第七十二話 風の祝福は、使い方まで教えてくれない
白い冷気が地面を這った。
逃げ遅れた住民までの距離は、二十歩もない。
リゼッタが前へ出る。
「炎壁!」
剣を地面へ突き立てると、赤黒い炎が左右へ走った。冷気とぶつかり、蒸気が噴き上がる。
炎は三呼吸しか持たなかった。
氷甲犀の冷気は止まらない。
カルナも火の術を重ねる。ロウは風矢で冷気の流れを散らそうとした。わずかに向きが変わるが、押し返せない。
尽は飛行場の風晶石を見た。
一つでは弱い。
翼の姿勢を整える補助具だから、強風を出すようには作られていない。
それでも、数はある。
「晶石を全部、持ってきてください!」
隊長が振り向く。
「飛行場の備蓄だぞ!」
「町が凍れば、飛行場だけ残してどうするんですか!」
若い戦士たちが倉庫へ飛び込んだ。
風晶石を網へ入れ、次々に運ぶ。尽は竹骨で大きな筒を作り、内側へ晶石を円形に並べた。前に使った三連銅管と同じ考えだ。風を作るのではなく、ばらばらの流れを一方向へ揃える。
「起動できる者が必要です」
「私がやるわ!」
リゼッタの声は蒸気の向こうから聞こえた。
炎壁を保つだけで、顔色が悪い。
「今離れたら、冷気が来るでしょう!」
「でもほかに――」
隊長が筒の後ろへ立った。
「俺がやる」
彼は飾りのない槍を地面へ刺し、両手を風晶石へ当てる。
「白羽の風使いを、飾りだけだと思うな」
「思われたくなければ、風を一度に入れないでください。右、左、上、下の順で、少しずつ」
「注文が多い!」
「筒が割れたら全員に刺さります!」
隊長は言われたとおりに魔力を流した。
竹筒の内側で風が回る。
最初の晶石が淡く光り、対面の石へ流れを渡す。四つ、八つ、十二。別々だった風が中央へ集まった。
尽は筒を支える綱を引いた。
角度を冷気より少し上へ向ける。
正面から押し返せば、行き場を失った冷気が左右へ広がる。上へ逃がした方がいい。
「今です!」
風の柱が放たれた。
炎壁へ溜まっていた蒸気ごと、冷気が空へ巻き上げられる。赤曜の下に白い雲が生まれた。
住民が歓声を上げる。
氷甲犀は怒り、地面を蹴った。
頭を下げ、こちらへ突進する。
風筒は固定されている。向きを変える時間はない。
「散開!」
隊長の声で戦士たちが四方へ飛んだ。
リゼッタは逃げず、氷甲犀を見ている。
「何をしているんです!」
「足元を見て!」
獣が踏み壊した用水路から、水が流れ続けている。冷気で凍った地面は、町の入口から飛行場まで一枚の氷板になっていた。
尽は意味を理解した。
「全員、上へ!」
羽族が一斉に飛び上がる。
リゼッタもカルナに抱えられ、地面を離れた。
氷甲犀は止まろうと前脚を踏ん張った。
爪が氷を引っかく。
巨体の勢いは消えない。
そのまま風筒の横を通り過ぎ、飛行場の端へ滑っていく。
先には、貨物を引き上げるための大きな網が張られていた。
「網を落とせ!」
隊長が命じる。
留め具が外れ、厚い縄網が氷甲犀へかぶさった。獣は角を振るが、扇形の角へ縄が絡み、前が見えなくなる。
白羽の戦士たちは四人一組で降下した。
一人が風で網を押さえ、二人が左右の杭へ縄を運ぶ。最後の一人が獣の足元へ麻痺槍を打ち込む。
誰も飾りを付けていない。
飛び方は不揃いだった。
それでも、互いの進路を塞がず、一度で役目を終えた。
氷甲犀の動きが鈍る。
リゼッタが地上へ降りた。
剣を抜く。
尽は止めようとしたが、彼女は獣の首を狙わなかった。後脚へ食い込んでいた黒い杭を斬る。
金属片が飛んだ。
杭には鎖の切れ端が付いている。
誰かが氷甲犀を捕らえ、無理に運ぼうとした跡だった。
傷口が化膿し、痛みで暴れていたのだ。
「また、誰かに利用された獣ね」
夜牙領の影喰いと同じだった。
隊長が風を弱め、獣の呼吸を助ける。治療師たちが杭の傷へ薬を塗った。氷甲犀はしばらく暴れたが、痛みが引くと網の中で伏せた。
町を壊した魔獣は、その場で殺されなかった。
氷山へ戻すまで、飛行場の外で保護されることになった。
