第六十七話 王女の名が使えない裁きでは、帳簿が剣になる
夜牙族の女戦士は、名をミゼルといった。
灰色の狼耳を持ち、左の頬に三本の傷がある。彼女は月脈塩の袋を拾うと、匂いを確かめ、腰の短刀で中身を割った。
青白い光が断面へ走る。
「祭場の北脈で採れた塩だ」
声に怒りはなかった。
怒鳴らない者の方が怖いことを、尽は動かない身体で知った。
リゼッタは事情を説明しようとした。ミゼルは最後まで聞いたあと、商隊全員の武器を置かせた。
「話は砦で聞く」
「私たちは襲われた側よ」
「夜穿狼を傷つけ、禁制品を持ち込み、荷車を壊した場所でそう言われてもな」
「傷つけなければ、こちらが噛まれていたわ」
「だから事情を聞く。今ここで首を刎ねるとは言っていない」
リゼッタの口が閉じた。
ミゼルは二人の部下へ命じ、尽を担架へ乗せた。彼を運ぼうとしていた護衛のカルナは手を出さない。ここで抵抗すれば、王女の身分を明かすしかなくなる。
父王と決めた条件は、現地で身分を隠すことだった。
最初の試練は魔獣ではない。
自分の名前一つで片づけられる問題を、名前なしで解かなければならなかった。
夜牙砦は岩山の割れ目に築かれていた。
外から見えるのは低い石壁だけだが、門を抜けると谷全体へ住居が続いている。岩壁の穴を利用した家々の前に干し肉が並び、青い苔灯りが道を照らす。子供たちは裸足で駆け回り、帰ってきた斥候へ次々に飛びついた。
その子供たちも、月脈塩の袋を見ると笑わなくなった。
塩はただの交易品ではないらしい。
一行は砦中央の集会所へ入れられた。牢ではない。だが、入口には槍を持つ戦士が四人立った。
尽は敷物へ寝かされた。
手足の感覚は少し戻ったが、まだ立てない。
「格好悪いわね」
リゼッタが小声で言った。
「助けた相手に言うことですか」
「だから腹が立つのよ。私が運べたら、もっと格好よく入れたのに」
「そこですか」
彼女は水筒を口元へ寄せた。今回は顔へこぼさなかった。
間もなく、夜牙族の長老が三人現れた。
中央に座った老女は、白い狼耳の片方が欠けている。名はサーヤ。ミゼルから報告を受けると、最初に密輸品を運んだ商人を見た。
「荷は誰から預かった」
「王都仲買人のボルドです。封印された箱で、私は中身を知りませんでした」
「受取札は」
「野営地で散らばって……見つかりません」
男の額から汗が落ちる。
リゼッタが手を挙げた。
「発言しても?」
サーヤが顎を引く。
「その男の帳簿を調べたいわ。荷箱に付いていた封印札も」
「帳簿は王都商会の物だ。夜牙の裁きでは証拠にならん」
「書かれた数字に、王都も夜牙もないでしょう」
集会所がざわめいた。
言い方は相変わらず偉そうだったが、サーヤは怒らなかった。
帳簿と、散らばった荷から回収した札が運び込まれる。
リゼッタは床へ紙を並べた。
「月脈塩の袋は、解熱薬の木箱から出た。この箱の記録重量は十二石。王都を出る時の計量印も十二石ね」
「なら途中で入れた物ではない」とミゼル。
「待って。薬舗からの請求書では、中身は九石しかない。箱と緩衝材を足しても十石。残り二石を何かで埋めていた」
商人が割り込んだ。
「重さの違う瓶もある。薬舗の書き間違いだ!」
「では、封印札を見ましょう」
箱の蓋に残った赤い蝋を指で擦る。
夜冕の薬舗が使う蝋には、偽造防止のため細かな銀砂が混ぜられている。ところが、蓋の右端だけ銀砂がない。
「封印は一度切られ、似た色の蝋で閉じ直されている」
「私は知らん!」
「そうかもしれない。でも、あなたは荷を受け取った日、仲買人ボルドから通常の四倍の運送手数料を受け取っている」
リゼッタが帳簿の一行を叩いた。
