第六十五話 姫の初仕事は、十二箱の荷物を捨てること
夜冕城を出て半日も経たないうちに、リゼッタは馬車を止めた。
「お茶にするわ」
御者が空を見上げた。
緑陽はまだ出発時とほとんど同じ場所にある。この世界では太陽の高さを見ても、昼時かどうか分からない。だが、城門を出てから砂時計を一度しか返していなかった。
「先ほど朝食を召し上がったばかりです」と護衛の女剣士。
「朝食とお茶は別でしょう」
「間食は一日一回とのお約束です」
「これは休憩よ」
「菓子を食べる休憩を、一般には間食と呼びます」
父王の部下だけあって、護衛は手強かった。
リゼッタは尽を見る。
味方を求めている顔だ。
「車軸が少し熱を持っています。休ませるのは賛成です」
王女の顔が勝ち誇ったものに変わる。
「ただ、菓子は出しません」
すぐに元へ戻った。
一行が同行しているのは、夜牙領へ薬と鉄器を運ぶ小商隊だった。荷馬車三台、御者三人、商人二人。王都から付いた表向きの護衛は、女剣士カルナと、短弓を背負った犬獣人のロウ。
リゼッタは王都商会の娘「リゼ」を名乗っている。
誰も信じていなかった。
濃紺の旅装は庶民向けに見えて、留め具が黒真珠でできている。歩くたびに腰の飾り鎖が鳴り、手袋の縫い目には銀糸が使われていた。
何より、護衛二人が彼女を「お嬢様」と呼ぶたびに背筋を伸ばしすぎる。
王女だとまでは分からなくても、ただの商家の娘ではないと誰でも気づく。
「だから衣装箱を減らせと言ったんです」
尽は馬車の後ろへ積まれた二箱を見た。
二箱まで減らしたはずだった。
ところが、一つの箱へ衣装を詰め込みすぎて蓋が閉まらず、縄で三重に縛ってある。もう一箱には靴が入っていた。
「減らしたわ。十二箱から二箱よ」
「中身はほとんど減っていません」
「箱の数を減らせと言ったのはあなたでしょう」
「僕の言い方が悪かったです」
認めるしかなかった。
商隊は街道脇の石場へ寄せた。尽が車軸へ油を差している間、カルナとロウは周囲を見張る。リゼッタは敷物を広げ、茶器を取り出した。
野営の練習をした成果らしい。
火を起こすところまではよかった。
水袋の栓を開け、鍋へ注ごうとして、半分を自分の靴へこぼした。
「誰にも言わないで」
「全員見ています」
商人たちが一斉に背を向けた。
忠誠心の高い商隊だった。
乾燥果実をかじりながら、尽は街道の先を見る。黒い低木がまばらに生え、その向こうへ紫色の岩山が連なっていた。夜牙領は、岩山の谷間にある。
地図では二日の距離だ。
ただし、予定どおり進めばの話だった。
休憩を終えて一刻ほど走ったところで、先頭の荷車が止まった。
道の中央へ、角の生えた大きな獣が横たわっている。
牛ほどの身体。灰色の皮膚は岩のようにひび割れ、鼻先から三本の角が伸びていた。腹が上下している。死んではいない。
「岩角獣だ」とロウが鼻を鳴らした。「血の匂いはしない。寝てる」
「街道の真ん中で?」と尽。
「岩を食って、腹が膨れると三日寝る。起こすと走る」
道の左は崖、右は深い泥地だ。荷車で避ける幅はない。
商人の一人が長い棒を持った。
「鼻先を突けば、向こうへ逃げるだろう」
「どちらへ走るか分かるのか」
「前へだ」
「荷車の方を向いています」
棒が引っ込んだ。
リゼッタは剣へ手を掛けた。
「私が追い払う」
カルナが道を塞ぐ。
「斬れば皮膚が硬化します。剣を弾かれたあと、怒った岩角獣が荷車へ突っ込みます」
「なら、魔法で浮かせるわ」
「この大きさを浮かせれば、殿下――お嬢様の魔力が尽きます」
「では、どうするの」
皆が尽を見た。
「僕を見る前に、前にも旅をした人へ聞いてください」
「普通は起きるまで待つ」と御者。
「どのくらい」
「長ければ三日」
待てない。
尽は岩角獣の周囲を歩いた。背中の割れ目には、細かな紫砂が詰まっている。後脚だけが泥地へ近く、前脚は乾いた路面にある。
動かすなら、持ち上げる必要はない。
滑らせればいい。
