第八十話 泥を被った姫は、帳簿まで汚したくない
旧風水路の件は、翌日には学院中の噂になっていた。
「北の丘で地面が爆発した」
「魔獣が埋まっていた」
「王子の研究会が、裏で風晶を全部買い占めたらしい」
三つ目は事実ではない。
少なくとも、まだ事実とは言えなかった。
けれどレオハルトの研究会が風晶片を押さえた直後に、旧水路の風晶が抜かれている。生徒たちは勝手に線を結び始める。
昼休み、尽は学院図書室の奥にある資料机で、送水装置の古い設計図を広げていた。
紙の鳥になりかけた式札は、帳面の間に挟んである。
鳥の嘴は、朝になっても北門を向いたままだ。
「調べているの?」
ユーノが向かいに座った。
「水路の設計です。抜かれた風晶の数を、だいたい出せるかと思って」
「設計図は、学院の保管庫から借りたの?」
「昨日、教授に頼みました」
「なら、僕も手伝います」
ペペも後から来て、椅子を引いた。
「私、計算は苦手だけど、昔の地図を読むのは好き。宿場町にいた時、荷馬車がどの道を通るか当てるの、よくやったの」
三人で図面を追う。
旧水路に使われた風晶片は、合計で百二十八枚。昨日確認できた交換石の数から見て、少なくとも九十枚は抜かれている。
九十枚あれば、町の灯りを十数基、数か月は回せる。
だが、密かに売るには数が多すぎる。
「一度に運べる重さではありませんね」と尽。
「荷車が必要」とペペ。
「荷車なら、北門を通る」とユーノ。
その時、資料机の上に影が落ちた。
リゼッタだった。
今日は髪をきっちり結い、赤い発帯もまっすぐ巻いている。泥は完全に落ちていたが、靴の縁にだけ薄い茶色が残っている。
「荷札の写しを取ってきたわ」
彼女は紙の束を机へ置いた。
「学院の北門から出た荷車の記録。役所の許可がいると思ったけれど、門番の交替用の茶葉を三か月分、前払いしたら見せてくれた」
尽は紙の束を見た。
「それ、賄賂では?」
「違うわ。休憩環境への投資よ」
「同じ言葉で説明できますか?」
「契約書を作ったから、違う」
確かに、紙の端には門番の署名がある。『記録閲覧への協力に対する茶葉支給』と書かれていた。
ユーノが感心したように息を吐いた。
「合法ですね」
「当然よ」
リゼッタは胸を張った。
「昨日の泥の件で、少しは慎重になったかと思いました」
「私は慎重よ。火力の計算だけが、少し速かったの」
「地面より先に飛びましたけど」
「尽」
彼女の声は低かった。
けれど、机の下で靴先が小さく引かれたのを、尽は見逃さなかった。
荷札には、学院を出入りした物資が細かく記されている。
食料、羊皮紙、薬草、実習用の砂、魔獣の飼料。
風晶という言葉は一度もない。
だが、三日前の深夜に一台だけ、空荷の荷車が北門から出ていた。
行き先は『旧修道院跡の倉庫』。
戻りの記録には、積荷が『石材見本』とある。
「灰色の石ですね」と尽が言った。
「見本にしては、九十箱もあるわ」
「誰の荷車?」
ペペが尋ねる。
リゼッタは荷札の末尾を指で叩いた。
『アルド・ヴェイン商会』
尽は知らない名前だった。
ユーノの表情が少し変わる。
「聞いたことがあります。最近、学院の近くで急に大きくなった商会です。風晶だけじゃなく、術具の中古品も安く買い取っている」
「資金はどこから?」
「分かりません。けれど、元は一人で荷運びをしていた小さな店だったはずです」
リゼッタが黙った。
商いの話をするとき、彼女の顔はいつも少し変わる。怒っているのではない。数字の裏にある人間の動きを見ようとしている顔だ。
