第七十六話 魔法は、見えない光を思い描くところから始まる
基礎術理の初回授業で、教授は窓を全部開けた。
教室へ赤曜の光が入る。
白い机の上に、細かな埃が浮かんだ。学生たちは眩しそうに目を細める。
教授エウリスは、黒板へ円を一つ描いた。
「魔力は、体の中にだけ溜め込む水ではない」
杖の先から小さな光を出す。
「この世界には、赤曜の光、緑陽の光、地脈の熱、風、生命が放つ微かな揺らぎが満ちている。術者は自分の身体を器にし、周囲の力とつながる」
黒板の円から、三本の線が伸びた。
感知。
想像。
定着。
「まず、何があるかを感じる。次に、それをどう動かすかを明確に思い描く。最後に、形が崩れぬよう意志で留める。初心者が失敗するのは、力が足りないからではない。思い描く形が曖昧だからだ」
尽は黒板を見つめた。
白羽邦で風の流れが見えた感覚。
薯片を食べた時、制御できないほどの力が身体へ流れ込んだ感覚。
一方は少なく、静かだった。
もう一方は多すぎて、出口を求めて暴れた。
どちらも、力そのものより、入口と出口の問題だったのかもしれない。
「教授」と尽は手を挙げた。
教室が振り返る。
特例合格者が質問しただけで、皆が少し期待している。
「周囲の力を取り込むなら、術者の外にある熱や光は、魔法の燃料になりますか」
エウリスは頷いた。
「条件が揃えば。だが、普通の光をそのまま火球へ変えるわけではない。術者の魔力回路は、周囲の揺らぎを自分の属性に合う力へ整える。無理に引き込めば、回路を傷める」
「整えるのは、術式ですか」
「術式と、術者自身の認識だ。だから同じ風術でも、矢を放つ者と、帆を膨らませる者では形が違う」
尽は帳面へ書いた。
〈魔法=周辺エネルギー+身体の回路+具体的なイメージ+維持。〉
数式にすれば、まだ穴だらけだ。
けれど、何を測り、どこを調べればいいかは見え始めた。
授業の後半は、掌へ風の糸を作る練習だった。
学生たちは目を閉じ、呼吸を整える。しばらくすると、あちこちの掌で白い糸のような風が揺れた。
リゼッタの掌には、最初から小さな炎が出た。
「風ですよ」と教授。
「分かっているわ」
炎を消そうとして、今度は黒い煙が出る。
「闇でもありません」
「風が、私を嫌っている」
近くの学生が笑いを堪えた。
尽は掌を開く。
風を作る。
そう思った途端、何もなくなる。
違う。
作るのではない。
窓から入る風を、糸ほどの太さに集める。
手のひらの上に、細い渦を思い描く。空気が回り、外へ逃げず、指の間を抜ける。
最初は失敗した。
髪が一筋揺れただけ。
二度目は、机の上の紙片が動く。
三度目、掌の上で埃が小さな輪を描いた。
風の糸は見えない。
それでも、指先に冷たい感触が残った。
「できました」と尽。
教授が近づく。
「どこだ」
「ここです」
エウリスが掌の上へ羽根を落とす。
羽根が一度だけ浮き、ゆっくり回った。
教室が静かになる。
「弱い。しかし、間違ってはいない」
教授は尽の帳面を覗いた。
「これは何だ」
「風が入る向きと、逃げる向きを書きました」
「術式ではない」
「まだ習っていないので」
エウリスは笑った。
「ならば、今から習え。魔法は奇跡だが、再現できぬ偶然ではない。自分の失敗を記録する者は伸びる」
初めて、風間尽は自分の意思で小さな魔法を使った。
火球でも雷でもない。
紙片一枚を揺らすだけの風だった。
それでも、薯片が起こす暴走とは違う。
自分で始め、自分で止められた。
昼休み、リゼッタは食堂の長机へ料理を並べた。
一人前の昼食。
二人前の肉串。
三人前の果物。
「今日は間食一回でいいんですか」と尽。
