第七十五話 学生寮では、魔王の娘でも洗濯札を失くす
入学初日、リゼッタは女子寮の前で足を止めた。
男子寮と女子寮は、同じ中庭を挟んで向かい合っている。石造りの建物はどちらも四階建てで、窓からは杖、洗濯物、干し薬草が見えた。
違うのは入口の扉だけだった。
男子寮の扉には青い鍵紋。
女子寮の扉には赤い鍵紋。
そして女子寮の前には、規則を書いた板が十枚も立っている。
「消灯後の火球禁止。廊下での使い魔放飼い禁止。窓からの飛行禁止。寮内決闘禁止……」
リゼッタが読み上げるたび、顔が曇っていく。
「普通の規則です」と尽。
「夜冕城では、窓から飛んでも怒られなかった」
「城の外壁は、落ちても死なないよう作られているんでしょう」
「たぶん」
「学院の窓は違います」
受付の寮母は、リゼッタの髪帯を一度見てから、部屋札を渡した。
「二人部屋、三階。朝食は鐘が二回。消灯は三回。洗濯札はなくさないように」
「洗濯札?」
「札を衣服へ結び、共同洗濯具へ入れる。勝手に洗濯札を使って、自分以外の服を泡まみれにした学生がいるからね」
リゼッタは部屋札より洗濯札をまじまじと見た。
白紙の小さな紙へ、名前と洗い方を書く。
「これも式札?」
「違います。普通の札です」
「なら自分で洗えばいいでしょう」
「学生がそう言うたび、共同洗濯具が詰まるのよ」
寮母は慣れた声で答えた。
尽は男子寮へ入る前に、三連銅管を取り戻しに門の保管所へ寄った。だが、保管役の兵は首を振る。
「学院側の道具検査が終わるまで渡せん」
「送風具です」
「夜穿狼を飛ばしたと報告書にある」
「魔力を込めたのは一度だけです」
「一度で十分だ」
式札も同じ箱へ入れられていた。
工具袋が急に軽くなる。修理用の鋼線と風見筒は残っているが、普段の癖で手を伸ばしては空を掴んだ。
男子寮の部屋は、四人部屋だった。
先に来ていた三人が、尽を見る。
一人は背の高い人族で、火属性の杖を磨いている。名はダリオ。もう一人は丸い耳を持つ獣人の少年で、寝台の下へ菓子を隠していた。名はペペ。最後の一人は眼鏡をかけた精霊族の青年で、机いっぱいに本を積んでいる。名はユーノ。
「特例合格のカザマか」とユーノが言った。
噂が早い。
「そうです」
「火球の答えに、燃料と空気を書いた人?」
「見ました?」
「採点補助の先輩が食堂で話していた。術理としては外れているが、間違いとも言い切れないらしい」
ダリオが杖から目を上げた。
「魔法が使えないのに、一般科へ入ったのか」
「一月以内に一つ覚えないと、資格を取り消されます」
「大変だな」
思ったより普通の反応だった。
ペペは寝台の下から袋を出す。
「元気出せよ。砂糖漬けの木の実、食う?」
尽は反射的に薯片の袋を押さえた。
「大丈夫です」
「俺の菓子、嫌い?」
「好きです。知らない食べ物で力が暴走したことがあるので、今は慎重にしています」
三人の動きが止まった。
「それ、笑っていい話か?」とダリオ。
「たぶん笑わない方がいいです」
同室者たちは、それ以上聞かなかった。
昼のオリエンテーションでは、学院長が長い話をした。魔法は特権ではなく責任であり、他者の生活を便利にする力でもある。無断の決闘、危険な召喚、寮での飛行は慎むこと。
レオハルトは最前列に座り、話の要点ごとに深く頷いていた。
周囲の学生もつられて頷く。
尽は、王子の髪がどの角度からでも崩れない方が気になった。
講話のあと、各自の教室が発表された。
尽は一般魔法科の基礎術理と、魔導工学科の工作基礎を併修する。朝から夕方まで授業が詰まり、昼食の時間が短い。