「急に大きくなる商会には、二種類ある」と彼女は言った。
「運がいい商会と、誰かの財布を借りた商会。前者なら羨ましい。後者なら、借りた相手の命令がついてくる」
「見に行くんですか」
「まずは、表から」
その日の放課後、四人は学院の制服のまま、北門の外へ出た。
旧修道院跡の倉庫は、街道から少し外れた場所にある。かつて聖職者が旅人へ水を配ったという石造りの建物で、今は壁の半分が崩れ、蔦に覆われていた。
倉庫の前には、灰色の石を積んだ荷車が二台止まっている。
御者は荷札を確認し、若い作業員たちが石箱を運び込んでいた。
「正面から入るのは、無理ですね」とペペ。
「私は商談を申し込めるわ」とリゼッタ。
「何を買うんです?」
「何かしら」
「それは危ないです」
「大丈夫よ。商人は、客を追い返さない」
尽は、昨日の泥まみれの彼女を思い出した。
大丈夫、という言葉だけは信用しない方がいい。
「表へ行く前に、裏を見ましょう」
倉庫の裏手には、崩れた礼拝堂の壁が残っていた。
ペペが石垣の陰から中を覗く。
「箱、開けてる」
四人で息を潜めた。
木箱の中には、灰色の偽石ではなく、青緑の風晶片が並んでいる。作業員は風晶を一枚ずつ取り出し、黒い布に包んだ別の小箱へ移していた。
小箱には、見覚えのある金色の印が押されている。
学院の王立術具研究会の印だった。
尽の胸が重くなる。
「レオハルトの研究会が……」
「印だけ借りた可能性もあるわ」
リゼッタの声は静かだった。
「今の段階で名前を決めるな。商いの印は、信用にも偽装にも使える」
その時、尽の袖の中で式札が震えた。
紙の鳥の嘴が、倉庫の奥を向く。
白い紙の端に、一瞬だけ文字が浮かんだ。
『数える者、二人』
尽は顔を上げた。
倉庫の二階、割れた窓の向こうに人影がある。
一人は帳簿を持っている。
もう一人は、黒い外套を着ていた。
顔は見えない。
だが、その人物の指先から、薄い灰色の光が風晶の箱へ伸びた。
風晶の輝きが、少しずつ鈍っていく。
「あれ、何をしているんでしょう」
ユーノが囁く。
「風晶から魔力を抜いている」とリゼッタ。
「そんなこと、できますか?」
「知らない。けれど、あの顔は良い商売をしている顔じゃない」
黒衣の人物が、急に窓の方を向いた。
四人は一斉に壁の陰へ身を伏せる。
遅かった。
倉庫の横扉が、内側から開いた。
作業員ではない。
黒い革鎧を着た大柄な男が二人、外へ出てくる。
片方が、石垣の方を見た。
「学院の子どもがいるな」
リゼッタが、すっと立ち上がった。
「皆、下がって」
「リゼッタさん」
「大丈夫。今度は、地面を爆発させない」
彼女は指先に火を集めた。
昨夜より小さい。
小さくしようとしているのが分かる。
だが、焦りで魔力が揺れた。
火は掌の上で三度、強く明滅する。
男の一人が笑った。
「子どもの火遊びか」
その言葉に、リゼッタの目が細くなった。
「私を子ども扱いしたこと、後悔させてあげる」
火球が飛ぶ。
狙いは正しかった。男の足元の石畳へ当たり、土煙を上げる。
けれど火力は足りない。
男は外套で顔を覆い、そのまま突っ込んできた。
リゼッタは次の術式を組もうとした。
だが、彼女の前に尽が入った。
「下がってください」
「私は下がらないわ」
「なら、横へ」
尽は彼女の腕を引き、石垣の陰へ寄せた。
男の拳が、さっきまでリゼッタの頭があった場所を通る。
風圧だけで髪が乱れた。
「今のは、避けたわ」
