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第五十九話 母の声で呼ぶ獣に、返事をしてはいけない

呼び出し音は、三度目で止まった。


荷車の車輪だけが鳴る。


軸受けは正常だった。一定の間隔で、石の継ぎ目を踏んでいる。


尽は息を止め、次の音を待った。


来ない。


ナージャは剣を抜かなかった。柄へ手を置いたまま、御者へ二本指を立てる。速度維持。停車するな、という合図らしい。


後ろの荷車にも、同じ合図が送られた。


「響喉獣だ」


ナージャが声を落とした。


「最初は鐘や笛を真似る。誰かが反応すると、その声を覚える。次は知っている声で岩陰へ呼ぶ」


「人の記憶を読むんですか」


「そこまで賢くない。旅人が自分で教えるんだ。名前を呼ぶ。返事をする。仲間同士で、今のは誰の声だと騒ぐ」


獣が心を読むわけではない。


人が欲しい答えを、自分で獣へ渡してしまう。


尽は指輪から手を離した。


もう一度、電話が鳴った。


今度は近い。


受話器越しのように、少し音が潰れている。神戸で聞いた公衆電話と同じ二拍。短く切れ、また二拍。


違う。


同じに聞こえるだけだ。


電話の呼び出し音は、こんなふうに息をしない。二拍目の終わりに、湿った空気が喉を抜ける音が混じっていた。


「止まらないで」


女の声がした。


日本語だった。


「尽、聞こえてる?」


母の声だった。


右手が動きかけた。


電話亭のガラス。


雨粒。


買ったばかりのポテトチップス。


受話器の向こうで、遅くなるなら気をつけて帰れと言った声。


尽は口を閉じた。


今の声には、関西の訛りがなかった。


それでも胸が痛んだ。


偽物だと分かることと、聞きたくないことは別だった。


荷台の反対側で、灰毛の獣人が小さく呻いた。隣にいた妻が、すぐ彼の口を手で塞ぐ。


岩壁から、少女の声がした。


「お父さん」


灰毛の男の肩が震えた。


「足が痛い。こっちへ来て」


声は上手かった。幼い響きだけなら、本物と区別できない。


だが内容が足りない。


名前を呼ばない。家族だけが知る出来事も言わない。相手が返事をするまで、どこにでもいる子供の言葉を繰り返している。


ナージャが灰毛の夫婦へ木札を見せた。


〈声へ答えるな。互いの手を離すな。〉


妻が夫の手首を握る。男も目を閉じた。


荷車は進み続ける。


右の岩陰に、青緑の影が走った。


次は左。


同じ個体が道の下を潜ったのか、二頭いるのか。尽には分からない。


「どこまで追ってきますか」


「縄張りの端まで。普通なら半刻だ」


「普通でない時は」


「腹が減っている時か、人に飼われている時だ」


ナージャは前方を見る。


道が狭くなっていた。片側は岩壁、もう片側は暗い裂谷。襲うなら、その先の曲がり角だ。


御者の鞭が一度鳴る。


返事のような音だった。


岩陰から、鞭の音が二度返った。


灰尾獣が怯え、荷車が左右へ揺れる。


「鞭を使うな!」


ナージャが叫んだ。


御者はすぐ鞭を腰へ差した。しかし、響喉獣はもう灰尾獣の鳴き声を覚えていた。


前方から、同じ鳴き声がする。


一頭。


道の下から、もう一頭。


荷車を引く灰尾獣が止まりかけた。仲間がいると思ったのか、敵だと思ったのかは分からない。耳を伏せ、前脚で地面を掻いている。


「このままでは曲がり角で詰まる」


御者が言った。


「追い払う音は?」と尽。


「火鐘の高音を嫌う。だが鐘は後ろの車だ」


後続との間には荷車二台分の距離がある。声で頼めば、その声も覚えられる。


尽は工具袋を開いた。


薄い鉄板。


軸受け用の輪。


長さの違う銅管が三本。


風見枠の交換用羽骨。


火鐘ほど大きな音は作れない。


必要なのは音量だけではない。獣が嫌う高さを出せればいい。


「ナージャさん。火鐘は、どんな音ですか」


彼女は鞘を指で二度叩き、そのあと爪で金具を引っかいた。


高く、耳の奥へ刺さる音。


尽は銅管を順に指ではじいた。一番短い管が近い。けれど、それだけでは弱い。


鉄板の端を曲げ、管を二本並べる。間へ薄い羽骨を挟み、車輪の回転で擦れる位置に仮留めした。


