第六十四話 生死の境へ行くには、まず父王を説得せよ
夜冕王ヴァルガスは、娘より先に尽へ謝った。
「すまなかった」
謁見の間へ入って、最初の言葉がそれだった。
玉座に座る男は、額から黒い角を二本伸ばしている。肩幅は尽の倍近くあり、膝へ置いた手だけで兜ほどの大きさがあった。背後には黒炎を模した旗が並び、左右には槍を持つ近衛が控えている。
どう見ても、人族の少年へ気軽に頭を下げる王ではない。
「父上! なぜ最初に謝るのです!」
リゼッタが隣で声を上げた。
ヴァルガスは娘を見ずに続ける。
「通信器を直した礼を言う。響喉獣から商隊を守ったことにも感謝する。そして、娘が迷惑を掛けた」
「最後はいりません!」
「昨夜、客室の前へ兵を十二人置いたそうだな」
「逃げないようにです」
「客を閉じ込めるのを、我が国では監禁と呼ぶ」
尽は初めて知った。
客室だと思って寝ていた。
扉の外が妙に静かだったのは、兵が交代で見張っていたかららしい。
ヴァルガスは太い指で眉間を揉んだ。
「カザマ・ジン。望むなら氷風城へ帰す。護衛と路銀も付けよう。娘の提案を受ける義務はない」
「ありがとうございます」
「待って!」
リゼッタが尽の前へ出た。
「まだ提案を話していません」
「王家付き道具師なら断ります」
「それは昨日の提案。今日は違うわ」
嫌な予感がした。
リゼッタは胸を張り、父王へ向き直る。
「私を夜牙領へ派遣してください」
謁見の間の空気が止まった。
ヴァルガスの手が眉間から離れる。
「理由を聞こう」
「私は実戦を知りません。近衛との訓練は、訓練ですらありませんでした」
左右の騎士がわずかに身じろぎした。
昨日の話は、もう王の耳へ入っている。
「本当の強さを身につけるには、生死の境へ立つしかないと聞きました。夜牙領では最近、隊商が失踪しています。調査を兼ねて向かいます」
「誰から聞いた」
「書庫の『百戦英雄録』です」
ヴァルガスは宰相を見た。
痩せた老魔族が、小声で答える。
「三百年前の武将ガランが書いた自伝です。後半は酒場の喧嘩と恋愛遍歴が大半を占めます」
「禁書庫へ移せ」
「すでに市中で四万部ほど売れております」
リゼッタが話を戻した。
「とにかく、私は命懸けの冒険へ出ます。この者を道具係として連れていきます」
尽は黙って自分を指した。
「僕の意思は」
「今から聞くわ」
「行きません」
「聞いた。では、条件を話し合いましょう」
断る自由は確かにある。
聞き入れられる自由はない。
ヴァルガスが玉座から立った。
「許可できん」
声を荒らげてはいない。それでも、床の石が低く鳴った。
「夜牙領は夜行獣人の部族が治める土地だ。王国へ属してはいるが、古い掟を重んじる。近頃の失踪も、魔獣か盗賊か分かっていない。遊びで行く場所ではない」
「遊びではありません」
「ならば、なおさらだ。お前は部族の慣習も、野営も、実戦も知らん」
「知らないから学びに行くのです」
「命を落としてからでは学べん」
父娘の視線がぶつかる。
リゼッタは引かなかった。
ヴァルガスも怒鳴らない。
彼は娘を甘やかしてきたと自覚している顔だった。止めれば、また自分が都合の悪い現実を隠したことになる。だからといって、危険な土地へ送り出すわけにもいかない。
「一つ、聞きたい」
尽は口を挟んだ。
二人が同時にこちらを見る。
「夜牙領へ行く街道は、赤曜側へ続いていますか」
宰相が壁の地図を広げた。
夜冕城から北西へ向かう道は、夜牙領を抜け、鬼門国との境へ至る。その先には氷の山脈があり、峠を越えれば赤曜側へ出られる。ただし、大商隊が使う氷風城の大隧道とは違い、小さな翼竜か山歩きに慣れた者しか通れない。
尽が当初目指していた人族領へは近づく。
氷風城へ戻るより、旅程も短い。
「僕には赤曜側へ行く理由があります。途中まで同行する形なら、考えます」
リゼッタの顔が明るくなった。
