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第五十八話 地図を北に向けたら、赤い国が逃げた

出発の日、オルドの工房は朝から水漏れしていた。


二階の温水槽ではない。隣の染物屋が、洗浄樋の栓を閉め忘れたのだ。壁際から流れ込んだ青い水が床を横切り、工具棚の手前まで来ている。


尽は荷物を背負ったまま、雑巾を持った。


「商隊は」と職人が聞く。


「まだ余裕があります」


「何刻」


「鐘一つ分」


「それを余裕とは言わん」


皆で排水溝を開け、濡れた木箱を持ち上げた。青い染料が尽の靴底へ付いた。


オルドは壁の亀裂を粘土で塞ぎながら言った。


「行け。こっちは直す」


「床板の下まで入っています」


「弟子一人いなくなって止まる工房なら、先に潰した方がいい」


尽は雑巾を置いた。


入口で振り返る。


オルドはもう壁しか見ていなかった。


「着いたら、連絡します」


「着く前に壊した物も書け」


それが見送りだった。


中央広場へ走る。


氷風城には、同じ時刻にいくつもの商隊が出る。赤曜側へ向かう香料商隊。碧曜側へ向かう薬草商隊。氷環沿いを巡る鉱石隊。大型の荷車は広場へ入れず、三つの門前へ分かれて待つ。


