第七十話 式神は命令を守りすぎると、町ごと燃やす
鐘無し谷には、本当に鐘がなかった。
谷へ並ぶ七つの工房は、火事の時も音を鳴らさない。高温の炉を扱うため、音に反応する火精が集まるからだという。警報はすべて式札が担っていた。
その式札が、今は空を埋め尽くしている。
白い群れが谷底の第三炉へ吸い込まれていた。
札喰い炉は、石造りの円塔だった。頂上の煙突から黒い墨煙が噴き出し、入口では二体の紙人形が役人を殴り飛ばしている。
紙でできているのに、人より大きい。
何百枚もの式札が重なり、腕と脚を形作っていた。
「燃やせばいいでしょう!」
リゼッタが火球を放つ。
紙人形の胸へ当たり、表面の札が燃えた。
次の瞬間、空から新しい札が貼りつき、穴を塞ぐ。
「町中から補充される!」と鬼門の役人。
「先に炉を止めます!」
尽は円塔の裏へ回った。
炉の壁には、命令墨を分解するための導管が六本伸びている。本来は不要になった札だけを入口へ入れ、内側の火で墨を飛ばす仕組みだ。ところが今は、煙突の周囲に巨大な吸引術式が展開され、外にある札まで引き寄せている。
術式は読めない。
それでも、空気の流れなら分かる。
風見筒の布羽が煙突へ真っ直ぐ向いた。
炉が燃焼用の空気を吸う力を、誰かが増幅している。
「吸い込みを止めるには?」
追いついたリゼッタが聞いた。
「煙突を塞ぐ」
「爆発するわよ」
「分かっています。だから先に火を弱めます」
「どうやって」
尽は六本の導管を見る。三本は空気を入れ、二本は燃料油を送り、残る一本は墨を回収する管だった。
札が増えるほど命令墨が炉へ入り、その墨まで燃料になる。火が強まり、吸引力が増し、さらに多くの札を呼ぶ。
止まらない循環だ。
「油を止めても、墨が燃え続けます。回収管を先に外へ逃がす」
導管の留め具へ工具を掛ける。
熱くて触れない。
リゼッタが手を伸ばした。
「冷やすわ」
「氷魔法を使えますか」
「火と闇が得意よ」
「逆ですね」
「悪かったわね」
彼女は闇の膜を作り、尽の手と管の間へ挟んだ。熱を完全には遮れない。それでも、布を何重にも巻くよりましだった。
尽が留め具を回す間、紙人形の一体がこちらへ向く。
カルナが斬りつけ、ロウの矢が膝の札を散らす。ミゼルたちも加わるが、倒してもすぐ新しい紙が貼りついた。
「急げ!」
「熱で膨らんでいます!」
尽は前に通信器の歯車を外した時と同じ方法を使った。軸へ冷たい水を一滴ずつ垂らし、外側の留め輪は熱いままにする。
金属の縮み方に差が出る。
固着していた輪が動いた。
回収管を外すと、黒い液が噴き出した。地面へ触れた途端、液は「運べ」「守れ」「焼け」という無数の声を上げる。
尽の背筋が冷えた。
墨に命令が残っている。
文字を焼き落とすだけで、命令そのものは消えていなかった。
「容器!」
リゼッタが叫ぶ。
「普通の瓶では動き出します!」と役人。
鋳爪組の親方が、工房から鉄桶を転がしてきた。
「こいつへ入れろ! 内側に静字を打ってある!」
管を桶へ向ける。
黒い命令墨が溜まり始めた。炉の火が少しずつ弱まる。
空を飛ぶ札の速度も落ちた。
「次は空気管です。三本を同時に閉じる」
「同時?」
「一本ずつ閉じると、残った管へ吸い込みが集中します」
尽、リゼッタ、親方が一本ずつ受け持つ。
合図に合わせて弁を回した。
リゼッタの弁だけ動かない。
「固い!」
「押すんじゃなく、最初に少し引いて!」
「最初に言いなさい!」
「今、言いました!」
彼女は歯を食いしばり、弁を手前へ引いた。噛んでいた爪が外れる。三つの弁が閉じた。
炉の唸りが低くなる。
煙突へ向かっていた札が力を失い、雪のように落ち始めた。
紙人形も崩れる。
その中から、縄で縛られた老人が転がり出た。
古物屋の半兵衛だった。
口へ封札を貼られ、腰には鍵が結ばれている。
ミゼルが封札を剥がすと、老人は咳き込みながら第三炉を指した。
「中だ……ボルドの手下が、証拠を燃やしてる」
リゼッタが剣を抜く。
炉の横扉が開き、黒装束の男が二人飛び出した。顔には鬼面。手には、月脈塩を混ぜた青白い短刀を持っている。
一人が影へ沈んだ。
次の瞬間、リゼッタの背後から刃が出る。
夜牙領で見た影渡りだ。
彼女は振り返らなかった。