「決まりね!」
「条件があります」
指を一本立てる。
「護衛を付けること」
「命懸けにならないでしょう」
「死ぬのが目的なら、一人で崖から飛び降りてください。調査が目的なら、生きて帰る準備をします」
近衛の一人が下を向いた。
笑ったのかもしれない。
「二つ目。現地では身分を隠す。王女だと知られれば、相手の態度が変わります」
「分かったわ」
「三つ目。僕の道具へ勝手に触らない」
「なぜ私を見るの」
「昨夜、暮眠苔の壺を勝手に開けました」
「確認しただけよ」
「その確認を禁止します」
「四つ目は?」
「人の話を最後まで聞くこと」
「三つ目までではなかったの?」
すでに失敗している。
ヴァルガスは玉座へ戻り、しばらく考え込んだ。
「王家の兵は付けん」
リゼッタが目を見開く。
「父上まで私を甘やかすのをやめたのでは?」
「百人連れて歩けば、身分を隠す意味がない」
「では十人」
「多い」
「五人」
「二人だ」
「三人」
「二人」
父娘はそこから、護衛の人数、馬の数、旅費、携行食の質を一つずつ値切り始めた。
商人同士の交渉にしか見えない。
最終的に、表向きの護衛は二人。夜牙領へ薬を運ぶ小商隊へ同行し、リゼッタは王都商会の娘を名乗る。尽は道具係兼修理工。調査期限は二十日。危険と判断した時点で帰還する。
リゼッタは食事を一日五回要求し、三回と間食一回で妥協した。
「出発は三日後だ」とヴァルガス。
「明日で十分です」
「野営道具の用意がある」
「買えば済みます」
「使い方を覚える時間がいる」
リゼッタは黙った。
王はようやく一本取った顔をした。
謁見が終わると、尽は宮廷技師の作業場へ戻った。
夜牙領へ持っていく道具を選ばなければならない。
水筒、火口箱、細い鋼線、銅管、折り畳み式の小鍋。暮眠苔の軟膏は、まだ舌へ塗れない。皮膚から少量を吸収させるため、腕へ巻く布帯の内側へ薄く伸ばした。
薯片は最後の手段だ。
魔力の使い方を知らないまま食べれば、力はまた勝手に漏れる。大量の魔力があることと、魔法を使えることは同じではない。
尽が荷をまとめていると、技師長が小さな金属筒を投げてよこした。
「通信器の排気を見るなら、木片よりそちらを使え」
筒の先には、薄い布羽が付いている。空気の流れる方向だけでなく、強さも目盛りで読める。
「作ったんですか」
「お前の木片を見て、弟子が半刻でな。簡単すぎて誰も作らなかった」
「名前は?」
「まだない」
「風見筒でどうです」
「そのままだな」
「分かりやすい方が売れます」
技師長は鼻を鳴らした。
「殿下と同じことを言う」
それは少し困る。
出発前夜、黒角城の屋根に一つの影が立っていた。
男にも女にも見えない。月のない緑空の下で、輪郭だけが煙のように揺れている。
ヴァルガスが背後から声を掛けた。
「影衆のシグ。娘を頼む」
影は片膝をついた。
「殿下には、護衛は二人と伝わっております」
「三人目だ。姿を見せるな。危険が迫っても、すぐには手を出すな」
「見殺しにせよと?」
「死なせるな。だが、転ぶ前に抱き上げ続ければ、あの子は自分の足で歩けん」
影がわずかに揺れた。
笑ったようにも見えた。
翌朝、リゼッタは商人の娘らしい濃紺の旅装で現れた。
荷物は十二箱あった。
尽の荷は背負い袋一つ。
護衛二人が無言で空を見上げる。
「身分を隠すんですよね」
尽が尋ねると、リゼッタは胸を張った。
「ええ。だから王家の紋章は全部外したわ」
「普通の商人の娘は、旅に衣装箱を六つも持ちません」
「四つは靴よ」
「もっと駄目です」
出発は、荷物を二箱まで減らす交渉で一刻遅れた。
夜牙領へ続く門が開く。
緑陽の下、黒い街道は低い森の向こうへ伸びていた。
尽はまだ知らなかった。
見える護衛は二人。
見えない護衛が一人。
そして、最も扱いに困る危険物は、馬車の隣で機嫌よく鼻歌を歌っていた。