リゼッタは隣で時間割を見ていた。
「昼が四十分しかない」
「学校ですから」
「夜冕城なら、一時間半は取るわ」
「学院では、昼食後すぐ寝ないからでは」
「誰が寝るのよ」
「昼食を五回に分ける人です」
リゼッタは反論しかけ、やめた。
午後、二人は共同の工作実習室へ行った。尽は道具検査の相談をするため、リゼッタは風晶石の基礎を見たいからだ。
入口には、予約札が並んでいる。
空いている卓は一つだけ。
尽が札へ手を伸ばしたところで、赤い外套が前へ入った。
レオハルトと、彼を囲む四人の学生だった。
「そこは明日から、王立術具研究会が使う」と王子が言う。
「今日も予約が入っていますか」と尽。
「まだだ。だが、使う予定ではある」
「では、今日は空いています」
レオハルトの笑顔が薄くなる。
「君は特例で入った。学院の仕組みを、まだ理解していないようだね」
「予約札の仕組みなら読めます」
リゼッタが隣へ立った。
「使う予定なら、規則どおり先に取ればいいでしょう」
「君は昨日の……リゼ・ノクスだったね。地方では、王族へ礼を払わない文化なのかな」
「夜冕――」
尽が咳払いをした。
リゼッタは髪帯へ手をやり、言葉を飲み込む。
「地方では、先に並んだ人を追い出す方が礼を欠くの」
周囲の学生が遠巻きに見ている。
レオハルトは予約札を取ろうとした。
その前に、リゼッタが受付机へ歩いた。
「実習室を、今月分まとめて予約したいわ」
「規定では、一人につき週二刻までです」と管理係。
「では、夜間実習の維持費を寄付する。照明晶石二十個と、工具の交換費。空いている時間帯を公開して、希望者が無料で使えるようにして」
「寄付で優先予約はできません」
「優先ではなく、公開枠を増やすための維持費よ。私は空いた枠を規定どおり取るだけ」
管理係が計算を始める。
夜間照明が増えれば、実習室の開放時間が二刻延びる。レオハルトの研究会が欲しがっていた卓も、尽たちが使いたい卓も、両方確保できる。
「学院長補佐の承認があれば」と管理係。
リゼッタはすぐに銀貨袋を机へ置いた。
「今から持っていって」
「金で解決した」とダリオが後ろで呟いた。
「皆が使える時間を増やしたのよ」とリゼッタ。
「結果として自分も使える」
「商売では、それを両得と言うわ」
レオハルトは腕を組み、しばらく彼女を見た。
「面白い方法だ。だが、学院は金で席を買う場所ではない」
「あなたは王子の席で先に座ろうとしたでしょう」
返す言葉がない。
王子は外套を翻し、去っていった。
その背中を見送りながら、尽は思う。
リゼッタは問題を解決した。
ただし、王子の自尊心を銀貨袋で叩いた。
次の問題は、たぶん大きくなる。
その夜、リゼッタは女子寮へ戻る途中で洗濯札を失くした。
食堂、廊下、実習室を一緒に探し回ることになった尽は、昼間の勝利を少しだけ後悔した。
結局、札はリゼッタの髪帯の内側から出てきた。
角を隠すための綿布へ挟まり、本人も気づかず持ち歩いていたらしい。
「見つかったなら、よかったでしょう」
「一時間探しました」
「次からは髪帯を先に確認するわ」
「次がある前提なんですね」
翌朝、男子寮の洗面所で尽が顔を洗っていると、ペペが寝ぼけたまま入ってきた。手には、なぜか女子寮の洗濯札が一枚ある。
「これ、リゼのじゃない?」
尽は札を見た。昨日と同じ字で、〈火に弱い。湯温注意。〉と書かれている。
リゼッタは同じ札を二枚なくしていた。
学院生活は、魔法より先に洗濯から難しかった。