「何を作ってる」


御者が聞く。


「音を出す物です」


「止めないと付かんぞ」


「止めずに付けます」


「落ちたら轢く」


「落ちないよう、そっちの紐を持ってください」


荷台から身を乗り出す。ナージャが尽の帯を片手で掴んだ。


車輪のすぐ上へ手を伸ばす。


石の継ぎ目で車体が跳ねた。指先が輪へ触れそうになり、尽は腕を引く。


「止めた方が早い」


「止まったら囲まれます」


「落ちたら私が親方に殺される」


「僕が先に轢かれます」


「それで許してもらえると思うな」


二度目は、揺れの周期を数えた。


車輪が石の継ぎ目を踏む。


一。


二。


次の跳ね上がりの前に、留め具を押し込む。


羽骨が車輪の外輪へ軽く触れた。


キィィ、と細い音が伸びた。


乗客全員が顔をしかめる。


「うるさい!」


頭巾の薬師が、思わず叫んだ。


岩陰から、まったく同じ声が返る。


「うるさい!」


今度は誰も返事をしなかった。


青緑の影が一つ、道へ飛び出した。


犬ほどの大きさ。前脚は短く、後脚が異様に長い。頭から胸までが半透明の喉袋で繋がり、その内側で何枚もの薄膜が震えている。


響喉獣は口を開け、少女の声と母の声と灰尾獣の鳴き声を一度に吐いた。


重なった音は、もはや誰のものでもなかった。


短い銅管が高音を鳴らし続ける。


響喉獣の喉袋が縮んだ。前脚で耳の脇を掻き、道の中央で身を捩る。


ナージャが剣を抜いた。


斬りかからない。刃の腹で地面を叩き、裂谷と反対側へ追う。


もう一頭が荷車の下から飛びついた。


尽は鉄板を引いた。銅管が車輪へ強く押しつけられ、音が一段高くなる。


二頭目は空中で身体を丸め、荷台へ届かず転がった。


女護衛の剣が、その首元へ止まる。


薄い革輪が巻かれていた。


自然の蔓ではない。革の内側に、黒い金属片が縫い込まれている。


響喉獣は首輪を引かれた痛みで暴れた。ナージャは刃先を返し、留め紐だけを切る。


革輪が落ちた。


獣は一瞬動きを止めたあと、もう一頭を追って岩場へ消えた。


声も遠ざかる。


最後に聞こえたのは母の声だった。


「気ぃつけて帰り」


今度だけ、訛りがあった。


尽は返事をしなかった。


音が完全に消えてから、車輪の高音装置を外した。羽骨は半分まで削れ、銅管には黒い筋が残っている。


常用できる仕組みではない。車輪も傷める。緊急時に数分使うだけだ。


御者は耳を押さえながら言った。


「次に作る時は、外にだけ聞こえるようにしてくれ」


「できたら苦労しません」


ナージャは拾った首輪を布で包んだ。


黒い金属片には、小さな刻印がある。


三本の枝を、輪で束ねた印。


「黒枝宿場の荷扱い印だ」と彼女は言った。


「宿場の人が飼っているんですか」


「印なら盗める。刻印も真似られる」


尽は首輪の留め穴を見た。


擦れ方が新しい。長く飼われていた獣ではない。捕まえたばかりの個体へ無理に付けたのだろう。


誰かが商隊を止めるため、道へ放した。


狙いが暮眠苔なのか、別の荷なのかはまだ分からない。


尽は帳面へ書いた。


〈響喉獣二頭。人為首輪一。黒枝印あり。使用者は未確認。〉


母の声については、少し迷ってから別の頁へ書いた。


〈日本語を再現。最初は訛りなし。最後のみ一致。反応を聞き、修正した可能性。〉


書き終えると、手が少し震えていることに気づいた。


ナージャは何も聞かなかった。


代わりに、水筒を渡した。


「返事をしなかったな」


「本物じゃないので」


「本物に聞こえた顔をしていた」


尽は水を一口飲んだ。


「だから、返事をしませんでした」


荷車は再び進む。


曲がり角を越えると、裂谷の向こうに黒い木組みの塔が見えた。塔の周囲へ、三本の巨大な枯れ枝が橋のように伸びている。


黒枝宿場だった。


入口の警備兵は、ナージャが出した首輪を見るなり、門を閉めた。


歓迎ではない。


響喉獣を放った者が、宿場の内側にいるかもしれなかった。

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