第六十一話 魔術の箱は、叩く前に蓋を開けろ
緑色の光を漏らす箱を前に、宿の者たちはきれいに壁際へ退いた。
尽だけが床へしゃがみ込む。
箱は両腕で抱えられるほどの大きさだった。黒木の外装へ銀色の帯が巻かれ、四隅には獣の角を削った脚が付いている。正面にあるのは曇った水晶板と、大小七つのつまみ。箱の奥では小さな歯車が忙しく回り、三呼吸ごとに甲高い音を立てた。
「先に聞きます。いつからこうなりましたか」
伝令は汗を拭った。
「黒枝へ着く少し前だ。最初は映像が乱れた。冷却環を回したら、蓋が閉じなくなった」
「誰かが開けました?」
「途中の関所で技師が一度。石粉を払っただけだ」
「部品は替えていない?」
「替えていない。たぶん」
最後の二文字が弱い。
尽はすぐには触れなかった。まず箱の周りを一周し、熱が強い場所へ手の甲を近づける。右側面だけが熱い。左側は冷たいままだ。
冷却の力が足りないのなら、全体が熱を持つはずだった。片側だけということは、熱を運ぶ流れがどこかで止まっている。
「水は掛けるなと言っていましたね」
「王都の技師から言われている。割れた導晶へ水が入れば、箱ごと弾ける」
「では、この光は爆発の前触れですか」
「分からんから慌てている!」
伝令の声が裏返った。
ナージャが剣の鞘で、尽の肩を軽く押した。
「直せるのか」
「まだ分かりません。壊し方なら三つほど思いつきました」
「それは胸にしまっておけ」
尽は工具袋から細い木片を取り出した。緑の光が漏れている隙間へ差し込むと、木片の先が右へ引かれる。箱の内部では、見えない風が一定方向へ流れていた。
ところが背面の排気孔では、木片が外ではなく内側へ吸われる。
吸気口が二つあり、出口がない。
これでは箱の中で熱い空気を混ぜ続けているだけだ。
尽は伝令を見上げた。
「関所の技師が何をしたか、本当に聞いていませんか」
「石粉を払い、欠けていた歯を一枚足したと……いや、待て。部品は替えていないと言ったのは、主要な導晶の話だ」
「歯車は替えていますね」
伝令は目を逸らした。
箱の奥に見えた一枚だけ逆向きの歯車は、修理された箇所だった。元の歯車がどちらへ回っていたかを確かめず、形の合う物を押し込んだらしい。そのせいで排気羽根が逆回転している。
「蓋を開けます」
「爆ぜないか」
「開けなければ、たぶん爆ぜます」
「たぶんを付けるな!」
「初めて見る機械に断言する方が危ないでしょう」
伝令は反論しかけ、口を閉じた。
魔術器具の封印を外すには、登録された魔力が必要だった。尽には扱えない。伝令が紋章へ指を当て、ナージャが念のため全員を食堂の外へ出す。
残ったのは三人だけだ。
銀の留め具が外れた瞬間、蓋が指一本分だけ跳ね上がった。熱気が噴き出し、伝令が尻餅をつく。
尽は顔を背けながら蓋を押さえ、少しずつ熱を逃がした。
中には、淡く光る緑晶を中心として三重の金属環が組まれていた。細い銀管が血管のように這い、外周には十二枚の羽根が並んでいる。魔法道具というより、小型の通信機と冷却装置を一つへ詰め込んだ機械に見えた。
ただし、配線の代わりに光る術式が走っている。
尽はそれを読めない。
読めなくても、羽根の向きは分かる。
「この歯車を裏返します。大きさは同じですが、歯の傾きが逆です」
「外せるのか」
「軸を抜けば。でも、その前に晶石を止めてください」
「通信器を止めれば、王都との定時連絡に遅れる」
「爆発したら永遠に遅れます」
ナージャが伝令の肩へ手を置いた。
「止めろ」
伝令は渋々、三つのつまみを順に戻した。
光が弱まる。
歯車は熱で膨らみ、軸へ食いついていた。素手では動かない。尽は食堂から氷水と油を借り、軸だけを冷やし、歯車の外周へ温めた油を薄く塗った。金属の膨張差は小さい。それでも、びくともしなかった部品がわずかに緩む。
