第六十六話 魔力が使えないなら、道具に食わせればいい
最初の一頭は、影から影へ飛んだ。
黒い毛並みが緑陽の光を吸い、輪郭が消える。見えるのは二つの青い目と、口を開いた時に光る牙だけだった。
「夜穿狼だ!」
ロウが矢を放つ。
矢は獣の肩を抜けたように見え、そのまま低木へ刺さった。実体がないのかと思ったが、違う。夜穿狼は矢が当たる直前、身体を薄い影へ変えていた。
次の瞬間には実体へ戻り、荷車の屋根へ着地する。
カルナの剣が横から走った。
狼はまた影へ沈む。
刃が黒い霧だけを裂いた。
「影渡りの直後は、すぐにもう一度消えられない!」とロウ。「戻った瞬間を狙え!」
言うのは簡単だった。
狼は一頭ではない。
野営地を囲む青い目は、少なくとも十二対ある。警戒鈴の縄を踏まず、影から内側へ入ってきた。
御者と商人が荷車の下へ隠れる。
リゼッタは剣を抜き、炎を刃へまとわせた。
「私の後ろへ!」
堂々と叫んだ直後、背後の影から一頭が飛び出した。
尽は彼女の外套を掴んで引く。
牙が鼻先をかすめた。
リゼッタは振り向きざまに斬る。炎の刃が夜穿狼の前脚へ触れ、黒い毛を焼いた。獣が悲鳴を上げる。
一撃は当たった。
彼女の剣は弱くない。
だが、一頭を追いすぎた。
左右から二頭が迫る。
カルナが片方を受け、ロウの矢がもう片方の眼前へ突き刺さった。狼は影へ逃げる。
「前だけ見るな!」
カルナの叱声に、リゼッタの肩が跳ねた。
近衛の訓練では、背後から本気で噛みつく者はいなかった。
ここでは誰も、王女が構え直すのを待ってくれない。
「荷車を寄せろ!」
尽は御者へ叫んだ。
三台をもっと狭く並べれば、守る方向を減らせる。御者たちは車輪止めを外したが、灰尾獣が狼の匂いに怯えて動かない。
一頭が荷台へ飛び込み、薬箱をひっくり返した。
割れた瓶から甘い匂いが広がる。
狼たちの動きが止まった。
青い目が一斉に薬箱へ向く。
「あれを狙っている?」
尽は散らばった荷を見た。
傷薬。
解熱薬。
虫除け油。
その中に、白い石を詰めた小袋がある。
夜穿狼が袋を咥えた。
ロウの矢が地面へ突き立ち、獣は袋を落とす。口が開いた拍子に白い欠片がこぼれた。
塩だった。
ただの食塩とは違う。欠片の奥で青白い筋が光っている。
「月脈塩だ」とロウが唸った。「夜牙の祭場で採れる。外へ持ち出すのは禁止されてる」
商人の一人が荷車の下で身を縮めた。
帳簿をごまかしていた男だ。
「知らん! 私は預かっただけだ!」
「誰から」とリゼッタ。
「王都の仲買人だ。本当に中身は知らなかった!」
夜穿狼は人を襲いに来たのではない。
奪われた塩を取り返しに来た。
「袋を外へ投げれば、帰るんじゃないですか」
尽が言うと、ロウは首を振った。
「もう血を流した。群れが興奮してる。塩だけでは止まらん」
焼かれた狼が低く吠えた。
群れが一斉に動く。
カルナとロウが前へ出た。
リゼッタも並ぶ。
今度は飛び出さない。剣を正面へ構え、左右の気配を見ようとしている。
尽に剣はない。
宮廷技師の風見筒を取り出す。影になった狼も、空気まで消えるわけではない。動けば風が生まれる。
筒の布羽が左へ振れた。
「左!」
リゼッタが剣を返す。
実体へ戻った狼の牙と、木ではない本物の剣がぶつかった。火花が散る。
次は背後。
尽が声を掛ける前に、カルナが受ける。
数が多すぎる。
一頭を傷つけても、別の影が入れ替わる。こちらは四人。商隊を守りながらでは、押し返せない。
見えない護衛がいることを、尽は知らない。
野営地の外では、影魔シグが片膝をついていた。
指先から細い影刃が伸びている。振れば狼の群れをまとめて追い払える。
だが、王命は「すぐには手を出すな」だった。
王女はまだ立っている。
護衛二人も致命傷を負っていない。
シグは影刃を止めた。
その判断を、直後に後悔する。
夜穿狼の一頭が地面ではなく、荷車の下の影へ潜った。車体の真下から実体化し、腹を持ち上げる。
荷車が横転した。
積み荷と人が一緒に投げ出される。
リゼッタが倒れた商人を庇い、肩から地面へ落ちた。剣が手を離れる。
