第七十九話 式札は、便利な返事ほど先に疑う
翌朝、尽は誰より少し早く実習室へ入った。
窓を開けると、赤い陽の薄明かりが机の上を斜めに走る。昨夜から帳面に挟んでいた式札を取り出し、白い面を上にして置いた。
端に浮かんだ線は、朝になっても消えていなかった。
墨の線より淡く、蜘蛛の糸より細い。けれど指でこすっても、紙の繊維に染み込んだように動かない。
尽は風の糸を、札の上へそっと流した。
何も起きない。
もう少しだけ力を足す。
札の線が、ぴくりと震えた。
次の瞬間、紙の中央に小さな文字が浮かんだ。
『風道、安定。熱量、過剰。逃がす』
尽は息を止めた。
文字はすぐに薄れ、また白紙に戻った。
「……見間違いじゃない」
彼は帳面へ書き写そうとして、やめた。
鬼門国の役人は、式神は命令を守りすぎるから危ないと言っていた。命令を待つ紙が、勝手に評価を返してきたなら、それはただの式札ではない。
背後で扉が鳴った。
尽は反射的に札を袖へしまう。
「朝から一人で何をしているの?」
リゼッタだった。赤い発帯で小さな角を隠し、両手に紙袋を抱えている。中からは焼き菓子と、見慣れない細い金属管がのぞいていた。
「課題の続きです。リゼッタさんこそ、その荷物は?」
「夜番の人がくれた使用記録よ。飲み物の代金を回収したの」
彼女は得意げに紙を広げた。
一週間分の記録には、風の強さ、結晶の消費、虫が寄ってきた時刻まで書いてある。夜番の字は大きく、ところどころに『明るすぎると眠れない』『雨の日は暖かい風が助かる』と感想まで添えられていた。
「こっちの灯りは、雨の日に評判がいいわ。王子の灯りは、昨日二度も補助晶石を替えたそうよ」
「勝ち負けではないですから」
「それでも、少しくらい悔しがってほしいわ」
「悔しがっていましたよ。たぶん」
「見えなかったけれど」
リゼッタは椅子へ腰を下ろし、紙袋から焼き菓子を一つ取り出した。
「今日は野外実習でしょう。北の旧水路まで行くって聞いたわ」
「風晶を使った送水装置の点検だそうです」
「なら、私も行く」
「同じ授業ですからね」
「違うわ。あの装置が使えれば、乾いた地域で商会の輸送路が増える。水がある場所にだけ町を作る時代は、終わらせられるかもしれない」
尽は少し驚いた。
リゼッタの話はいつも金貨と契約から始まる。だが、その先には人の暮らしがある。彼女が風晶を二百片も買った時も、本当は誰かを黙らせるためではなく、手を止めさせないためだったのだろう。
「それは、いい使い方ですね」
「当然よ。商いは、相手が明日も生きていて初めて続くものだから」
言った直後、彼女は少しだけ目をそらした。
「……別に、褒められたくて言ったわけじゃないわ」
「褒めてないです」
「今の間は何?」
「考えていました」
「余計に腹が立つわね」
午前の鐘が鳴ると、初級術式の学生たちは北門へ集められた。
担当のサイラス教授は、灰色の外套のまま点呼を取り、学院の外へ続く古い街道を指した。
「本日の実習は、旧風水路の点検だ。二十年前、白羽邦の技師団が作った送水装置でな。山の雪解け水を、下の畑まで運ぶためのものだった」
「だった?」とペペが聞く。
「三年前から止まっている。理由は不明。役所は予算がない。商人は利益にならない。誰も直さないまま、畑だけが減った」
教授は生徒たちを見渡した。
「魔法は、派手な火球のためだけにあるわけではない。今日、お前たちは故障を見つけ、直せるところまで直す。できなければ、せめて壊れ方を正しく報告しろ」
レオハルトが、整った外套の襟を直した。
「ただの古い水路でしょう。風術式を通せば済む話では?」
教授は肩をすくめた。
「そう思う者ほど、まず中へ落ちる」
半日ほど歩くと、街道は小さな丘を越えた。
眼下に広がる畑は、ところどころだけ緑が残っている。石で組まれた水路は丘の斜面を蛇のように下り、その脇には風晶を埋め込んだ古い羽根車が並んでいた。
だが、羽根車は一つも回っていない。
水路の途中には、茶色い泥が盛り上がり、何かが詰まったように水をせき止めていた。
「思ったより大きいわね」
