第六十八話 命懸けの近道には、たいてい落とし穴がある
祭場の北脈は、砦から歩いて半日ほどの谷にあった。
岩壁へ開いた横穴の入口に、牙を模した石柱が二本立っている。柱の間には青白い縄が渡され、外から来た者の立ち入りを禁じていた。
サーヤはミゼルと若い斥候二人を案内役に付けた。
リゼッタ側は、尽、カルナ、ロウの四人。
見えないシグを加えれば八人だが、数えている者はいない。
「塩を採るだけの洞窟にしては、警戒が厳しいわね」
リゼッタが縄を見た。
ミゼルは石柱へ手を当てる。
「月脈塩は、地下を流れる光が百年かけて固まった物だ。掘りすぎれば谷の夜穿狼が影へ潜れなくなる。必要な分しか採らん」
王都では高値で売れる軍用素材でも、夜牙族にとっては土地の一部だった。
尽は入口の地面へしゃがんだ。
荷車の轍が二本、洞窟の中へ続いている。祭場へ車を入れない決まりなら、密輸者が残した跡だ。
轍の片側だけが深い。
「帰りの方が重い」
「どちらが帰りだと分かる?」とミゼル。
「車輪の前へ土が押されています。外へ向かう跡の方が深い。かなり運び出しています」
リゼッタが指で幅を測った。
「王都の二輪荷車と同じくらい。積載限界まで塩を載せたなら、一台で二十石前後ね」
「轍は何台分だ」
「同じ幅を重ねている。回数までは分からない」
尽は壁へ残った擦り傷を見る。
高さが少しずつ違う。車体が重ければ、軸が沈んで荷台も低くなる。
傷は五段あった。
「少なくとも五回です」
ミゼルの耳が伏せられた。
百石近い月脈塩が外へ流れた可能性がある。
洞窟へ入ると、青白い光が足元から浮かび上がった。塩の筋が岩を縫い、遠くまで続いている。灯りは要らない。その代わり、どの壁にも自分たちの影が幾重にも映った。
夜穿狼なら、そのどれへも潜れるのだろう。
しばらく進むと、道が三つに分かれた。
中央の轍は途中で消えている。左右には同じ車輪跡が続く。
「偽装だ」とロウが言った。「枝を車輪の形に組み、引きずった」
ミゼルは鼻を利かせたが、洞窟全体に塩の匂いが満ち、判別できない。
尽は風見筒を取り出した。
左の道では布羽が動かない。
右は弱く外へ流れる。
中央だけ、奥へ吸われていた。
「荷車を入れたなら、人と獣が呼吸します。閉じた道では長く作業できない。外へ繋がる空気の流れが必要です」
「右か」とミゼル。
「たぶん」
「たぶん?」
「風穴だけあって、行き止まりかもしれません」
リゼッタが先へ進む。
「外れたら戻ればいいわ」
「先頭へ出ない約束でしょう」
「考える時間がもったいないの」
「落とし穴がある時、最初に落ちますよ」
足元で音がした。
石板が沈む。
リゼッタの姿が消えた。
尽は反射的に腕を伸ばし、外套の端を掴んだ。自分まで穴へ引かれ、カルナが背中の帯を掴む。三人が一本の縄のように繋がった。
穴の底から、リゼッタの声がする。
「だから先に言いなさい!」
「言い終わる前に落ちたでしょう!」
ミゼルたちが二人を引き上げた。
穴は深くない。ただし底に、眠り粉を吹く茸が植えられていた。密輸者が追跡を避けるため作った罠らしい。
「四つ目の条件」と尽。
リゼッタは髪についた土を払いながら目を逸らした。
「覚えているわ」
今度はロウが罠を調べ、全員で右の道を進んだ。
風は次第に強くなる。
やがて広い採掘場へ出た。
壁の塩脈が大きく削られ、木箱が十数個積まれている。失踪した隊商の荷札もあった。人の姿はない。
代わりに、採掘場の中央で巨大な影が動いた。
六本脚の獣が立ち上がる。
頭は狼に似ているが、背中から黒い結晶柱が伸び、胸元には鎖が食い込んでいた。鎖の先は採掘用の巻き上げ機へ繋がっている。
「影喰いだ」とミゼル。「本来は谷の奥から出ない」
獣の目は濁り、口元から白い泡が垂れている。
足元には砕いた月脈塩が山積みになっていた。
「塩を食べさせたのね」とリゼッタ。
影を渡る魔獣へ大量の月脈塩を与え、坑道の番犬にしたのだろう。だが、必要以上の力を取り込み、正気を失っている。
影喰いが鎖を引いた。
巻き上げ機が根元から外れ、こちらへ飛んでくる。
全員が左右へ散った。
木枠が砕け、車輪が壁へ突き刺さる。
ミゼルとロウが矢を放つ。影喰いは身体を霧へ変えた。矢は通り抜ける。
夜穿狼と同じ能力。
ただし、霧のまま六本の脚が別々の影へ伸びる。
次にどこから実体化するか読めない。
「塩を食べているなら、影渡りの間隔も短い!」
