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第六十三話 姫君は、悔し涙まで値踏みする

三度目のくしゃみが聞こえた時、尽は扉を開けなかった。


代わりに、作業台の上へ小さな椅子を一つ置く。


「入るなら入ってください。扉の前は冷えますよ」


返事はない。


尽は暮眠苔を乳鉢へ戻し、木の棒でゆっくり潰した。乾いた苔は灰緑色の粉になり、獣脂と混ぜると粘りが出る。調薬師にもらった処理札には、火へ直接掛けるなとある。熱しすぎれば眠気を和らげる成分まで飛ぶらしい。


炎を使わず温めるには、湯煎がいい。


小鍋を二つ重ねる。下の鍋へ湯を張り、上へ獣脂を置いた。


「厨房の鍋を勝手に使うと、料理長に怒られるわよ」


扉の外から声がした。


「借りる時に記録札を書きました」


「ずいぶん用意がいいのね」


「前の世界でも、研究室の備品を無断で使うと怒られましたから」


扉が少し開いた。


リゼッタは昼間の訓練着から、黒い長衣へ着替えていた。頭には大きな布帽子をかぶり、短い角を隠している。変装のつもりなのかもしれないが、金糸で王家の紋章が刺繍されていた。


尽は椅子を指した。


「座りますか」


「あなたがどうしてもと言うなら」


「僕はどちらでも」


リゼッタは睨んだあと、椅子へ座った。


作業台の高さが合わず、膝が天板へ当たる。彼女は何も言わず、椅子を横へずらした。


尽は見なかったことにした。


「それが欲しがっていた薬?」


「薬になる前の試作品です。急に流れ込む魔力を、少しずつ身体へ通せないか調べています」


「何のために?」


尽は制服の内側へ手を入れた。


薯片の袋を全部出す気はない。一枚だけ取り出し、さらに端を爪ほどの大きさに割る。


リゼッタの鼻が動いた。


「何、その匂い」


「故郷の菓子です」


「一枚しかないの?」


「残りはありますが、あげられません」


「まだ欲しいと言っていないわ」


視線は欠片から離れない。


尽は薄片を油紙へ置き、すり潰した暮眠苔を片面へ塗った。前に薯片を食べた時は、身体の内側へ熱が一気に流れ込み、何かが弾けた。その後は指一本動かせなくなった。


原因を確かめず、同じ量を食べるのは危ない。


欠片なら、流れ込む力も少ないはずだ。


「毒見なら侍医を呼ぶわ」


「故郷では普通の食べ物です」


「こちらでは?」


「食べたら倒れました」


「侍医を呼びなさい!」


扉の外で何かが動いた。


気配を隠していた護衛が、本当に呼びに行こうとしたらしい。


「待ってください。前回は一枚です。今回はその二十分の一くらいしかありません」


「二十分の一なら安全だという根拠は?」


「ありません」


「よくそれで通信器を直せたわね」


リゼッタは腕を組んだ。


「せめて比較する物を用意しなさい。同じ大きさの欠片を三つ。苔なし、薄く塗った物、厚く塗った物。一度に食べず、時間を空ける。脈、体温、魔力の変化を記録する」


尽は手を止めた。


「調薬を学んだんですか」


「商会の新商品を見る時も同じよ。売ったあとで客が倒れたら、賠償するのは王家なんだから」


「王女様が商品を見るんですか」


「税収表も見るわ。南通りの香油店は、瓶を細くしただけで去年より三割高く売った。中身は一割減っていたけれど、贈答用の箱を付けたから苦情はほとんどない。あの店主は性格が悪い。でも、数字は面白い」


昼間、木剣を振り回していた少女と同じ人物とは思えなかった。


リゼッタは暮眠苔の壺を手に取り、底に付いた仕入れ札を見る。


「黒枝から夜冕までの原価が五銀貨。調薬院で精製すると十二銀貨。薬舗では二十五銀貨。輸送中に二割傷むから高くなる。あなたの風棚で傷みを半分にできるなら、薬舗へ卸す値を三銀貨下げても利益は増える」