「衣装箱を一つ空にしてください」
リゼッタが剣を抜くより速く振り向いた。
「なぜ」
「板が必要です」
「ほかの箱では駄目?」
「薬箱を壊しますか」
「靴箱なら」
「衣装箱より小さい」
リゼッタは箱を抱きしめた。
「戦って追い払う方が早いわ」
「この前、生死の境へ行きたいと言っていましたね」
「ええ」
「服を諦めるだけで死にそうな顔をしています」
護衛二人が同時に咳をした。
結局、衣装は必要な二組だけ残し、残りを商人へ預けることになった。夜冕城へ戻る別の隊商が来れば託し、来なければ次の宿場で保管する。
リゼッタは一枚ずつ服を畳みながら、別れの言葉まで掛けていた。
「王都でまた会いましょう」
「服は返事をしませんよ」
「黙って」
空になった箱を解体し、長い側板を二枚取る。板へ油を塗り、岩角獣の後脚の下へ少しずつ差し込んだ。次に荷車の綱を板へ回し、灰尾獣へゆっくり引かせる。
岩角獣の身体が横へずれた。
一寸。
二寸。
途中で目を開けたが、まだ眠いらしい。鼻から息を吹き、また瞼を閉じる。
泥地の縁まで運び、道幅を荷車一台分空ける。泥へ落とせば獣が沈むため、平たい石を噛ませて止めた。
荷車は無事に通れた。
リゼッタは空になった衣装箱の残骸を見つめていた。
「剣も魔法も使わず、本当に動かした」
「滑らせただけです」
「その板、また使える?」
「油を拭けば、荷台の補修材にはなります」
彼女は急に商人へ向き直った。
「王都へ帰ったら、荷車の側板を取り外し式にしなさい。道が塞がった時は滑り板に、車輪が割れた時は補強板にできる。余分な板を積むより軽いわ」
商人は目を丸くしたあと、帳面へ書きつけた。
尽は少し感心した。
失った衣装を惜しんで泣き続けるかと思ったが、損を別の利益へ変えるのが早い。
もっとも、リゼッタはその直後、預けた服の保管料を銀貨一枚から銅貨三枚まで値切った。
相手の商人は涙目だった。
一行は日暮れのない空の下で砂時計を数え、決められた時刻に野営へ入った。低木を風よけにし、荷車を半円へ並べる。ロウが匂い消しの粉を撒き、カルナが警戒の鈴を張った。
リゼッタは自分で天幕を立てようとした。
三度倒れた。
四度目には、尽の天幕まで巻き込んだ。
「これ、設計が悪いわ」
「上下が逆です」
「最初に言いなさい」
「最後まで話を聞く約束でした」
彼女は黙って布を裏返した。
食事のあと、商隊の帳簿を預かっていた男が、リゼッタへ請求札を差し出した。道中の護衛費、宿営費、岩角獣を避けるための特別作業費が書かれている。
リゼッタは一目見て、三行目を指した。
「作業をしたのはジンと御者よ。なぜ、あなたの特別作業費が入っているの」
「隊全体の管理手数料でして」
「護衛費に含まれている。薪代も二重ね。砂時計一巡で銅貨二枚なのに、三巡分を取っている」
男の顔色が変わった。
彼女は昼間の失敗をすべて忘れたような速さで、帳簿の数字を拾っていく。
「王都商会の娘を甘く見たわね。差額を返し、今後三回の運賃を一割下げるなら、今回は商会へ報告しない」
「し、しかし」
「報告してもいいのよ。その場合、あなたの商売札は次の更新で失効するけれど」
男はその場で条件を呑んだ。
商人たちが離れると、尽は尋ねた。
「最初から疑っていたんですか」
「いいえ。私の衣装を預ける時、保管料の相場を知らなかった。だから、あの男が安心した顔をしたの。次は別のところで取ると思った」
「わざと値切ったんですか」
「服を失ったうえ、余計なお金まで払いたくないだけ」
理由は現実的だった。
遠くで、短い遠吠えがした。
ロウが立ち上がる。
一度目は北。
二度目は西。
三度目は、野営地のすぐ近くから聞こえた。
警戒鈴が一つも鳴っていない。
カルナが剣を抜く。
「灯りを消せ」
火が踏み消された。
緑陽は地平へ沈まない。それでも、低木の影が急に濃くなった。
影の中で、いくつもの青い目が開く。
夜牙領へ入る前に、夜牙の獣が迎えに来た。