「右後ろ!」
風見筒を見ていた尽の声に合わせ、剣を逆手で背後へ回す。
火花が散った。
月脈塩の刃が実体へ戻る。
リゼッタは身体を沈め、相手の足を払った。男が倒れる。追撃しようとして、一度止まった。
罠かもしれない。
もう一人の男が正面から短刀を投げる。
カルナが弾いた。
止まった判断が、背後への隙を作らなかった。
リゼッタは倒れた男の手首を踏み、剣先を喉へ向ける。
「動けば斬る」
声は震えていなかった。
二人目はミゼルとロウに挟まれ、逃げ場を失った。影へ入ろうとしても、床一面へ落ちた白い式札が光を反し、濃い影がない。
降伏した。
炉の中からは、燃えかけた取引記録と月脈塩の箱が出てきた。記録にあった受取人は半兵衛ではない。彼の店名を勝手に使い、偽の採掘具を置かせた者がいる。
捕らえた男たちは、ボルドから金を受け取ったことを認めた。
塩は鬼門国内の複数の闇工房へ小分けにする予定だったという。工房の名までは知らされていない。取引のたびに式札が指示を運び、依頼人の顔を見た者はいなかった。
ボルド本人は、すでに東の街道へ逃げていた。
「追いますか」とカルナ。
リゼッタは燃え残った紙を見た。
今追えば、王女の身分を隠したまま、他国の奥へ踏み込むことになる。夜牙領の調査期限も過ぎる。
「鬼門の役人へ任せるわ。写しだけもらう」
尽は彼女を見た。
「追いかけると言うと思いました」
「私も、さっきまでそう思っていた。でも、知らない土地で勝手に動けば、また罠へ落ちるでしょう」
「成長しましたね」
「上から言わないで」
事件の当面の受取人は捕まり、半兵衛も救出された。月脈塩は夜牙領へ返される。ボルドの追跡は鬼門の役所が正式に引き継ぎ、国境へ手配札を出した。
より大きな買い手がいる疑いは残る。
ただ、それは今の尽たちだけで追える相手ではなかった。
鋳爪組の親方は礼として、尽へ未使用の式札を一枚くれた。
「命令は一つだけ書ける。墨へ魔力を混ぜ、動かしたい形を頭で思え」
尽は白紙を持った。
指先が震える。
初めて触れたはずなのに、筆を置く場所が分かる。札の上端は命令、中央は対象、下端は止める条件を書く。
頭の中へ、誰かの声が浮かんだ。
――見るだけで分かった気になるな。術は、止め方から覚えろ。
男の声だった。
名前も顔も出てこない。
次の瞬間には消えた。
「ジン?」
リゼッタが顔を覗き込む。
「誰かに、教わった気がします」
「氷風城の親方?」
「違います。もっと前に」
それ以上は思い出せなかった。
思い出そうとすると、頭の奥に白い霧が掛かる。
尽は式札を工具袋へしまった。
記憶はない。
けれど、懐かしさだけは残った。
鬼門の役所から、山越えの翼竜便が出ることになった。事件解決への協力報酬として、白羽邦までの搭乗札が用意されたのだ。
翌朝、尽たちは鈴鋳町の飛行場へ向かった。
翼竜は思っていたより大きい。革張りの客籠を背負い、翼を広げれば小さな家ほどの幅がある。
リゼッタは平然と乗り込んだ。
尽が続こうとすると、彼女の手が手すりを強く握っているのが見えた。
「怖いんですか」
「まさか」
「手が白くなっています」
「寒いだけよ」
まだ飛んでいない。
翼竜が走り出す。
鈴鋳町の屋根が低くなり、黒い山々が眼下へ沈んだ。前方には、世界を一周する氷の山脈が白い壁となってそびえている。
その向こうから、赤い光が差していた。
緑陽の領域と赤曜の領域を分ける空は、黒から紫、青白、橙へゆっくり色を変えている。境目は線ではない。幾重もの雲と氷原が、二つの光を混ぜていた。
翼竜が上昇気流へ乗る。
客籠が大きく傾いた。
リゼッタは無言で、尽の腕を掴んだ。
「怖くないんですよね」
「風で落ちないように固定しているだけ」
「僕を固定具にしないでください」
氷峰を越えた瞬間、赤い太陽が正面へ現れた。
尽の制服へ、初めて暖かな赤曜の光が落ちる。
遠くに白い塔の町が見えた。
塔の間を、翼を持つ人々が飛んでいる。
どの翼も美しく飾られ、空中で円を描き、互いの姿を競っていた。
そのさらに北では、氷壁を砕いて巨大な獣が町へ近づいている。
華麗に舞う者たちは、まだ誰も気づいていなかった。
白羽邦は美しい国だった。
そして、美しさへ夢中になりすぎていた。