指先で作業台を二度叩く。


「しかも、今の棚は荷車の予備部品で作れる。専用の魔導具を売るより普及が早い」


「皆が作れるなら、僕にはお金が入りません」


「だから構造の一部を登録するの。板羽の角度と、荷棚の間隔を組にして王都商会へ申請する。使用料を一台ごとに取ればいい」


「もう売る話になっていますね」


「良い道具を作っても、広まらなければ一台しか人を助けないわ」


言い方は尊大だった。


けれど、彼女は売上だけを見ていない。


薬の値段が下がれば、買える者が増える。作った尽にも金が入り、商隊も荷傷みを減らせる。自分の王国へ税も入る。


欲張りだが、筋は通っていた。


「王女様は、剣より商売の方が強いんじゃないですか」


リゼッタの指が止まった。


褒めたつもりだった。


彼女はゆっくり壺を戻す。


「剣は弱いと言いたいのね」


「そういう意味では」


「二回も負かしたくせに慰めないで」


窓の外へ顔を向けた。


緑陽の光が横顔を照らす。目尻に残った赤みは、作業場の油煙のせいではなかった。


「皆、私を馬鹿にしていた」


「怖かったんだと思います」


「同じでしょう」


「違います。馬鹿にしているなら、転ぶところまで練習しません」


リゼッタが振り返る。


「あの二回転、練習なの?」


「きれいに回っていました」


「余計に腹が立ってきたわ」


「でも、怪我をさせたくなかったのは本当でしょう。やり方を間違えただけです」


尽は油へ浮いた苔の塊を潰した。


「僕も、知らないことを知らないと言ってもらえない方が困ります。間違ったまま機械を触れば、通信器みたいになりますから」


「私は機械と同じ?」


「壊れる前に教えてもらった方がいいという話です」


リゼッタはしばらく黙っていた。


やがて、油紙の薯片を指した。


「三つに分けなさい」


「まだやるんですか」


「当たり前よ。泣いたからといって仕事を止めたら、悔し涙の分だけ損でしょう」


尽は同じ大きさの欠片を三つ作った。


最初は苔なし。


口へ入れた途端、舌に塩味が広がる。次いで、胸の奥へ小さな熱が落ちた。


前回ほどではない。


それでも、指先から白い火花が散った。


リゼッタが椅子を蹴って立つ。


扉の外で剣が抜かれた。


「大丈夫です!」


尽は両手を上げた。


火花は一瞬で消えた。魔法を放った感覚はない。身体へ入った力が出口を探し、指先から漏れただけだ。


脈を数える。


平常より速い。額に汗が出る。脱力は軽く、腕はまだ動いた。


半刻後、暮眠苔を薄く塗った欠片を食べる。


今度の熱は急に弾けなかった。腹の底へ溜まり、細い流れとなって胸と腕へ広がる。指先の火花も出ない。


代わりに、舌が痺れた。


「喋れる?」


「しゃべれまふ」


リゼッタが口元を押さえる。


「笑っていいんですよ」


「わ、笑っていないわ」


肩が震えている。


厚く塗った三つ目は見送った。舌の痺れが消えるまで待ち、結果を帳面へ書く。


〈少量の暮眠苔で流入速度は低下。経口では舌と喉が痺れる。油へ混ぜ、皮膚から吸収させる方法を検討。量の基準なし。単独使用禁止。〉


リゼッタが横から帳面を覗いた。


「何の文字?」


日本語で書いていた。


この世界の文字をまだ十分に覚えていない。幸い、数字だけは似た形が多い。


「故郷の文字です」


「誰にも読めない帳面は、紛失したら終わりね。写しを作りなさい」


「読めないなら盗まれても平気では?」


「価値が分からない物を捨てられる方が困るでしょう」


その通りだった。


リゼッタは作業場を一回りし、勝手に棚を開け、必要そうな道具を紙へ書き始めた。


小型の秤。


砂時計。


温度で色の変わる鉱石。


調薬院の協力者。


「明日の朝までに揃えさせる」


「どうして、そこまで」


「あなたが倒れずに力を使えるようになれば、もう一度戦えるでしょう」


やはり、そこへ戻るらしい。


「再戦はしません」


「では、私を鍛えなさい」


「もっと無理です」


「何が足りないの」


「資格と経験と、断る自由です」


「最後の一つはあるわ。私が聞かないだけ」


リゼッタは紙を畳み、満足そうに扉へ向かった。


「明日、父上に会わせる。あなたを王家付き道具師にするわ」


「なりませんよ」


「給金は今の三倍」


「今は見習いで、ほとんど無給です」


「では十倍」


「ゼロに何を掛けてもゼロです」


扉の前で、リゼッタの足が止まった。


商才に優れた王女は、その計算だけ少し苦手だった。


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