夕刻に相当する砂時計の時刻、白羽邦の中央広場で臨時の集会が開かれた。
救助された者、落下した迎撃隊、飛行場の職人が集まる。隊長は金の羽飾りを付けず、皆の前へ立った。
「今日、我々は外から来た者に町を救われた」
群衆がざわめく。
「違うわ」とリゼッタが口を挟んだ。「最後に獣を止めたのは、あなたたちでしょう」
隊長は苦笑した。
「では、戦い方を変えるきっかけをもらった。どちらにせよ、認めねばならん。我々は美しく飛ぶことを、強く飛ぶことだと思い込んでいた」
若い戦士が、自分の翼から長い房紐を外す。
別の一人も続いた。
飾りをすべて捨てる必要はない。祭りや儀式では、白羽の文化として残せばいい。ただ、戦場で風を乱し、仲間の翼へ絡む飾りは命を奪う。
それを分けるところから始める。
尽は飛行隊の訓練表を作った。
四人一組。
役割は先導、援護、救助、観測。
同じ軌道を飛ばず、互いに逃げ道を一つ残す。華麗な隊列を作る訓練より、途中で一人が落ちた時に残る三人がどう動くかを繰り返す。
隊長は紙を見て眉を寄せた。
「地味だな」
「生きて戻れば、次の祭りで派手に飛べます」
「それもそうか」
リゼッタは横から訓練表を取り、下へ一行付け足した。
〈飾りを減らして余った材料は、飛行具の補修布として買い取る。〉
「捨てるだけでは損でしょう」
翌日、白羽の長が尽たちを風祀りの塔へ招いた。
塔の最上階には壁がない。赤曜から吹く暖かな風と、氷山から降りる冷たい風が交わっている。
中央へ、透明な羽根の形をした結晶が浮かんでいた。
「白羽邦を救った者へ、風の祝福を授ける」
長が杖を振る。
風がリゼッタ、カルナ、ロウの周囲を回った。最後に尽へ触れる。
胸元の指輪が熱を持った。
尽の視界へ、無数の細い流れが一瞬だけ浮かぶ。
赤曜の光から地面へ降りる熱。
翼の上下で速さを変える空気。
人の身体を巡り、指先へ集まろうとする何か。
手を伸ばせば掴めそうだった。
尽は無意識に掌を開いた。
何も起きない。
風は指の間を抜けただけだ。
「失敗?」とリゼッタ。
白羽の長は首を振った。
「祝福は根を下ろした。だが、この者は魔力を動かす道を知らぬ。種を得ても、育て方までは身につかん」
「では、どうすれば」
「学べ。ソラヴェインの魔法学院なら、種から芽を出す方法を教えるだろう」
尽はもう一度、掌を見る。
薯片を食べた時の力は、洪水のように身体へ流れ込んだ。今触れた風は、その力よりはるかに細く、静かだった。
存在することと、扱えることは違う。
道具なら、構造を調べ、力の入口と出口を探せる。
自分の身体も同じなのかもしれない。
「魔法学院へ行きます」
尽が言うと、リゼッタは当然のようにうなずいた。
「私も行くわ」
「夜冕城へ帰る期限は?」
「白羽邦から父上へ報告書を送る。調査継続が必要と書けばいい」
「何を調査するんですか」
彼女は氷甲犀から外した黒い杭を持ち上げた。
杭の根元には、削り取られた工房印が残っている。完全には消えておらず、三本の釘のような線が見えた。
鬼門国で見た偽造印と似ていた。
「夜牙の塩、鬼門の偽造工具、白羽の氷甲犀。偶然が三つも続くと思う?」
尽は答えなかった。
ボルド一人の密輸で、すべてを説明できるとは限らない。
ただし、今は証拠が足りない。
「学院には各国の学生が集まるわ。道具の出所も調べやすい」
「本音は?」
「魔法を学べば、もっと強くなれる」
そちらが九割だろう。
白羽邦を出る朝、飛行隊は飾りのない実戦装備で見送ってくれた。空へ上がると四人一組に分かれ、一人が乱れたふりをする。残る三人がすぐ配置を変え、落下役を挟んだ。
美しさは前より少ない。
安心して見ていられる飛び方だった。
街道の先には、人族最大の都市ソラヴェインがある。
尽は学生鞄ではなく、工具袋を背負って歩き出した。
異世界へ落ちてから、初めて学校へ向かう。
入学試験があることを知ったのは、門まであと三日の宿場だった。




