第七十七話 九つの階位表に、紙片を揺らす欄はない
補習が始まって三日目、教授エウリスは教室の壁へ大きな階位表を貼った。
最下段から順に、入門、初級、中級、上級、魔導士、大魔導士、賢者、聖賢、滅世。
九つの文字が赤曜の光を受けて並んでいる。
「これは強さの順位表ではない」とエウリスは言った。
「扱える力の範囲と、他者へ及ぼす責任を示す便宜上の基準だ。入門者は自分の身体と身近な物へ働きかける。初級は一つの術を安定させる。中級から、複数の対象や短い戦闘へ対応する」
杖の先で、上の段を順に指す。
「魔導士以上は公的な記録と監督を受ける。大魔導士は都市級の術式を扱い、賢者から先は国の境を越えて影響する。聖賢と滅世は、学院で目指すような階位ではない」
最後の一文だけ、教室が静かになった。
リゼッタは腕を組み、表を見上げる。
「私はどこ?」
「今は初級の上だろう」とエウリス。「火と闇を持っているが、制御を失う癖がある。中級認定を受けるには、出力を半分へ落としても同じ術を繰り返せなければならん」
「半分に落とすくらいなら、二回撃てばいいわ」
「二回撃って壊した風箱の修理費は、誰が払った?」
リゼッタは尽を見た。
尽は首を横へ振る。
「僕ではありません」
「学院会計よ」とエウリス。
リゼッタは少しだけ気まずそうに髪帯を直した。
レオハルトは表の前へ立ち、自然な動作を装って「上級」の文字を指した。
「私の王宮での認定は、上級相当だ。学院の基準にも早く合わせなければね」
周囲から感嘆の声が出る。
エウリスは淡々と言った。
「上級の書類認定は持っている。だが学院では、全員が入門課程から実技を確認する」
レオハルトの笑顔が少し固まる。
身分があっても、教室の風を飛ばすところからやり直しらしい。
「カザマは?」
ダリオが尋ねた。
エウリスは尽の帳面を見た。
「未認定。だが、入門認定の課題へ挑ませる」
尽の前へ、透明な水鉢が置かれた。水面には黒い木の実が三つ浮いている。
課題は単純だった。
水へ触れず、風だけで木の実を左から右へ移す。途中で落とさず、三つとも同じ順序で動かせば合格。
紙片を揺らすより難しい。
水面へ強く風を当てれば、木の実は散る。弱すぎれば動かない。渦を作れば回転してしまう。
「時間は?」と尽。
「砂時計一巡」とエウリス。
「失敗回数は」
「水をこぼさぬ限り、何度でも」
尽は水鉢の縁へ近づいた。
一つ目の木の実を見て、右から左へ吹く風を思い描く。掌を開く。
水面が揺れた。
木の実は動かない。
二度目。風を細くしようとして、今度は水面に小さな穴ができた。木の実がくるりと回り、元へ戻る。
三度目で、力を入れすぎた。
水が机へ溢れ、ペペの靴を濡らした。
「ごめん」と尽。
「大丈夫。俺、予備の靴下ある」
ペペは慣れた様子で答えた。
尽は帳面へ三本線を引く。
最初は不足。
二度目は局所的に強すぎる。
三度目は出口が広すぎた。
風を出す場所だけでなく、逃げる場所も作らなければならない。
水鉢の右側へ、紙で作った小さな衝立を立てる。風が直接木の実へぶつからず、鉢の縁を回って戻るようにする。
「道具を使っていいんですか」とレオハルト。
「課題文には禁止とない」と尽。
「だが魔法の試験だ」
エウリスが片手を上げる。
「術者の杖も、護符も、魔法を安定させる道具だ。何を使うかではなく、自分で働きかけた力を制御できるかを見る」
レオハルトは口を閉じた。
尽は改めて掌をかざす。
左から右へ。
水面を押すのではなく、木の実の背後に小さな空気の壁を置く。
一つ目がゆっくり動いた。
衝立へ近づくと、空気は横へ抜ける。木の実だけが右の印へ止まった。
二つ目。
三つ目。
最後の木の実が印へ着いた時、砂時計の砂はまだ三分の一残っていた。
教室で拍手が起きる。
派手な術ではない。
水もほとんど揺れていない。
エウリスは木札へ「入門」と刻み、尽へ渡した。
「認定は始まりだ。特例の期限も、これで消えるわけではない」
「分かっています」
「次は初級術を一つ、術式として再現できるようになれ」
尽は木札を握った。
入門。
九つの階位では一番下だ。
それでも、昨日までより何をすれば次へ行けるかが分かる。
昼休み、リゼッタは入門札を見て不満そうだった。
「もっと格好いい名前はないの?」
「最初の認定ですから」
「せめて風の工匠とか」
「それは自分で名乗ると恥ずかしいです」
「なら、私が名乗らせる」
「やめてください」
そのやり取りを、少し離れた卓でレオハルトが聞いていた。
彼は自分の上級相当の認定札を机へ置き、周囲の学生へ見せるように指で回す。
風間の入門札を笑う者はいなかった。
それが、王子には少し気に入らなかった。
午後、実習室の管理係が尽へ新しい連絡札を渡した。
〈共同課題・風晶灯の改良。四人一組。五日後、夜間街路の照明を安定させよ。〉
班の名簿には、風間尽、リゼ・ノクス、ペペ、ユーノ。
そして、別の欄には王立術具研究会の名があった。
レオハルトの班も同じ課題を受けるらしい。
リゼッタは連絡札を畳んだ。
「今度は、どの卓を取り上げに来るかしら」
尽は風見筒を握る。
「先に、必要な物を書き出しましょう」
学院では、魔法より先に見積もりが必要になる。
その日の放課後、入門認定を受けた学生だけが残る小さな実習があった。
課題は、先ほどの水鉢を使って「術を止める」ことだった。木の実を動かすより、止める方が難しい。風を出すだけなら、気持ちを強くすればいい。けれど止める時に少しでも遅れれば、水面が荒れ、木の実は壁へぶつかる。
エウリスは学生たちへ言った。
「力を出せる者ほど、止める練習を怠る。だが怪我も事故も、ほとんどは止め損ねた時に起きる」
リゼッタが小さく咳をした。
風箱を吹き飛ばした話を思い出したらしい。
尽は水面へ風を置く。
木の実が動く。
右の印へ着く一歩手前で、掌を閉じる。風の糸は消えたが、慣性で木の実は少し進む。二度目は早すぎて、印まで届かない。
帳面には、開始時刻と停止時刻を砂時計の粒数で書いた。十粒早い。五粒遅い。次は二粒早い。
ユーノが横から覗き込む。
「粒数まで数えているのか」
「同じ条件を作りたいので」
「魔法で?」
「魔法だからです」
七回目で、木の実は印の中央に止まった。
水面も乱れない。
エウリスは何も褒めず、次の学生へ進むよう促した。
それで十分だった。
尽は、魔法を使える者と使えない者の間にある壁が少しだけ低くなった気がした。
強い力を持っていなくても、観察して繰り返せば、次の一歩は踏める。
実習室へ向かう途中、リゼッタが腕を組んだ。
「止める練習って、退屈ね」
「だから必要なんだと思います」
「私なら、最初から当てる」
「当てたあと、何を壊すかまで考えてください」
「あなた、最近よく言い返すわね」
「入門者になったので」
何の関係もなかった。
帳面の余白には、停止成功の印を小さく一つ付けた。




