第六十二話 夜冕の姫は、負け方を知らなかった
黒枝宿場を出て三日目、緑の太陽が一回り大きく見えた。
夜冕城ヴィレスタは、黒い城壁の向こうに緑晶の塔を林立させていた。
遠目には険しい要塞だったが、門をくぐると印象が変わる。通りの両側には布屋、香辛料店、武具店が並び、頭上には翼を持つ魔族向けの着地台が張り出している。角へ飾り鎖を巻いた若者が屋台の焼き肉を食べ、尻尾の長い子供たちが水路を飛び越えていた。
通りの中央を荷車が走る。
その上を、小型の翼竜が郵便籠を下げて飛んでいく。
尽が想像していた魔王の都とは違った。
もっとも、魔王の都を想像した材料は、ゲームと漫画しかない。
「魔族は人を見たら襲うと思っていたか」
ナージャに聞かれ、尽は正直にうなずいた。
「少しだけ」
「人族も、こちらを見れば同じ顔をする」
「食べるんですか」
「高く売れる香辛料を持っていれば、商人が食いつく」
「そっちですか」
ナージャは先に行った。
商隊は調薬院へ向かい、尽と王都通信器だけが宮殿へ連れていかれた。別れ際、頭巾の薬師は約束どおり暮眠苔の処理札をくれた。
煮出すのではなく、乾燥させた粉を油脂へ混ぜる。魔力を消す薬ではない。体内へ入った魔力の流れを一時的に鈍らせ、急激な過負荷を防ぐ。その代わり、多く使えば手足まで眠ったように動かなくなる。
尽が求めていた効果に近い。
薯片を食べたあと、一度に噴き出す力を緩やかにできれば、倒れずに済むかもしれない。
ただし、今は実験できない。
最後の一袋は、制服の内側へ隠してある。帰る方法が見つかるまで、軽々しく使うわけにはいかなかった。
宮殿は、街の最奥にそびえる黒角城だった。
名のとおり、左右の尖塔が巨大な角のように湾曲している。城壁へ使われた石は真っ黒だが、窓は大きい。緑陽の光が入る回廊には赤や金の絨毯が敷かれ、陰気というより派手だった。
通信器は宮廷技師たちへ渡された。
五人の技師が箱を囲み、蓋を開ける。
「逆転歯を反転させたのか」
白髭の技師長が言った。
「はい。排気羽根が吸気していたので」
「術流路には触れていないな」
「読めませんから」
「読めぬ?」
技師長は初めて尽の顔を見た。
「では、どうやって熱流の向きを見た」
尽は短い木片を出した。
「これを孔へ近づけました」
技師の一人が、冗談だと思ったらしく笑った。
技師長は笑わなかった。木片を受け取り、排気孔へ近づける。
「術式の診断盤を使えば、五分で分かる」
「木片なら五秒です」
「診断盤は故障箇所も表示する」
「今回、表示する箱そのものが故障していました」
技師長は黙った。
怒らせたかと思ったが、彼は弟子へ木片を渡した。
「工具箱へ入れておけ」
「本気ですか、師匠」
「高価な道具ほど、壊れた時に役立たん。覚えておけ」
検分が終われば解放されると思っていた。
ところが、王女殿下は訓練場にいるので待てと言われた。
一刻経っても来ない。
二刻目に、遠くから怒鳴り声と木剣の音が聞こえ始めた。
案内役の侍従は何も聞こえないふりをしている。
尽は廊下の長椅子から立った。
「帰ってもいいですか」
「殿下がお呼びです」
「呼んだ方が来ないのですが」
「訓練が長引いております」
「いつ終わります?」
「殿下が満足なさるまで」
それは時刻ではない。
尽は窓から訓練場を見下ろした。
昨日、水晶板に映っていた少女が、今度は三人を相手に木剣を振るっている。踏み込みは速い。身体もよく動く。だが、対する騎士たちは不自然だった。
剣を受ける直前に腰を引く。