「引っ張りました」
「避ける判断をしたの」
「言いながら、目を閉じていました」
「尽」
怒鳴る余裕が戻ったなら、まだ大丈夫だ。
尽は周囲を見た。
正面に二人。倉庫の中には、もっといるかもしれない。自分たちだけで戦う場面ではない。
彼は袖から式札を出した。
白紙のはずの札は、尽の手の中で小さな鳥の形へ折れ始めている。
「何、それ?」とペペ。
「分かりません。でも、たぶん……走らせるものです」
尽は紙の鳥へ、風の糸を流した。
『北門。サイラス教授へ。倉庫、風晶、危険』
言葉にしながら、彼は心の中で強く形を思い描く。
紙の鳥は、一度だけ羽を震わせた。
そして、空へ飛んだ。
飛び方はひどく頼りない。
酒に酔った鳥のように右へ左へ揺れながら、それでも北門の方へ進んでいく。
リゼッタが見上げた。
「あれが戻らなかったら?」
「その時は、走ります」
「最初から走りなさいよ」
「今は、足止めが必要です」
尽は地面へ手をついた。
風の糸を、石垣の隙間へ通す。昨日の水路で見た空洞。石の下には、乾いた土が残っている。
「ユーノさん、石を。ペペさんは、細い縄を持ってますか」
「あるよ」
「リゼッタさんは……」
「火を小さくする」
彼女は深く息を吐いた。
「今度は、ちゃんと小さくするわ」
男たちが近づく。
尽は、石を二つ並べ、縄を低く張った。
火は要らない。
必要なのは、相手が見落とす高さに、足を取るものを置くことだけだ。
一人目が縄に足をかけた。
転びはしない。だが、体が前へ傾く。
その瞬間、リゼッタの小さな火が石の脇を弾いた。
土が乾き、砂が一斉に舞う。
男は目を押さえ、膝をついた。
二人目が剣を抜く。
尽は後ろへ下がった。
戦うためではない。
時間を稼ぐために。
遠くから、笛の音が聞こえた。
北門の警備笛だ。
紙の鳥は、届いた。
黒衣の人物は二階の窓からそれを聞き、何かを叫んだ。
作業員たちが箱を放り出して散り始める。
黒衣は風晶の小箱だけを抱え、窓の奥へ消えた。
「逃げるわ!」
リゼッタが追おうとする。
尽は、今度は彼女の袖を掴んだ。
「一人では行かないでください」
「でも、あの箱を」
「証拠は残っています。追って罠に入るより、今は教授へ渡しましょう」
リゼッタは悔しそうに倉庫を見た。
それでも、頷いた。
「……分かったわ。今回は、あなたの言う通りにする」
「珍しいですね」
「余計なことを言わないで」
彼女は濡れていない外套の裾を払った。
「次は逃がさない。そのために、帳簿も人手も、先に揃える」
サイラス教授と北門の衛士が到着した時、倉庫には灰色の偽石と、抜き取られた風晶の一部が残されていた。
王立術具研究会の印がある小箱も、いくつか見つかった。
レオハルトの名前は、まだどこにもなかった。
教授は証拠を布で包み、学生たちへ厳しい目を向けた。
「よく無茶をしたな」
「褒められました?」とリゼッタ。
「叱った」
「似たようなものです」
「全然違う」
尽が言うと、彼女は睨んだ。
けれど、その睨み方は昨日より少しだけ軽かった。
帰り道、尽は掌の上に式札を乗せた。
紙は元の白い札へ戻っている。
ただし、端には小さな鳥の足跡のような印が一つ残っていた。
『数える者、二人』
あの言葉の意味を、尽はまだ知らない。
倉庫で帳簿を持っていた者と、風晶から力を抜いていた黒衣。
二人だけではない気がした。
白紙の札は、誰かの命令を待っている。
そして今は、尽の知らない命令を、どこかで聞いている。




