を上げた。
「いらっしゃいませ。何をお探しで?」
リゼッタは眼鏡の位置を直した。
「小型の風晶灯を、町の宿場へまとめて入れたいのです。百基ほど」
尽は横目で彼女を見た。
また数字が大きい。
男はすぐに笑顔になった。
「百基ですか。それは大口ですね。どうぞ、奥で見積もりを」
「その前に、供給の安定性を確認したいわ。最近は風晶が不足していると聞きましたから」
男の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「心配ありません。当商会は独自の仕入れルートがあります」
「鉱山から直接?」
「ええ、まあ」
「どこの鉱山?」
「北の方です」
「北には、風晶の出る鉱脈は三つしかないわ。白羽邦境の風鳴鉱山、氷風城の共同鉱区、それから小規模な個人坑。どれ?」
男は答えなかった。
リゼッタの声は低くならなかった。
だが、言葉だけは商人のものだった。
「百基を買う前に、仕入れ先も品質保証も知らない客はいないでしょう」
男は少し考え、棚の下から帳面を出した。
「今、店頭にあるのは試供品です。まとまった品は、明日、倉庫から届きます。品質証明もその時に」
尽は、店内の棚を見回した。
風晶灯の一つが、かすかに明滅している。新品ならあり得ない揺れ方だった。
彼が近づくと、袖の式札が冷たくなった。
『同じ形、違う流れ』
昨日と同じ文が、札に浮かぶ。
尽は灯りの風晶へ触れず、反射面だけを覗き込んだ。
内部に細い黒い筋がある。
風晶そのものの傷ではない。何かを抜き取った後に、無理に魔力を流した時の濁りだ。
「この灯り、点検済みですか?」
尽が尋ねると、店主は急に声を硬くした。
「もちろんです。子どもさんは触らないでください」
「触っていません」
「買う気がないなら、お引き取りを」
リゼッタが一歩前へ出た。
「見積もりは?」
「今は出せません」
「さっきは奥で、と言ったでしょう」
「話が変わりました」
「どう変わったの?」
リゼッタの笑顔が消えた。
店主は答えず、カウンターの下で何かを叩いた。
奥の扉が開き、黒い革鎧の男が一人出てきた。
旧修道院で見た二人とは別人だ。
だが、腰の剣と、足音の軽さは同じだった。
「お客様。お帰りを」
男が言う。
尽たちは、店の外へ出た。
リゼッタは店から離れてから、帽子のつばを上げた。
「百基って言ったのに」
「何がですか」
「百基買う客を追い返すなんて、商人として最低よ」
「そこですか?」
「そこもよ」
ユーノが、店の窓を見た。
「明日、倉庫から届くと言っていました。荷車を追えば、仕入れ元へ行けるかもしれません」
「教授へ報告して、衛士に見てもらいましょう」と尽。
「ええ」とリゼッタ。
返事が早すぎた。
尽は彼女を見た。
「本当に?」
「本当よ。私はもう、勝手に突っ込まないと決めたわ」
「昨日、決めてませんでした?」
「昨日は決めていない」
「今日の朝にも同じような」
「尽」
その夜、リゼッタは自室の机に一枚の紙を広げていた。
表には、北門の荷車の時刻、商会の品目、旧水路の風晶の数。裏には、明日届くという荷の予想時刻が書かれている。
彼女は窓の外を見た。
赤い陽はまだ沈まない。雷姆利亚には夜がないが、人には眠る時間が必要だ。
「衛士へ任せる」
小さく言ってみる。
言葉にすると、少しだけ落ち着かなかった。
彼女は父王の前で、何度も自分は強いと言ってきた。
本当に強いなら、一人で解決できるはずだと思っていた。
けれど、昨日は泥を被った。
今日も、店を追い出された。
帳簿を読めても、剣を避けられるわけではない。
火を出せても、全部を燃やしていいわけではない。
「……面倒ね」
彼女は紙を畳み、鍵のかかる引き出しへ入れた。
その直後、窓の隙間から小さな紙鳥が飛び込んできた。
頼りない羽ばたきで机の上へ落ち、二度転がって止まる。
尽の式札だった。
紙鳥は嘴を開き、かすれた声を出した。
「――あした。ひとり、だめ」
リゼッタは固まった。
紙鳥は、そのまま白紙へ戻った。
彼女はしばらく動かなかった。
やがて窓を閉め、机の引き出しから荷札の紙を出した。
「……分かっているわよ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。