リゼッタが腕を組む。
「水路を掘り返すなら、人手が要ると思います」
「必要ないわ。泥なら、熱で乾かして砕けばいい」
「中に風晶が埋まっています」
「壊さない程度に熱を入れる」
「水も残っています」
「蒸気になるだけよ」
尽は少し黙った。
「それが一番、危ない気がします」
「あなたは慎重すぎるの。見ていなさい」
リゼッタは外套の袖をまくった。
彼女の掌に赤い火が生まれる。学院で見せた、制御の荒い火とは違う。温度だけなら、初級の生徒が出せるものではない。
けれど、彼女は火を細く絞るのが苦手だった。
炎は泥の表面をなめ、次の瞬間、地面の下から鈍い音が響いた。
ぼん。
水路の泥が、上へ向かって噴き上がった。
黒い水と藻と、腐った草の匂いが一斉に降ってくる。
学生たちは悲鳴を上げて散った。
尽は咄嗟に風の膜を作った。弱い膜だったが、顔へ飛んでくる泥だけは横へ流せた。
リゼッタは、一番近くにいた。
頭から足まで、見事に泥色になっていた。
赤い発帯だけが、額の上で斜めにずれている。
静かだった。
ペペが口を押さえ、ユーノは視線を逸らした。笑ってはいけないと分かっている顔ほど、笑いを隠せない。
リゼッタは目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。
「……予定通りよ」
「どこがですか」
「詰まりの下に空洞があると分かったでしょう」
「それは分かりました」
「なら成功よ」
泥が頬から落ちた。
「ただし、手順は改善の余地があるわ」
サイラス教授は杖の先で泥をつついた。
「改善の余地で済ませるな。あれは水圧の逃げ場を失わせた。あと少し強ければ、水路の石組みごと飛んでいたぞ」
「石組みは飛んでいません」
「お前の髪飾りが飛んだ」
発帯がずれた拍子に、片方の角が少しだけ見えていた。
リゼッタは無言で発帯を引き下ろした。
尽は、笑わないように唇を噛んだ。
「笑ったら、風術式の課題を百枚写させるわよ」
「笑ってません」
「今、肩が揺れた」
「寒かったんです」
「赤い陽の下で?」
泥を落とした後、尽たちは水路の脇にしゃがみ込んだ。
問題は、ただの土砂崩れではなかった。
水路の底に並ぶ風晶片が、何枚も抜かれている。外された跡には、同じ大きさの灰色の石が雑に詰め込まれていた。
ユーノが一枚を拾い上げる。
「偽物です。見た目だけ似せてある」
「風晶が盗まれた?」とペペ。
「一枚二枚ではありませんね」
尽は水路に沿って歩いた。
羽根車の根元、石組みの影、維持管理用の小屋。そのどこにも、同じ灰色の石が残されている。盗まれた風晶は、少なくとも数十片。しかも外した者は、装置を完全に壊さない程度に知識がある。
袖の中の式札が、かすかに震えた。
尽は誰にも見られないように手を入れた。
札の表面に、今度は二行の文字が出ていた。
『同じ形、違う流れ』
『抜かれたものは、上へ運ばれた』
尽の背筋が冷えた。
上へ。
丘の上には、学院へ戻る街道しかない。
「どうしたの?」
リゼッタが、泥を拭き取った顔でこちらを見る。
尽は札を握った。
まだ、話せることではない。
「風晶を持ち出した人は、下の畑へ売ったんじゃない気がします」
「学院の方へ運んだ、と?」
「たぶん」
リゼッタの目から、さっきまでの照れと怒りが消えた。
「なら、戻ったら帳簿を調べるわ。誰が何を買い、どこへ運んだか。商いは嘘をついても、荷札は案外正直よ」
尽は頷いた。
その日の実習は、水路を直す前に中止になった。
サイラス教授は役所へ報告を出し、学生たちには余計な詮索をするなと言った。
だが、学院へ戻る荷車の上で、リゼッタは泥の残る靴を見下ろしながら、小さく言った。
「詮索するなと言われると、余計に気になるわね」
「危ないかもしれません」
「危ないから、帳簿を見ない理由にはならないでしょう」
尽は返事をしなかった。
彼の袖の中で、白紙の式札がもう一度だけ震えた。
今度は文字が出なかった。
代わりに、札の端が小さな嘴の形に折れた。
紙の鳥は、北門の方角を向いていた。




