第六十話 黒枝宿場では、薬草より先に嘘が蒸れた
門が閉じると、宿場の空気が変わった。
露店の呼び声が止まり、荷役人が荷車を壁際へ寄せる。食堂の窓には板が下ろされた。誰かが鐘を鳴らす代わりに、木槌で柱を四回叩いた。
黒枝宿場の警戒合図だった。
「全員、荷台から降りろ」
門番長が言った。
「名前、出発地、荷の持ち主を別々に確認する。相談して答えるな」
乗客が一人ずつ離される。
尽は一番端の机へ連れていかれた。
「カザマ・ジン。氷風城の鍛冶工房に滞在。赤曜側へ行く予定でした」
記録係の角が動いた。
「この車は碧暮行きだ」
「間違えました」
「何を」
「地図の向きと、集合旗の印です」
「誰かに乗れと言われたか」
「言われていません」
「首輪を見つけたのは」
「ナージャさんです。僕は獣を追い払う音を作りました」
「魔術師か」
「違います」
「では、何で作った」
尽は削れた羽骨と銅管を机へ置いた。
記録係は長い間、それを見た。
「これは何の術式だ」
「車輪で擦っただけです」
「術式は」
「ありません」
相手の顔に、疑いが一つ増えた。
魔術を使ったと言えば話が早かったかもしれない。だが、使えないものを使えることにはできない。
門番長は別室でナージャの話を聞き、御者の記録と照合した。灰毛の夫婦、薬師、荷役人の証言も少しずつ違ったが、響喉獣が二頭いたこと、尽が高い音を作ったこと、首輪を切ったのがナージャであることは一致した。
「黒枝の印だから、黒枝の者が犯人だとは限らん」
門番長は首輪を卓上へ置いた。
「だが、うちの印を使った者は探す」
門は完全封鎖にならなかった。外へ出る車を止め、入ってきた者を記録し、宿場内の荷扱い札だけを一時回収する。
犯人が内側にいると決めつければ、無関係な旅人まで閉じ込める。外から印を持ち込まれた可能性も残す。その判断は、尽がセレノ渡りで見た警戒手順と似ていた。
違ったのは、門番長の机に短剣が三本刺さっていたことだ。
過去に話し合いだけでは済まなかったのだろう。
確認が終わるまで、商隊は中央荷庭へ移された。
黒枝宿場は、巨大な枯木の根元に作られている。三本の黒い根が天然の城壁となり、根の内側へ宿、倉庫、薬草乾燥塔が積み重なっていた。碧曜の光は弱いが、窓辺の紫灯苔が道を照らしている。
住民も一様ではない。
角のある魔族。
夜目の利く獣人。
赤曜側から来た人族商人。
顔の半分を金属で覆った鬼族の鍛冶師。
尽の制服姿を珍しがる者はいたが、石を投げる者はいなかった。多くは荷の到着時刻と、門がいつ開くかの方を気にしている。
「ぼんやりするな」
御者が呼んだ。
暮眠苔の包みから、白い蒸気が上がっていた。
「燃えてますか」
「燃えた方がましだ。蒸れてる」
布包みを開くと、灰緑色だった苔の一部が黒く変わっている。中心へ手を近づけると熱い。湿った薬草が密集し、呼吸熱を逃がせず発酵していた。
道中で響喉獣に襲われた際、荷崩れを防ぐため包みを強く締め直した。それで通気孔が塞がったらしい。
「全部広げろ」と薬師が言う。
「荷庭では場所が足りない」と御者。「風に当てすぎれば薬効が抜ける」
「このままなら中から腐る」
二人が言い争う間にも、別の包みが膨らんでいく。
尽は荷台の構造を見た。
床板。
横木。
交換用の車輪枠。
空になった水樽が二つ。
「全部を地面へ広げなくても、層の間へ空気を通せばいい」
御者が振り向く。
「簡単に言うな。網棚は宿場の乾燥塔だ」
「網がなくても、隙間は作れます」
尽は空樽の輪を外した。長い木片を横木へ渡し、その上へ包みを薄く分けて置く。包み同士が触れないよう、削った枝を格子に組んだ。
風は弱い。
そこで灰尾車の後輪を浮かせ、車軸へ小さな板羽を付けた。人が踏み棒を動かせば、後輪と一緒に板羽が回る。風は強くないが、格子の下から上へ抜ける。
「誰が踏む」と御者。
尽は周囲を見た。
商隊の全員が、目を逸らした。
「旅費に入っている修理は二回までです。これは荷の保存なので、別料金です」
御者が額を押さえた。
「氷風城で何を習ってきた」
「働く前に条件を決めろと」
「いくらだ」
「僕が踏みます。その代わり、暮眠苔を少し分けてください。使い方も教えてほしい」
頭巾の薬師が、初めて尽を正面から見た。