三頭の狼が彼女へ向きを変えた。
尽は工具袋を開いた。
銅管。
鋼線。
風見筒。
暮眠苔を塗った腕帯。
薯片。
魔法は使えない。
けれど、前夜の実験で一つだけ分かった。
薯片を食べると、身体へ何かが流れ込む。その力は出口を探し、指先から漏れた。
ならば、出口を先に作ればいい。
尽は銅管を三本束ね、根元へ割れた薬瓶の銀枠を巻いた。導晶の欠片を挟み、鋼線で腕帯へ繋ぐ。
何を作るか決めている暇はない。
流れ込んだ力を自分の身体に留めず、管の先へ逃がすだけだ。
「ジン、逃げなさい!」
リゼッタが落ちた剣へ手を伸ばす。
一頭目が跳んだ。
尽は薯片を一枚、口へ押し込んだ。
塩味。
次の瞬間、腹の底で火が爆ぜた。
暮眠苔を塗った腕が痺れる。前回より流れは遅い。それでも、人の身体で受け止められる量ではなかった。
胸から肩へ上がった熱が、右腕へ殺到する。
銀枠が白く光った。
「そっちへ行け!」
尽は束ねた銅管を狼の前へ向けた。
術式も呪文もない。
管から出たのは火球でも雷でもなく、空気の塊だった。
轟音が野営地を叩く。
飛びかかっていた三頭が空中で押し戻され、低木を越えて転がった。荷車の布が裂け、鍋と皿が一斉に吹き飛ぶ。
尽自身も反動で後ろへ飛んだ。
背中が車輪へ当たる。
息が止まった。
「ジン!」
リゼッタが駆け寄ろうとする。
「塩を……外へ」
声が出ない。
腕も動かなかった。
カルナが月脈塩の袋を拾い、野営地の外へ投げる。ロウは矢を下げ、夜牙族の古い鎮め歌を口笛で吹いた。
群れの長らしい大きな狼が、倒れた仲間の前へ立つ。
リゼッタは剣を構えたが、追わなかった。
長い睨み合いのあと、狼は塩袋を咥えた。
一頭ずつ影へ沈む。
最後に残った群れの長は、尽の銅管を見て低く唸り、岩山の方角へ消えた。
静かになった野営地で、鍋が一つ遅れて地面へ落ちた。
リゼッタは尽のそばへ膝をつく。
「どこを噛まれたの」
「噛まれて……ません」
「では、なぜ動かないの!」
「力を……使ったので」
「魔法は使えないと言ったでしょう!」
「使ってません。道具に、食べさせました」
「意味が分からない!」
それは尽にもよく分からなかった。
腕帯の暮眠苔は、流れ込む速度をいくらか遅くした。銅管は力を外へ逃がした。それでも、全身から力が抜けている。
一枚では多すぎる。
次は量を減らし、管の強度を上げ、反動を地面へ逃がす必要がある。
意識が薄れかける中でも、改良点だけは次々に浮かんだ。
「笑ってる場合じゃないわよ!」
リゼッタに頬を叩かれた。
「笑ってません」
「口元が上がってる!」
「たぶん、痺れてます」
ロウが戻り、尽の脈を確かめた。
「命に別状はない。魔力切れに似てるが、こいつは魔力の流し方を知らん。半日は動けないだろう」
リゼッタは安心した顔をしたあと、すぐに怒った。
「半日も? 誰が運ぶのよ」
護衛と御者が彼女を見た。
「……何、その目は」
「殿下を庇って倒れました」とカルナ。
「分かっているわ」
「先ほどのお約束では、負傷者の世話も実戦経験に含まれます」
そんな約束はなかった。
だが、誰も指摘しない。
リゼッタは外套を地面へ敷き、尽の頭をその上へ乗せた。水を飲ませようとして、一度目は顔へかけた。二度目は慎重に杯を傾ける。
「死なないでよ」
「死にません」
「絶対?」
「薯片一枚で死んだら、故郷の子供が毎日大変です」
「その故郷、恐ろしすぎるでしょう」
尽は目を閉じた。
眠る直前、遠くから別の遠吠えが聞こえた。
今度は威嚇ではない。
ロウが耳を立てる。
「夜牙の斥候だ。狼たちが知らせたらしい」
岩山の上へ、人影が三つ現れた。
全員が獣の耳を持ち、月脈塩の袋を掲げている。
先頭の女戦士が叫んだ。
「盗人ども! 動くな!」
リゼッタは倒れた尽を見た。
横転した荷車を見る。
散らばった密輸品を見る。
最後に、帳簿をごまかした商人へ目を向けた。
「生死の境へ行きたいとは言ったけれど」
彼女は低い声で言った。
「密輸犯として処刑されたいとは、一度も言っていないわ」




