↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
64/219

第六十四話 生死の境へ行くには、まず父王を説得せよ

夜冕王ヴァルガスは、娘より先に尽へ謝った。


「すまなかった」


謁見の間へ入って、最初の言葉がそれだった。


玉座に座る男は、額から黒い角を二本伸ばしている。肩幅は尽の倍近くあり、膝へ置いた手だけで兜ほどの大きさがあった。背後には黒炎を模した旗が並び、左右には槍を持つ近衛が控えている。


どう見ても、人族の少年へ気軽に頭を下げる王ではない。


「父上! なぜ最初に謝るのです!」


リゼッタが隣で声を上げた。


ヴァルガスは娘を見ずに続ける。


「通信器を直した礼を言う。響喉獣から商隊を守ったことにも感謝する。そして、娘が迷惑を掛けた」


「最後はいりません!」


「昨夜、客室の前へ兵を十二人置いたそうだな」


「逃げないようにです」


「客を閉じ込めるのを、我が国では監禁と呼ぶ」


尽は初めて知った。


客室だと思って寝ていた。


扉の外が妙に静かだったのは、兵が交代で見張っていたかららしい。


ヴァルガスは太い指で眉間を揉んだ。


「カザマ・ジン。望むなら氷風城へ帰す。護衛と路銀も付けよう。娘の提案を受ける義務はない」


「ありがとうございます」


「待って!」


リゼッタが尽の前へ出た。


「まだ提案を話していません」


「王家付き道具師なら断ります」


「それは昨日の提案。今日は違うわ」


嫌な予感がした。


リゼッタは胸を張り、父王へ向き直る。


「私を夜牙領へ派遣してください」


謁見の間の空気が止まった。


ヴァルガスの手が眉間から離れる。


「理由を聞こう」


「私は実戦を知りません。近衛との訓練は、訓練ですらありませんでした」


左右の騎士がわずかに身じろぎした。


昨日の話は、もう王の耳へ入っている。


「本当の強さを身につけるには、生死の境へ立つしかないと聞きました。夜牙領では最近、隊商が失踪しています。調査を兼ねて向かいます」


「誰から聞いた」


「書庫の『百戦英雄録』です」


ヴァルガスは宰相を見た。


痩せた老魔族が、小声で答える。


「三百年前の武将ガランが書いた自伝です。後半は酒場の喧嘩と恋愛遍歴が大半を占めます」


「禁書庫へ移せ」


「すでに市中で四万部ほど売れております」


リゼッタが話を戻した。


「とにかく、私は命懸けの冒険へ出ます。この者を道具係として連れていきます」


尽は黙って自分を指した。


「僕の意思は」


「今から聞くわ」


「行きません」


「聞いた。では、条件を話し合いましょう」


断る自由は確かにある。


聞き入れられる自由はない。


ヴァルガスが玉座から立った。


「許可できん」


声を荒らげてはいない。それでも、床の石が低く鳴った。


「夜牙領は夜行獣人の部族が治める土地だ。王国へ属してはいるが、古い掟を重んじる。近頃の失踪も、魔獣か盗賊か分かっていない。遊びで行く場所ではない」


「遊びではありません」


「ならば、なおさらだ。お前は部族の慣習も、野営も、実戦も知らん」


「知らないから学びに行くのです」


「命を落としてからでは学べん」


父娘の視線がぶつかる。


リゼッタは引かなかった。


ヴァルガスも怒鳴らない。


彼は娘を甘やかしてきたと自覚している顔だった。止めれば、また自分が都合の悪い現実を隠したことになる。だからといって、危険な土地へ送り出すわけにもいかない。


「一つ、聞きたい」


尽は口を挟んだ。


二人が同時にこちらを見る。


「夜牙領へ行く街道は、赤曜側へ続いていますか」


宰相が壁の地図を広げた。


夜冕城から北西へ向かう道は、夜牙領を抜け、鬼門国との境へ至る。その先には氷の山脈があり、峠を越えれば赤曜側へ出られる。ただし、大商隊が使う氷風城の大隧道とは違い、小さな翼竜か山歩きに慣れた者しか通れない。