打ち込める隙を見逃す。
少女が体勢を崩せば、追撃せず待っている。
下手ではない。むしろ全員が上手いからこそ、負けるための動きが揃いすぎていた。
少女の木剣が騎士の胸当てへ当たる。
騎士は派手に吹き飛び、二回転して倒れた。
いくら何でも飛びすぎだ。
「あの人、強いんですか」
尽は侍従へ聞いた。
「当然です。リゼッタ殿下は夜冕王家随一の剣才をお持ちです」
「そうではなく、三人の方です」
侍従は答えなかった。
訓練場から声が飛んでくる。
「そこ! 何をこそこそ見ているの!」
リゼッタがこちらを指していた。
見物していた侍女も衛兵も、一斉に尽から離れた。
「カザマ・ジンね。ちょうどいいわ。降りてきなさい!」
ちょうどよくはない。
しかし、逃げ道もなかった。
訓練場へ下りると、リゼッタは近くで見るより小柄だった。尽と同じ年頃か、少し下に見える。艶のある黒髪を高く結い、額の左右から短い角が出ている。訓練着は動きやすく仕立てられていたが、金糸の縁取りだけで庶民の一年分ほどしそうだった。
「通信器を直した褒美をあげる」
「旅費と食事はいただきました」
「あれは来させるための費用。褒美ではないわ」
「では、暮眠苔を調べられる作業場を貸してください」
「面白くない」
「僕には必要です」
「先に、あなたの腕を見せなさい」
木剣が一本、足元へ投げられた。
尽は拾わなかった。
「魔法は使えません」
「聞いた。剣も使えない?」
中学まで剣道部だった。大会で目立った成績はない。異世界へ来てから師匠に習ったのも、剣ではなく道具作りだ。
だが、相手がどれほど強いかも分からない場所で、王女を殴る理由はもっとなかった。
「王女様に怪我をさせたら、捕まりませんか」
周囲の騎士たちが、揃って視線を逸らす。
リゼッタの額に青筋が浮いた。
「私が負けると思っているの?」
「勝敗より、その後の手続きが気になります」
「私が許す。拾いなさい」
仕方なく木剣を取る。
重さは竹刀よりある。刃に当たる部分が厚く、重心は鍔より少し前だ。
リゼッタは片手で剣を構えた。
「一度でも私へ当てたら、作業場でも何でも貸してあげる」
「負けたら?」
「私の道具係になる」
「条件が釣り合っていません」
「始め!」
本人が勝手に合図した。
初撃は速かった。
上段からの一振りに見せ、途中で手首を返して脇へ走らせる。尽は半歩下がり、剣先だけで受けた。腕が痺れる。
二撃目は足を狙う。
三撃目は肩。
力も速度も、学校の部活とは比べものにならない。魔法を使っていないとしても、この世界の人間は基礎体力が違う。
尽は受け続けた。
勝とうとしたのではない。
リゼッタの踏み込みを見ていた。
彼女は攻撃へ入る時、必ず左の踵が浮く。右足で地面を蹴り、身体ごと前へ出る。その勢いを知っている騎士なら、正面で受けず、横へ流して転ばせられる。
誰もそうしなかった。
王女が打ちやすい場所へ、わざと剣を置いていた。
「逃げてばかりね!」
リゼッタが踏み込む。
尽は右へ行くふりをして、左へずれた。
少女の目が追う。
視線へ釣られ、剣先がわずかに外へ開いた。
尽は打ち込まない。木剣の腹を相手の鍔へ当て、そのまま円を描くように押した。
支点はリゼッタの手首。
力を競わず、進む向きを少し変える。
勢いの余った彼女は一歩、二歩と前へ出た。尽はその足首の前へ、自分の踵を置く。
リゼッタの身体が宙に浮いた。
地面へ落ちる直前、尽は襟を掴んだ。
完全には支えきれない。
二人まとめて砂地へ転がった。
尽が下になり、背中を強く打つ。