尽は右上へ向かった。


地図を北に向けた時の、右上。


そこに三日月印の旗があった。


荷札と同じ印。


御者は尽の札を受け取り、名前と工具袋を確認した。


「修理工、カザマ・ジン。旅費は車軸点検二回、灯具修理一回で相殺」


「はい」


「武器は」


「小刀と工具だけです」


「魔法は」


「使えません」


御者が顔を上げた。


「正直だな」


「使えると言って、途中で試されたら困るので」


「それもそうだ」


荷台には、乾燥させた灰緑色の葉が積まれていた。


尽は香料だと思った。レムリアの香辛料をすべて知っているわけではない。布包みの端には、赤い蝋で封がしてある。


乗客は七人。


大きな角を布で巻いた魔族の商人。


耳の長い灰毛の獣人夫婦。


顔を深い頭巾で隠した薬師。


人族に見える若い荷役人二人。


最後に、黒い革鎧を着た女護衛。


赤曜側へ向かう商隊にしては、魔族が多い。


尽は少し気になったが、氷風城では珍しくない。人族商隊が魔族の護衛を雇い、魔族商人が人族の帳場を使う。所属を外見だけで決めるなと、何度も言われている。


鐘が鳴った。


荷車が動き出す。


大隧道の分岐へ入る直前、左手に金色の旗が見えた。


香料商隊、と書いてある。


尽は荷札を出した。


三日月印。


自分の車の旗も三日月印。


間違っていない。


そう思った時、向こうの金旗の下にオルド工房の小僧がいた。両手で何かを振っている。


地図だった。


上下をひっくり返しながら、こちらを指している。


尽は立ち上がった。


「止めてください」


御者は手綱を緩めなかった。


「分岐内では止められん」


「商隊を間違えたかもしれません」


「札を見せろ」


御者は片手で受け取り、三日月印を見る。


「合ってる。黒枝経由、夜冕城ヴィレスタ方面」


「ソラヴェインへ行く札です」


「どこに書いてある」


尽は荷札を裏返した。


オルドの字で、〈赤曜側領事所へ〉。


その下に別の印。


〈第三環門・金札路〉。


三日月印は、商隊の集合印に見えただけで、行き先の認証ではない。


御者が眉を寄せた。


「受付が積み違えたな」


「戻れますか」


「分岐を抜ければ待避所がある。そこで降りて、歩いて戻る」


黒革の女護衛が口を挟んだ。


「戻るなら早い方がいい。影門を越えた後は、通行札の変更に保証人が要る」


「どれくらい歩きますか」


「今なら半刻」


それなら戻れる。


尽が工具袋を肩へ掛け直した時、荷車の下で硬い音がした。


一度。


二度。


三度目に、車体が左へ沈んだ。


御者がすぐ手綱を引く。


灰尾獣が低く鳴いた。後ろの車も止まり、隧道の中へ怒鳴り声が響く。


尽は荷台から降りた。


左後輪の軸受けが熱を持っている。油受け蓋の端が曲がり、黒い粉が漏れていた。


「動かすな」


尽は手袋をはめた。


「あと少しで待避所だ」


「あと少し動かしたら軸が焼き付きます。ここで折れたら、後続も通れない」


御者が舌打ちし、後方へ停止旗を送った。


尽は荷札を見た。


旅費は車軸点検二回、灯具修理一回で相殺。


最初の仕事が、出発して半刻もしないうちに来た。


曲がった蓋を外す。内側に細い金属片が噛んでいる。


軸受けそのものが割れたのではない。以前の補修で使った止め輪が緩み、削れた破片が油路へ入り込んだらしい。


尽は工具袋から小さな磁石を出した。


この世界へ来た頃、オルドからもらった物だ。地球なら珍しくないが、レムリアでは質の揃った磁石は高い。


油へ落とす前に糸で縛り、隙間へ入れる。


一つ。


二つ。


細い鉄片が付いた。


残りは木の針と布で拭い取る。


女護衛がしゃがみ込んだ。


「直るか」


「待避所までは。そこで止め輪を作り直します」


「魔法で冷やせば早い」


「急に冷やすと、熱い軸と外輪の縮み方が違って割れます」


「面倒な物だな」


「車輪は大体、面倒です」


女護衛は少し笑った。


応急処置を終え、荷車は低速で待避所へ入った。


尽が新しい止め輪を削っている間に、赤曜側の商隊は別の隧道を抜けていった。戻り便は、次の曜刻までない。


歩いて氷風城へ戻ることはできる。


ただし、分岐受付はすでに積み違いを認め、尽の旅費を全額返すと申し出ていた。碧暮側の最初の関所まで同行するなら、商隊は追加報酬も払うという。


御者は困っていた。予備の止め輪は一つ。次に同じ故障が起きれば、薬草を期限内に届けられない。


「どこまで行くんですか」


尽が聞いた。


「黒枝宿場。そこから荷を分ける。一部は夜牙外縁、一部は夜冕城ヴィレスタ」


夜冕城ヴィレスタ。


地図では見たことがある。碧暮域で最も大きな都市の一つ。魔王が住み、人族の案内書では危険地域として赤い線が引かれていた。


もっとも、その案内書は魔族の商人を一人も取材していなかった。


尽は作り直した止め輪を軸へ入れた。手で回し、横揺れを測る。


戻れば、次の赤曜行きを待てる。


進めば、予定とは反対側へ行く。


地球へ帰る手掛かりが赤曜側だけにあるという証拠はない。だが、危険が増えることは確かだった。


女護衛が立ち上がる。


「無理に来いとは言わん。黒枝までなら私が保証人になる。そこで戻るか、次の隊へ乗るか決めればいい」


「どうしてですか」


「車軸を直した。借りを借りのままにすると、商隊の帳面が合わん」


尽はその言い方が少し気に入った。


オルドなら、着いてから礼を言え、と言うだろう。


工具袋には、帰りの費用が足りない。赤曜側の学院へ行けば、さらに授業料が要る。黒枝まで働けば、旅費に少し余りが出る。


それに、積み荷の灰緑色の葉が気になっていた。


「これは何の薬草ですか」


御者が布包みを叩く。


「暮眠苔。夜牙の狩人が使う。傷の熱を下げ、少量なら魔力の流れをゆっくりにする」


魔力の流れを、ゆっくりにする。


尽は工具袋の底にある小さな缶を思い出した。


地球から持ってきたポテトチップスは、もうわずかしかない。


一枚食べれば力が一気に出て、身体が止まる。もし流れを遅くできるなら、爆発するような供給を少し長く伸ばせるかもしれない。


「黒枝まで行きます」


御者が頷く。


女護衛は名乗った。


「ナージャ。商隊護衛だ」


「風間尽です」


「知ってる。荷札に書いてある」


止め輪の試運転が終わり、荷車は再び動き出した。


分岐を抜ける。


赤曜の光が背後へ回る。


前方の岩壁には、青緑色の細い鉱脈が見え始めた。空気の冷たさが変わる。温度だけではない。影が物の後ろへ落ちず、足元へ薄く広がっている。


尽は地図を開いた。


赤曜を上に置く。


現在地が読めない。


碧曜を上にして回す。


黒枝宿場へ続く道が、ようやくまっすぐになった。


地図を北へ向けたせいで、行きたかった赤い国は背後へ逃げた。


いや、逃げたのは国ではない。


間違えたのは自分だ。


尽は帳面を開き、新しい頁の一番上へ書いた。


〈目的地変更。理由、集合印の誤認と地図方位の固定観念。〉


少し考え、その下へもう一行足す。


〈黒枝まで同行。暮眠苔の用途を確認する。以後の進路は現地で再判断。〉


ナージャが横から覗き込んだ。


「失敗まで書くのか」


「書かないと、次も同じ門へ行くので」


「次は旗の色を見ろ」


「色だけで決めると、塗り直した旗で間違えます」


「面倒な子だな」


「よく言われます」


荷車は碧暮側へ下っていく。


遠くで、電話の呼び出し音に似た音が鳴った。


一度。


間を置いて、二度。


尽の指が、無意識に指輪へ触れる。


ナージャは剣の柄へ手を置いた。


「返事をするな」


「何の音ですか」


「人が一番帰りたい場所の音を真似る獣だ」


青緑の岩陰で、何かがこちらと同じ速さで動いていた。


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