「特別危険手当と書いてある。危険の内容は空欄。昨夜、私たちへ架空の作業費を請求しようとした時と同じね。中身を知らなかった者が、なぜ危険手当を受け取るの?」
男は答えられなかった。
サーヤが別の長老へ目配せする。戦士二人が商人の両脇へ立った。
「私は殺していない!」
「誰が殺しの話をした」とミゼル。
「し、失踪した隊商のことだ! ボルドは塩を運ぶだけだと言った。祭場の番人を眠らせる薬も、一度しか――」
自分で口を塞いだ。
遅かった。
集会所の空気が変わる。
ここ一月で、夜牙領の隊商が三組消えていた。夜穿狼の仕業だと思われていたが、遺体は一つも見つかっていない。祭場を守る番人も二人、原因不明の眠りから覚めていなかった。
密輸は一袋だけではない。
「ボルドはどこにいる」とサーヤ。
「知らない。本当だ。荷を渡したあとは、鬼門国へ向かうと言っていた」
尽は敷物の上から、封印札を見た。
「その箱、いつ積みました?」
「王都を出る前だ」
「では、響喉獣の首輪を付けた回収屋とは別口ですね」
黒枝宿場の一件は、事故を作って荷を安く奪う回収屋の犯行だった。今回の密輸とは直接繋がらない。
だが、ボルドが危険な街道を選んだ理由は考えられる。
「事故が多い道なら、荷が一箱なくなっても不自然ではない。途中で回収役に渡すつもりだったのかも」
リゼッタが地図を開いた。
「夜牙の祭場から塩を盗み、正規の薬箱へ隠す。夜冕を通過したあと、黒枝周辺で事故に見せて回収する。そこから鬼門国へ運ぶ」
「鬼門では月脈塩を何に使う」とカルナ。
ミゼルが低く答えた。
「影術の刃だ。粉を混ぜれば、影の中でも形を失わん」
軍用素材だった。
それが大量に流れれば、盗賊の小遣い稼ぎでは済まない。
サーヤはリゼッタを見た。
「商家の娘にしては、よく王都の帳簿を知っている」
「家が大きいの」
「どのくらい」
リゼッタは一瞬だけ詰まった。
「……かなり」
「なるほど」
サーヤはそれ以上追及しなかった。
証言と帳簿が揃い、商隊に対する密輸容疑は解かれた。ただし、荷を運んだ商人は拘束される。残る者は二日間、砦を出てはならない。夜牙側で祭場と失踪地点を調べ直すためだ。
リゼッタはすぐに異議を唱えた。
「二日も止まれば、薬が傷むわ」
「ならば薬だけ置いていけ」とサーヤ。
「代金を受け取れない」
「命より金か」
「命があっても、商隊が破産すれば次の薬は届かない」
二人の視線がぶつかった。
やがてサーヤが笑う。
「では、こちらの仕事を一つ請け負え。祭場の北脈を調べ、持ち出された塩の量を確かめる。失踪した隊商の手掛かりも探す。終えれば通行を許す」
「報酬は?」
「疑いを晴らしただけでは足りんか」
「疑いは帳簿で晴らしたわ。仕事には対価が必要よ」
サーヤとリゼッタは、そこから十分ほど報酬を値切り合った。
最終的に、夜牙領内の通行許可、薬荷の保管料免除、月脈塩の小片三つ、鬼門国へ抜ける山道の案内が付いた。
尽が欲しかったのは最後の一つだ。
交渉を終えたリゼッタは、勝ち誇った顔で戻ってきた。
「どう?」
「王女の名前を使わずに助かりましたね」
「当然よ」
「最初は名乗りそうな顔をしていました」
「ちょっとしか考えていないわ」
本当らしい。
その晩、尽の手足はようやく動くようになった。
起き上がると、作りかけの三連銅管が枕元へ置かれていた。潰れた部分は叩いて戻され、裂けた鋼線も結び直してある。
「リゼッタが?」
カルナは首を横へ振った。
「我々ではありません。見張りも、誰が置いたか見ていないと」
尽は銅管を持ち上げた。
修理は正確だった。
けれど、腕帯へ繋ぐ結び目だけが、夜冕軍で使う影衆結びになっていることを、彼はまだ知らなかった。