胸の上にはリゼッタが乗っていた。
訓練場が静まり返る。
「当ててはいません」
尽は痛みを堪えながら言った。
「ですから引き分けで」
リゼッタは返事をしない。
顔が赤い。
怒っているのか、恥ずかしいのか分からない。
彼女は飛び退くように立ち上がり、木剣を拾った。
「もう一度!」
二度目は、さっきの倍速かった。
けれど、怒ったせいで動きが大きい。尽は正面から受けず、手元へ木剣を添えて軌道を逸らした。リゼッタの剣が砂へ刺さる。
尽の剣先は、彼女の肩で止まった。
今度は誰にも言い逃れできない。
「……なぜ」
リゼッタが呟いた。
「魔力は感じなかった。身体強化も、加速術も使っていない。なのに、なぜ私の剣が当たらないの」
「力を入れる前に、動く方向が分かるからです」
「近衛は今まで、一度もそんなことを言わなかった」
尽は周りを見た。
騎士たちは一人残らず、遠い空を見ている。
ここで黙っていれば、平和に終わるかもしれない。
しかし、リゼッタはもう気づきかけていた。
「皆さん、分かっていたと思います」
「では、なぜ教えなかったの」
誰も答えない。
先ほど派手に二回転した騎士の膝が震えている。
リゼッタは一人ずつ顔を見た。
「手加減、していたの?」
「殿下の御身に万一があっては――」
騎士長が口を開いた瞬間、彼女の顔から赤みが消えた。
「答えなさい。私は、今まで何回勝った?」
「本日の訓練では十七勝を」
「違う。本当に勝ったのは何回」
騎士長は黙り込んだ。
リゼッタの木剣が、手から落ちた。
尽はまずいと思った。
怒鳴られる方がまだよかった。彼女は怒らず、ただ自分の両手を見ている。
「では、私が王家随一の剣才だという話も」
侍従まで目を伏せた。
「皆で、私を笑っていたのね」
「違います、殿下!」
「何が違うの!」
緑晶の窓が震えた。
無意識に魔力が漏れたらしい。尽の髪が逆立ち、足元の砂が細く渦を巻く。
リゼッタは木剣を蹴り飛ばし、訓練場から走り去った。
残された騎士たちは、尽を見た。
好意的な顔は一つもない。
騎士長が低い声で尋ねる。
「なぜ、二度目に勝った」
「一度目で終わらせてもらえなかったので」
「なぜ、手加減のことを言った」
「本人が聞いたからです」
「黙るという選択はなかったのか」
「皆さんが今まで選び続けた結果が、あれでしょう」
騎士長は苦い顔をした。
反論はしなかった。
尽は木剣を武器棚へ戻した。頼んでいた作業場の話を、今ここで持ち出す勇気はない。
帰ろうとすると、黒い制服の侍女が入口を塞いだ。
「カザマ・ジン様。殿下より伝言です」
「もう?」
走り去ってから、まだ一分も経っていない。
「『逃げたら処刑する』とのことです」
騎士たちが息を呑んだ。
侍女は続ける。
「続いて、『処刑は言いすぎた。牢へ入れる』と」
尽は黙って聞いた。
「さらに、『牢も違う。客室へ閉じ込めておけ』と訂正がございました」
「結局、僕はどうすれば」
「本日は城へお泊まりください。作業場も用意するそうです」
褒美は約束どおり手に入った。
どう考えても、余計な物まで一緒に付いてきている。
その夜、尽が借りた作業場で暮眠苔を油へ混ぜていると、扉の外から小さなくしゃみが聞こえた。
開けても、廊下には誰もいない。
ただ、角を隠しきれない黒髪が、柱の向こうへ一瞬だけ引っ込んだ。
尽は扉を閉めた。
しばらくして、また同じくしゃみがした。
夜冕の王女は負け方を知らない。
だから、負けた相手をどう扱えばいいのかも、まだ決められずにいた。