尽が当初目指していた人族領へは近づく。


氷風城へ戻るより、旅程も短い。


「僕には赤曜側へ行く理由があります。途中まで同行する形なら、考えます」


リゼッタの顔が明るくなった。


「決まりね!」


「条件があります」


指を一本立てる。


「護衛を付けること」


「命懸けにならないでしょう」


「死ぬのが目的なら、一人で崖から飛び降りてください。調査が目的なら、生きて帰る準備をします」


近衛の一人が下を向いた。


笑ったのかもしれない。


「二つ目。現地では身分を隠す。王女だと知られれば、相手の態度が変わります」


「分かったわ」


「三つ目。僕の道具へ勝手に触らない」


「なぜ私を見るの」


「昨夜、暮眠苔の壺を勝手に開けました」


「確認しただけよ」


「その確認を禁止します」


「四つ目は?」


「人の話を最後まで聞くこと」


「三つ目までではなかったの?」


すでに失敗している。


ヴァルガスは玉座へ戻り、しばらく考え込んだ。


「王家の兵は付けん」


リゼッタが目を見開く。


「父上まで私を甘やかすのをやめたのでは?」


「百人連れて歩けば、身分を隠す意味がない」


「では十人」


「多い」


「五人」


「二人だ」


「三人」


「二人」


父娘はそこから、護衛の人数、馬の数、旅費、携行食の質を一つずつ値切り始めた。


商人同士の交渉にしか見えない。


最終的に、表向きの護衛は二人。夜牙領へ薬を運ぶ小商隊へ同行し、リゼッタは王都商会の娘を名乗る。尽は道具係兼修理工。調査期限は二十日。危険と判断した時点で帰還する。


リゼッタは食事を一日五回要求し、三回と間食一回で妥協した。


「出発は三日後だ」とヴァルガス。


「明日で十分です」


「野営道具の用意がある」


「買えば済みます」


「使い方を覚える時間がいる」


リゼッタは黙った。


王はようやく一本取った顔をした。


謁見が終わると、尽は宮廷技師の作業場へ戻った。


夜牙領へ持っていく道具を選ばなければならない。


水筒、火口箱、細い鋼線、銅管、折り畳み式の小鍋。暮眠苔の軟膏は、まだ舌へ塗れない。皮膚から少量を吸収させるため、腕へ巻く布帯の内側へ薄く伸ばした。


薯片は最後の手段だ。


魔力の使い方を知らないまま食べれば、力はまた勝手に漏れる。大量の魔力があることと、魔法を使えることは同じではない。


尽が荷をまとめていると、技師長が小さな金属筒を投げてよこした。


「通信器の排気を見るなら、木片よりそちらを使え」


筒の先には、薄い布羽が付いている。空気の流れる方向だけでなく、強さも目盛りで読める。


「作ったんですか」


「お前の木片を見て、弟子が半刻でな。簡単すぎて誰も作らなかった」


「名前は?」


「まだない」


「風見筒でどうです」


「そのままだな」


「分かりやすい方が売れます」


技師長は鼻を鳴らした。


「殿下と同じことを言う」


それは少し困る。


出発前夜、黒角城の屋根に一つの影が立っていた。


男にも女にも見えない。月のない緑空の下で、輪郭だけが煙のように揺れている。


ヴァルガスが背後から声を掛けた。


「影衆のシグ。娘を頼む」


影は片膝をついた。


「殿下には、護衛は二人と伝わっております」


「三人目だ。姿を見せるな。危険が迫っても、すぐには手を出すな」


「見殺しにせよと?」


「死なせるな。だが、転ぶ前に抱き上げ続ければ、あの子は自分の足で歩けん」


影がわずかに揺れた。


笑ったようにも見えた。


翌朝、リゼッタは商人の娘らしい濃紺の旅装で現れた。


荷物は十二箱あった。


尽の荷は背負い袋一つ。


護衛二人が無言で空を見上げる。


「身分を隠すんですよね」


尽が尋ねると、リゼッタは胸を張った。


「ええ。だから王家の紋章は全部外したわ」


「普通の商人の娘は、旅に衣装箱を六つも持ちません」


「四つは靴よ」


「もっと駄目です」


出発は、荷物を二箱まで減らす交渉で一刻遅れた。


夜牙領へ続く門が開く。


緑陽の下、黒い街道は低い森の向こうへ伸びていた。


尽はまだ知らなかった。


見える護衛は二人。


見えない護衛が一人。


そして、最も扱いに困る危険物は、馬車の隣で機嫌よく鼻歌を歌っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。