カルナがリゼッタを守る位置へ入る。
「下がってください!」
「嫌よ」
「殿下!」
「リゼよ!」
今さらだった。
影喰いの前脚が壁から現れる。リゼッタは剣で受けた。身体ごと吹き飛ばされるが、今度は剣を離さない。
床を転がり、すぐに起き上がる。
唇が切れていた。
誰も手加減してくれない一撃だった。
彼女は笑った。
「やっと、本物ね」
無鉄砲だが、昨日とは違う。獣を追わず、カルナの隣へ戻る。
尽は採掘場を見回した。
影喰いを傷つけても、霧へ逃げられる。月脈塩が力の源なら、吐き出させるしかない。
前に薯片の魔力を銅管へ流した時、空気の塊が出た。
同じ物をもう一度使えば、自分が半日動けなくなる。残りも少ない。
ここにある力を使う方がいい。
壁には採掘用の風晶石が埋め込まれ、削った粉を外へ飛ばす送風路へ繋がっている。巻き上げ機が壊れたせいで止まっているが、羽根車は残っていた。
「リゼッタ! あの獣を中央へ誘えますか」
「命令しないで!」
「できますか!」
「できるわ!」
返事だけは早い。
尽とロウが送風路へ走る。外れた軸を拾い、羽根車へ戻す。動力用の風晶石はひび割れていた。
尽は三連銅管を繋いだ。
薯片は食べない。
晶石の残った力を管へ通し、流れの向きだけを絞る。
「起動には魔力がいる」とロウ。
「僕には出せません」
「なら、どうする」
「出せる人を呼びます」
採掘場の中央で、リゼッタが炎の斬撃を放つ。影喰いは霧になり、背後へ回る。カルナが盾代わりに剣を合わせ、ミゼルが鎖を獣の後脚へ絡めた。
「今!」
リゼッタが走ってくる。
尽はひび割れた晶石を示した。
「ここへ少しずつ魔力を」
「少しって、どのくらい」
「羽根が回るまで」
「目盛りは?」
「ありません」
「次までに付けなさい!」
彼女が掌を晶石へ当てる。
風が動いた。
最初は弱く、次第に唸りを上げる。尽は風見筒で流量を確かめ、銅管の角度を変えた。
影喰いが再び霧へ変わる。
「中央の塩山へ向けて!」
圧縮された風が噴き出した。
月脈塩の粉が白い煙となって舞い上がる。影喰いの霧へまとわりつき、輪郭を青白く染めた。
姿が見える。
しかも、塩を浴びすぎた影は重くなり、床へ沈み始めた。
「撃て!」
ミゼルの矢が鎖の留め具を砕く。
カルナが胸元の金具を斬る。
リゼッタは獣へ向かわず、積まれていた塩箱を剣の腹で押し倒した。中身が送風路へ吸われ、さらに濃い塩煙が影喰いを包む。
獣は実体へ戻った。
口を大きく開き、飲み込んでいた月脈塩を吐き出す。
青白い塊が床へ転がった。
濁っていた目に、黒い光が戻る。
影喰いは倒れたまま、唸り声を上げた。
ミゼルがゆっくり近づき、額へ手を置く。夜牙の言葉で短い歌を口ずさむと、六本の脚から力が抜けた。
眠っただけだった。
誰も命を落とさなかった。
リゼッタは剣を下ろし、自分の切れた唇へ触れた。
「勝った?」
「皆でな」とミゼル。
「私の剣で倒してはいないわ」
「倒すだけが勝ちなら、あの獣を殺すしかなかった」
ミゼルは吐き出された塩を蹴った。
「お前が塩箱を崩さなければ、煙が足りなかった。十分だ」
リゼッタは何も言わなかった。
褒められることには慣れていたはずだ。
けれど、今までの褒め言葉と違い、どの動きが役に立ったかを初めて教えられた。
耳まで赤くなっている。
「それなら、まあ……悪くなかったわね」
声は小さかった。
採掘場の奥で、失踪していた隊商の者たちも見つかった。眠り茸の胞子を吸わされ、岩室へ閉じ込められていたが、全員生きている。密輸者たちは彼らの荷車を奪い、次の運搬へ使うつもりだったらしい。
壁には鬼門国の工房印が刻まれた採掘具が残されていた。
ボルドが鬼門へ向かったという証言とも一致する。
夜牙領の事件は解決した。
だが、百石近い月脈塩の行方は分からない。
サーヤは約束どおり通行許可と山道の案内札を渡した。さらに、回復した夜穿狼の一頭を境まで同行させるという。
「次は鬼門国ね」とリゼッタ。
尽は嫌な予感を覚えた。
「僕は赤曜側へ行くつもりです」
「鬼門国を抜ける方が近いわ」
「密輸事件を追うつもりでしょう」
「ついでよ」
「どちらがついでですか」
リゼッタは答えなかった。
その顔を見れば、答えは分かった。
夜牙領で初めて本当の勝利を知った姫君は、もう城へ戻る気を半分ほど失っていた。
残り半分も、鬼門国へ着く頃にはなくなりそうだった。