ナージャが工具を握ろうとした。
「力任せに引かないでください。軸が曲がります」
「では、どうする」
尽は二本の匙と木片で小さな引き抜き具を作った。左右から均等に力を掛けると、歯車は乾いた音を立てて外れた。
裏返して組み直す。
伝令が再び魔力を流すと、十二枚の羽根が今度は反対へ回り始めた。背面の孔から熱い風が吐き出される。
箱の緑光が落ち着いた。
蓋も、何事もなかったように閉じる。
「直った……のか?」
「通信してみないと分かりません」
伝令は水晶板を布で拭き、中央のつまみを回した。
水晶の中で緑の霧が揺れる。
しばらくして、黒い壁と、床に転がる大勢の騎士が映った。
伝令は凍りついた。
尽も言葉を失った。
戦場へ繋がったのかと思ったが、倒れた騎士たちは全員まだ動いている。ある者は腰を押さえ、ある者は鼻血を拭き、別の一人は気づかれないよう床を這って画面の外へ逃げようとしていた。
その中央で、短い黒角の少女が木剣を肩へ担いでいる。
「遅い!」
少女の声で水晶板が震えた。
伝令はその場へ膝をついた。
「リゼッタ殿下! 申し訳ございません。黒枝の手前で通信器に故障が生じまして」
「故障報告は聞いた。直ったように見えるけれど、王都技師は黒枝にいないはずよね」
彼女の目が水晶越しに尽を捉えた。
「後ろの、見たことのない服を着た者。名は?」
尽は自分の胸を指した。
「僕ですか」
「ほかに誰がいるの」
「風間尽です」
「職は」
答えに詰まった。
高校生と言っても通じない。鍛冶師と名乗るには、親方の下へ来てまだ日が浅い。旅人では、今までの修理を説明できない。
「見習いの道具職人です」
水晶の向こうで、少女の片眉が上がった。
「魔術師ではないの?」
「違います」
「響喉獣を魔術なしで退け、薬草を救い、王都通信器まで直したのに?」
黒枝から報告が届くのが早すぎる。尽がナージャを見ると、彼女はわずかに肩をすくめた。伝書獣は人の足より速いらしい。
「音と風を使っただけです」
「それを普通は風魔法と呼ぶのよ」
「風魔法が使えないので、車輪を回しました」
倒れていた騎士の一人が吹き出した。
リゼッタが振り返る。
騎士は急に咳き込んだ。
「カザマ・ジン。通信器と一緒に王都へ来なさい。修理の説明を、宮廷技師へ直接すること」
命令口調だった。
尽は薬師を見る。暮眠苔はもともと夜冕城の調薬院へ運ばれる。行き先は同じだ。
「旅費は出ますか」
食堂が静まり返った。
伝令の顔から血の気が引く。
水晶の向こうで、リゼッタは二度瞬きをした。
「王女の招集に、最初に聞くことがそれ?」
「王都まで歩くと何日かかるか知らないので」
少女は口元へ手を当てた。
怒らせたかと思った。
次の瞬間、彼女は声を上げて笑った。
「出す。食事も三回付ける。だから必ず来なさい」
「三回」
御者が横から口を挟んだ。
「殿下、こいつには荷の保存代として二回分をこちらが付けています」
「では五回食べればいいわ」
「そんなに食べません」
「来ない者は食べられないでしょう?」
水晶板が暗くなった。
一方的に通信を切られたらしい。
伝令はゆっくり立ち上がり、尽を見た。
「殿下に旅費を尋ねた者を、私は初めて見た」
「聞いてはいけなかったんですか」
「いけないとは誰も決めていない。誰も聞かないだけだ」
ナージャは笑いを堪えながら、剣を腰へ戻した。
「よかったな。王都までの道に迷う心配はなくなった」
尽は直った箱を見た。
目的地は最初から赤曜側だった。
地図を逆さに見て碧曜側へ来てしまい、帰る道を探すはずが、魔族の王女に呼び出された。
間違いが一つ片づくたび、別の間違いへ進んでいる気がする。
翌朝、黒枝宿場の門前には王都から来た騎馬護衛が待っていた。
引き返すための馬ではない。
夜冕城へ連れていくための馬だった。