「これは勉強した分」
「食べた量は勉強に比例しません」
そこへ、レオハルトが取り巻きを連れて現れた。
彼の盆には、見た目だけ立派な少量の料理が乗っている。周囲の席が空いているのに、わざわざ尽たちの机へ近づいた。
「聞いたよ、カザマ。風の糸を出したらしいね」
「はい」
「初級としては悪くない。だが、魔法は道具遊びではない。実戦では、紙片を揺らしても誰も守れない」
「そうですね」
尽があっさり認めると、レオハルトの方が少し困った。
「だからこそ、君は一般科より工学科へ専念した方がいい。特例の期限に追われるより、身の丈に合った場所で学ぶべきだ」
言い方は親切だった。
周囲の学生には、助言にも聞こえる。
リゼッタが肉串を置いた。
「身の丈に合う場所を決めるのは、本人でしょう」
「君は彼を買いかぶっている。学院には落第者もいる。期待を持たせるのは残酷だ」
「あなたは首席だから、落第する側の気持ちまで想像できるのね」
レオハルトの眉が動く。
尽は止めようとしたが、リゼッタはもう銀貨を取り出していた。
「ちょうどいいわ。一般科の初級補習を、放課後に開いてもらえない?」
食堂の給仕係が近づく。
「学院の補習は、教員の許可が」
「講師の追加手当と、参加者全員の教材費を出す。落第しそうな学生も、首席を目指す学生も使える補習よ。王子の言うとおり、期待だけ持たせて放り出すのは残酷でしょう?」
レオハルトは何も言えなかった。
自分の言葉を、そのまま制度へ変えられたからだ。
給仕係は困惑していたが、近くにいた上級生たちは目を輝かせている。補習の需要はある。だが、教材費も講師手当も足りず、開けないだけだった。
「寄付として処理できますか」とリゼッタ。
「学院会計へ確認します」と給仕係。
「確認が取れるまで、私が立て替える」
レオハルトは外套を翻した。
「好きにするといい。だが、金で努力は買えない」
「知っているわ」とリゼッタ。
「だから時間と教材を買うの」
王子が去ると、ダリオが隣の席から顔を出した。
「あいつ、明日からもっと面倒になるぞ」
「分かっています」と尽。
「でも補習は助かる」とペペ。
「僕も」とユーノ。「風術は苦手だから」
リゼッタは満足そうに果物を一つ取った。
「ほら。役に立ったでしょう」
「お金があれば、何でも解決できるんですか」
「何でもではないわ」
彼女は少しだけ真面目な顔になった。
「でも、誰かが学ぶ時間を増やすことはできる。私が剣で負けた時、皆は手加減して時間を奪った。今度は、違う使い方をする」
尽は返事をしなかった。
リゼッタは少しずつ変わっている。
ただし、その夜、彼女はまた洗濯札を失くした。
補習の準備より先に、尽は女子寮の前で一時間、白い紙を探すことになった。
それでも、翌日の補習には二十人以上が集まった。
尽は教室の隅で、羽根と細い糸を使った風の観察具を作る。学生たちは自分の魔力が弱いと嘆いていたが、窓の開閉、呼吸、机の配置で風の流れは変わった。
「術が失敗したら、何をしたかを書いてください」と尽は言った。
「失敗を?」とペペ。
「次に同じ失敗をしないためです。うまくいった時だけ書くと、何が効いたのか分からなくなります」
リゼッタは配った帳面の代金を会計へ記しながら、横から付け足した。
「帳面をなくした者は、次から自分で買うこと」
それだけで、誰も帳面をなくさなかった。
風の糸はまだ弱い。紙片一枚を揺らす程度だ。
けれど尽は、二度目には一度目より早く、三度目には止める時刻まで自分で選べた。
魔法は大きな力を出す前に、同じ結果を繰り返せるようになる必要がある。