「何に使う」
「急に流れ込む魔力を、ゆっくりにできないか試します」
「自殺の相談なら断る」
「死なないための相談です」
薬師は少し考え、傷んでいない苔を一房だけ取り分けた。
「夜冕城の調薬院まで来るなら、扱いを見せる。ここで素人に煎じ方だけ教える方が危ない」
行く予定のなかった場所が、また一つ近くなった。
尽は踏み棒へ足を掛けた。
板羽が回り、苔の間から温い空気が上がる。最初の半刻で中心温度が下がった。黒変した部分は救えなかったが、残りは腐敗を免れた。
踏み役は交代制になった。
料金を払いたくない御者が自分で踏み、十数える前に荷役人へ代わる。灰毛の夫婦も手伝った。薬師は苔を返しながら、何度も温度を確かめる。
尽は温度計を持っていない。細い蝋棒を包みの中心へ差し、柔らかくなる位置でおおよその熱を比べた。
二巡目の途中、ナージャが戻ってきた。
「見つかった」
宿場の北倉で、荷扱い札が二枚なくなっていた。盗まれたのは数日前。倉番は紛失を隠し、帳面上では破損処分にしていた。
門番たちは札の番号から、最近通った荷車を調べた。そのうち一台が、響喉獣を捕らえるための肉籠と革紐を買っている。
持ち主は宿場の外に住む回収屋だった。
事故や魔獣襲撃のあと、道へ残った荷を安く引き取る商売をしている。近頃は事故が少なく、買い取る荷も減っていた。
「だから事故を作った」と尽。
「本人は否定してる。だが、家から同じ革と餌籠が出た」
「倉番は」
「紛失を隠したことは認めた。回収屋から金を受け取ったかは調べてる」
黒枝の印は、黒枝全体の犯行ではなかった。
一人の倉番が小さな失敗を隠し、事故で儲かる者がその穴を使った。
門番長は夕刻に門を開いた。回収屋と倉番は拘束されたが、裁きは宿場評議所で行う。商隊には首輪と証言の控えが渡された。
話が片づいた頃、暮眠苔の熱も下がっていた。
御者は保存できた包みの数を確認し、尽の旅札へ追加報酬を書いた。
〈荷痛み軽減。調薬院まで同乗可。食事一日二回。〉
「一日二回だけですか」
「三回食うなら働け」
「育ち盛りです」
「さっきまで車輪を踏んでた奴が元気に言うな」
宿の食堂で出たのは、黒麦の平たいパンと、紫色の茸を煮込んだ汁だった。見た目は毒々しい。匂いは味噌汁に少し似ている。
尽が匙を止めていると、ナージャが先に飲んだ。
「毒なら、私が先に倒れる」
「毒を疑ったんじゃありません」
「では何だ」
「懐かしい匂いがしました」
口に入れる。
味噌ではない。茸の発酵味と、獣骨の塩気だった。それでも温かい汁が喉を通ると、岩道で聞いた母の声が少し遠くなった。
食後、宿の玄関で騒ぎが起きた。
黒銀の外套を着た伝令が、両手で箱を抱えて入ってくる。箱の隙間から緑の光が漏れ、内部で何かが激しく明滅していた。
「水を掛けるな!」
伝令が叫ぶ。
宿の主人が持っていた桶を止めた。
「王都通信器だ。冷却環が閉じない!」
箱の表面には、夜冕城ヴィレスタの紋章がある。
ナージャが尽を見る。
尽は食べかけのパンを置いた。
「見るだけです」
「さっきもそう言って、送風棚を作った」
「触る前に、誰が開けたか聞きます」
伝令は箱を床へ置いた。緑の明滅が一度強くなり、食堂の灯りがまとめて暗くなる。
尽には魔法が使えない。
それでも、閉じない蓋と熱を持つ継ぎ目なら見える。
箱の奥で回る小さな歯車は、一枚だけ逆向きだった。
その頃、遠い夜冕城の訓練場では、一人の少女が十七人目の近衛騎士を床へ転がしていた。
「また手加減したでしょう!」
短い黒角の少女が怒鳴る。
倒れた騎士は、必死に首を横へ振った。
「滅相もございません、リゼッタ殿下」
少女は剣を突きつけた。
「では、なぜ毎回同じ場所で転ぶのです!」
誰も答えなかった。
そこへ、黒枝宿場から遅延報告を持つ伝書獣が飛び込んできた。
報告の端には、予定外の一文があった。
〈氷風城所属、素性不明の人族少年一名。魔術を使わず響喉獣を退け、暮眠苔の損失を防止。王都通信器の故障確認中。〉
リゼッタは紙を二度読んだ。
それから、床に倒れた騎士たちを見回す。
「魔術を使わず?」
今度は誰も、彼女の視線を受け止めなかった。
リゼッタは笑った。
近衛騎士たちにとって、その日の訓練で一番恐ろしい顔だった。




